著者
樋口 雄彦
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.125, pp.119-156, 2006-03-25

大原幽学は、全国を流浪した後、下総国香取郡長部村(千葉県干潟町)に居を定め、産業組合組織による耕地整理・農業技術改良・農作業の計画化・消費物資の共同購入といった方法で、天保期の荒廃した農村を建て直そうとした人物である。利己心を制し勤勉につとめ禁欲的に生活すべしというその主張は、道徳と経済とを統一した実践哲学であり、多くの農民が門人となり教えを奉じた。幽学の思想は、性理学(性学)と呼ばれたが、村を越え広範に広まったその教えは、やがて幕府の嫌疑を受けることとなり、安政五年(一八五八)、幽学は自害する。明治維新をはさみ、性理学は二代目・三代目の教主に引き継がれていった。門人には、大多数を占める下総農民に混ざって、江戸の幕臣、東京・静岡の旧幕臣が加わった。幽学を恩人と慕い、幕府による弾圧の際も支援を惜しまなかった御家人高松家の存在が端緒といえるが、幽学没後同家が性理学から離れていったのに対し、別の幕臣たちの間で性理学が受容されることになった。特に明治十年代、東京在住の旧幕臣男女の間で急速に普及する。彼らの生活ぶりは、丁髷を切らず、肉食はせず、馬車・鉄道には乗らずといった、文明開化の世相に反するものであり、周囲からは隔絶した一種異様なコロニーを形成したようである。反文明・反西洋の態度を取った明治の旧幕臣性理学徒であるが、そのグループの中には、幕末維新期に横浜語学所・沼津兵学校・静岡学問所といった先端的な洋学機関で学び教えた経歴を持つ人物がいた。洋学から性理学へという転向は、彼のいかなる経歴の中に位置づけられるのか。本稿では、主としてその伊藤隼という人物に関する史料を紹介することを通じて、明治の旧幕臣が残した思想遍歴の跡をたどってみたい。

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