著者
笠谷 和比古
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.35-47, 2000-10-31

本論文では豊臣秀吉没後の慶長四(一五九九)年閏三月に発生した加藤清正ら豊臣七武将による石田三成襲撃事件の顛末を取り上げ、ことに同事件を事実関係の究明の観点から検討する。関ヶ原合戦の端緒をなすこの著名な事件の経緯をめぐっては、豊臣武将たちの襲撃計画を事前に察知した石田三成は大阪から伏見に逃れ、そして伏見にある徳川家康の屋敷に入ってその保護を求め、家康もまたこれを受け入れて豊臣武将たちによる三成の身柄引き渡し要求を拒絶し、三成を近江佐和山の領址に逼塞させることで問題を解決に導いたという認識が示されてきた。これはただにドラマ・時代劇の筋立てだけであるのみならず、権威ある多くの歴史研究の論著においてもそのようなものとして論述されてきた。しかしながらこれは事実誤認であり、伏見に逃れ来った三成が身を守るために入ったのは家康の屋敷ではなく、伏見城の中にある彼自身の屋敷であった。関ヶ原合戦に関する多くの研究論著において繰り返し論述され、われわれにとって常識ともなっているこの事件が、事実関係という最も根本的なところで何故にこのような誤認が生じていたのか。また数多くの歴史研究者がこの問題に言及しながら何故にこのような基礎的な誤認に気がつかなかったのであろうか。本論文はこの事件の事実関係を解明するとともに、われわれの認識を束縛し、誤認に導いていく危険を常に孕んでいるところの歴史認識のメカニズムについて分析を施していく。

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