著者
樋口 雄彦
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.109, pp.47-92, 2004-03-01

維新後、旧幕臣は、徳川家に従い静岡へ移住するか、新政府に仕え朝臣となるか、帰農・帰商するかという選択を迫られた。一方、脱走・抗戦という第四の選択肢を選んだ者もいた。箱館五稜郭で官軍に降伏するまで戦った彼らの中には、洋学系の人材が豊富に含まれていた。榎本武揚ら幹部数名を除き、大多数の箱館戦争降伏人は明治三年(一八七〇)までには謹慎処分を解かれ、静岡藩に帰参する。一部の有能な降伏人は静岡・沼津の藩校等に採用されたが、「人減らし」を余儀なくされていた藩の内情では、ほとんどの者は一代限りの藩士身分と三人扶持という最低の扶持米を保障されることが精一杯であった。勝海舟は、箱館降伏人のうち優れた人物を選び、明治政府へ出仕させたり、他藩へ派遣したりといった方法で、藩外で活用しようとした。降伏人が他藩の教育・軍事の指導者として派遣された事例として、和歌山・津山・名古屋・福井等の諸藩への「御貸人」が知られる。なお、御貸人には、帰参した降伏人を静岡藩が直接派遣した場合と、諸藩に預けられ謹慎生活を送っていた降伏人がそのまま現地で採用された場合とがあった。一方、剣客・志士的資質を有した降伏人の中には、敵として戦った鹿児島藩に率先遊学し、同藩の質実剛健な士風に感化され、静岡藩で新たな教育機関の設立を発起する動きも現れた。人見寧が静岡に設立した集学所がそれで、士風刷新を目指し、文武両道を教えるとともに、他藩士との交遊も重視した。鹿児島藩遊学とそれがもたらした集学所は、藩内と藩内外での横の交流や自己修養を意図したものであり、洋学を通じ藩や国家に役立つ人材を下から上へ吸い上げるべく創られた静岡学問所・沼津兵学校とは全く違う意義をもつものだった。

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@yoshino_siki @mohei99 @mi_okusawa こちらで載っていました。やはり『久能山叢書』五巻が出典のようです。青山、花俣の他に金指隆造、伴門五郎らについても家督の情報が書かれているようです。 https://t.co/wpT6mvKAut

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