著者
井上 智勝
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.148, pp.269-287, 2008-12-25

本稿は、近世における神社の歴史的展開に関する通史的叙述の試みである。それは、兵農分離・検地・村切り・農業生産力の向上と商品経済の進展など中世的在り方の断絶面、領主による「神事」遂行の責務認識・神仏習合など中世からの継承面の総和として展開する。一七世紀前半期には、近世統一権力による社領の没収と再付与、東照宮の創設による新たな宗教秩序の構築などが進められ、神社・神職の統制機構が設置され始めた。兵農分離による在地領主の離脱は、在地の氏子・宗教者による神社運営を余儀なくさせ、山伏など巡国の宗教者の定着傾向は神職の職分を明確化し、神職としての自意識を涵養する起点となった。一七世紀後半期には、旧社復興・「淫祠」破却を伴う神社および神職の整理・序列化が進行し、神祇管領長上を名乗る公家吉田家が本所として江戸幕府から公認された。また、平和で安定した時代の自己正当化を図る江戸幕府は、国家祭祀対象社や源氏祖先神の崇敬を誇示した。一八世紀前半期には、商品経済が全国を巻き込んで展開し、神社境内や附属の山林の価値が上昇、神社支配権の争奪が激化し始める。村切りによって、荘郷を解体して析出された村ではそれぞれ氏神社が成長した。また、財政難を顕在化させた江戸幕府は、御免勧化によって「神事」遂行の責務を形骸化させた。一八世紀後半期には、百姓身分でありながら神社の管理に当たる百姓神主が顕在化した。彼らを配下に取り込むことで神職本所として勢力を伸ばした神祇官長官白川家が、吉田家と対抗しながら配下獲得競争を展開し、復古反正の動向が高まる中、各地の神社は朝廷権威と結節されていった。また、神社は様々な行動文化や在村文化の拠点となっていた。明治維新に至るまでの一九世紀、これらの動向は質的・量的・空間的に深化・増大・拡大してゆく。近代国家は、近世までの神社の在り方を否定してゆくが、それは近世が準備した前提の上に展開したものであった。

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「それまで不明であっても特段不都合のなかった神社の基礎事項が確定されて行く事態が進行した。その過程において祭神や由緒の均質化が進行していったが、それは在地に伝承された神格や由緒が駆逐され、記紀神話などの中央の神体系に組み込まれて行く過程でもあった」p280より https://t.co/qD0JGGF9f1
「一七世紀の後期以降、諸侯が自らの信仰から、また先祖の追善・顕彰の意図から、自身や先祖を神に祀ることが多くなったことが関連していると考えられる。民政に尽くした役人が神に祝われるようになってゆくのも、このような動向の帰趨であった」ほーん 近世神社通史稿 https://t.co/9hFWIslnRM
@Arai_Nyanga 日本の神職はもともと国家や集落のためのもの(これは卑弥呼的な祭政一致が起源かもしれないのだ)なので、恐らく成員同士の利害関係から中立を取るために、国家や集落から飯を貰える専門職なのだ。その分神職は数が少なく、一人が広い範囲の多くの神社を祀っていたらしいのだ。 https://t.co/L9DWNIg9Sy

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