- 著者
-
田村 美由紀
- 出版者
- 国際日本文化研究センター
- 雑誌
- 日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
- 巻号頁・発行日
- vol.62, pp.173-188, 2021-03-31
本稿は、口述筆記創作における〈男性作家―女性筆記者〉というジェンダー構成に着目し、近代作家を取り巻くケア労働の問題の一端を明らかにするものである。公的領域における自律した主体概念と密接に絡みつく形で周縁化されるケア労働の問題は、作家の有名性の陰でシャドウワークとして扱われてきた女性筆記者の不可視化の構造とも通底している。 本稿では、まず作家という職業において公的領域と私的領域との境界確定がいかにおこなわれているのかを確認し、特に女性筆記者の営為が評価の対象から取りこぼされ、搾取される構造をケアの論理と重ねて整理した。そのうえで、実際に谷崎潤一郎の筆記者を務めた伊吹和子(1929 ~ 2015 年)の回想記の記述を導きに、口述者と筆記者との交渉の実態や口述筆記の現場に生じる摩擦や軋轢のありようを具体的事例として検討した。特に、伊吹が筆記者としての自身のスタンスを示すなかで繰り返す「〈書く機械〉になる」という自己認識に焦点を当て、自らの立場を非人格化した無機質なライティング・マシーンに重ね合わせる一見受動的な自称が、女性が労働する身体として主体化する際の戦略的な構えであると同時に、 筆記者の役割を矮小化する評価構造への抵抗にも繋がることを指摘した。 また、〈書く機械〉として伊吹が口述筆記の現場に参画することが、谷崎が〈小説家になる〉 という生成変化と表裏一体に立ち上がるものであることを考察した。これは、支配や抑圧といった紋切り型の言葉で表象されざるをえなかった口述者と筆記者との固定化した主従関係に風穴を開け、ケアの実践に根ざした関係性のなかにその営みを位置づけるうえで有効な視角となる。伊吹の言葉から谷崎との相互依存性を読み取ることで、口述筆記創作の現場を口述者と筆記者双方におけるアイデンティティの形成と承認の空間として捉えることが可能になると結論づけた。