著者
内田 力
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.58, pp.195-213, 2018-11-30

日本中世史家の網野善彦(生没年一九二八~二〇〇四年)は、一九七〇年代ごろから新しい歴史学の潮流(「社会史」)の代表的人物として注目されるようになり、のちに「網野史学」・「網野史観」と称される独自の歴史研究のスタイルを打ち立てた人物である。かれの歴史観は、とくに大衆文化の実作者への影響が大きく、映画監督の宮崎駿や小説家の隆慶一郎、北方謙三の作品にその影響がみられる。
著者
将基面 貴巳
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.55, pp.63-72, 2017-05-31

現在、欧米のみならず日本でも学会を揺るがせている問題のひとつに「人文学の危機」がある。ネオ・リベラリズムの席巻に伴い、人文学のような、国民経済に直接的に貢献しない学問は「役に立たない」という議論が横行するようになっている。その結果、人文学系学部・学科は各国政府やメディアからの攻撃にさらされつつある。いわゆる「日本研究」の分野に属する研究の多くは人文学的なものである以上、「人文学の危機」という問題を傍観視するわけにはゆかないであろう。実際、日本国内外を問わず、人文学系の研究者たちは、人文学の意義について積極的に発言するようになっている。しかし、そうした発言の多くは、ネオ・リベラル的潮流への批判であり、人文学の自己弁護に終始し、人文学的研究と教育の現状を再検討する視点が総じて欠落している。
著者
永田 大輔
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.65, pp.321-337, 2022-10-31

本稿では、批評的な言論の中で二次創作がいかなる文脈において「消費」と呼ばれてきたのかについて議論する。なかでも大塚英志の「物語消費」とそれを引き継いだ東浩紀の「データベース消費」がどのような文脈で論じられるようになったのかを指摘する。とりわけ大塚の議論は東を経由して理解されることが多く、大塚の議論そのものが注目されることは少ない。 これらはオタクというファン集団の「受容の様式」として論じられており、キャラクターに着目するのか、物語の受容の様式にあるのかといった形で議論されてきた。だが、そもそも「二次創作」という「創作」行為が「消費」と語られてきたのはなぜなのか、という問題については議論がなされて来なかった。実際にあるものを作ることが「生産」ではなく「消費」と呼ばれることは自明ではない。また、生計に必要なものを作っていないという意味でそれは「趣味」とも呼ばれうるが、二次創作に関しては「消費」という受動的な概念で呼ばれている。本稿では「物語消費論」において「消費」という語が用いられたことの意味を考察する。 「物語消費」において真に重要なのは、これまで制作と見なされていた行為が消費と見えるような形で、巨大企業の新たな市場戦略が現れてきたということである。それによってただ新しいものを作るだけでは生産活動という送り手側に立つことにはならず、受容者の一部になっているに過ぎないという批判的な意味が込められたものだったのである。東の「データベース消費」も実はその問題系を正確に引き継ぎつつ、もはやそうした「生産者」というものは不可視になり、誰もが受容者(「消費者」)になっているのではないかという意味で議論を展開したのである。その上で両者の論争は「生産者/消費者」という線引きがどこで行われるかを論じるものであったのである。この創作を消費と呼ぶこと、それを納得させることが可能になるような文脈を踏まえた上で、どこで「消費」と「生産」の線を引こうとしているかに個々に着目することがこれらの概念を継承していく上では重要なのである。
著者
廣田 龍平
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.63, pp.85-111, 2021-10-29

本稿は、キツネをめぐる世間話を題材として、アニミズムおよびパースペクティヴィズム理論を参照することにより、日本におけるヒトと動物の関係性の根底にある諸存在論を明らかにすることを目的とする。キツネが人間に変身したり(「化ける」)、ヒトの知覚を操作したりする(「化かす」)妖狐譚は、日本における非西洋近代的な存在論を明らかにするにあたって重要な資料になると考えられる。しかしこれまでは、ほとんど総合的な議論がなされてこなかった。それに対して本稿では、「変身」概念を中核に据えるアニミズムおよびパースペクティヴィズム理論を採用することにより、それらの理論が依拠する北アジア・南北アメリカの狩猟アニミズム世界とキツネの妖力を構造的に比較できることを示す。アニミズムにおいては、ヒトも動物も同じような霊魂を持ち、同じような文化を持つが、身体が異なる。そのため身体を変えることにより、ヒトが動物に、動物がヒトに変身することが可能になる。またパースペクティヴィズムは、身体に由来する観点の差異化により、種によって知覚される世界が異なってくることを前提とする。これらの枠組みを採用することにより、妖狐譚がうまく理解できるようになる。 本稿の中心的関心は、妖狐譚に見られるヒトと動物の関係性が、狩猟アニミズムと比較すると、構造的に反転しているという点である。狩猟アニミズムにおいてはヒトが「衣服」を身に着けて動物に変身するのに対し、妖狐譚においてはキツネが髑髏や藻などを身に着けて人間に変身する。また、狩猟アニミズムにおいてはヒトのシャーマンや精霊が、それぞれ動物や通常のヒトの観点を操作するのに対して、妖狐譚においては、キツネがヒトの観点を操作する。こうしたことから、日本のキツネは狩猟アニミズム世界におけるヒトのシャーマンや狩人の対称的反転であり、それが日本的な存在論の特徴であることが結論付けられる。
著者
岩井 茂樹
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.61, pp.45-67, 2020-11-30

本稿は、明治末期から大正時代にかけて増加した笑った写真(本稿では「笑う写真」とした)の誕生と定着過程を明確にすることを目的としたものであり、そこで重要な役割を担った雑誌『ニコニコ』の特徴について論じたものである。 従来、「笑う写真」の定着過程については、石黒敬章などによって、おおよそ大正時代のことであったということが指摘されてきたが、その原因についてはほとんど考察されることがなかった。 しかしながら、本稿では1911(明治44)年に、ニコニコ倶楽部によって創刊された雑誌『ニコニコ』が「笑う写真」の定着過程に大きな役割を担ったことを証明した。この雑誌には、従来なかったような特徴があった。その一つが「笑う写真」の多用である。口絵はもとより、本文中にも「笑う写真」を多数配していたのである。また1916(大正5)年時点での発行部数は当時もっとも多く発行されていた『婦人世界』に次ぐものであり、また図書館における閲覧回数も上位10 位内に入るほど広く読まれた雑誌であった。 この雑誌の発刊に尽力した中心人物は当時、不動貯金銀行頭取をしていた牧野元次郎という人物であったが、彼は大黒天の笑顔にヒントを得て「ニコニコ主義」という主義を提唱し、それを形象化するために雑誌『ニコニコ』に「笑う写真」を多数掲載したのである。大黒天の笑顔を手本にし、皆が大黒様のような笑顔になることを、牧野は望んだ。国民全員がニコニコ主義を信奉し、実践することによって、国際的な平和と、身体の健康、事業の成功(商売繁盛)を実現しようとしたのである。『ニコニコ』は好評を博し、大衆に広く受け入れられた。その結果、「笑う写真」が誕生し、急増した結果、大正時代になって「笑う写真」が普及したのである。 本稿によって、雑誌『ニコニコ』の特徴が示され、その普及程度が具体的な数値や言説を用いて推定されたとともに、この雑誌が「笑う写真」に及ぼした影響が明確になった。
著者
木場 貴俊
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.60, pp.159-192, 2020-03-31

狩野派で主に描かれてきた、化物の名称と容姿を個別に並べた「化物尽くし絵巻」と総称される絵巻(狩野派系統本)は、江戸文化特有の作品である。その系譜上に位置付けられる、国際日本文化研究センター所蔵『諸国妖怪図巻』(長岡多門作、18 世紀以降 以下、日文研本)は、詞書(ことばがき)がある狩野派系統本として珍しい作品である。本論は、『諸国妖怪図巻』とそれと関係する詞書がある二巻の絵巻、作者不明『化物尽くし絵巻』(國松良康氏所蔵、18 世紀以降 以下、國松本)と作者不明『怪奇談絵詞』(福岡市博物館所蔵、江戸末期~明治時代)を比較することで、各絵巻の特徴や関連性を考察したものである。
著者
池田 さなえ
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.66, pp.7-73, 2023-03-31

本稿は、明治期の政治家を中心として広がる多彩な属性の人的ネットワークを可視化する方法を考案し、それをもとに明治政治史における地方人士「組織」の問題に新たな光を当てるものである。明治期の政治においては、地方人士の中に根強く存在した強固な反政党意識や組織への強い忌避感という条件のもと、議会に基盤を持たない藩閥政府の指導者たちはそのような「組織されたくない人びと」にアプローチせざるをえなかったという固有の困難が存在した。 本稿では、このような条件下での藩閥政府の指導者による「組織」の実態を明らかにするために、藩閥指導者を中心とした地方人士のネットワーク把握の方法を考案・提示した。具体的には、明治期に地方「組織」に奔走した政治家の一つの拠点に軸を据え、明治政治史の基礎的史料である書簡のみならず、異なる種類の複数の史料から人名データを抽出し、独自の指標で四象限平面上に配置・色分けする方法である。本稿で検討対象としたのは、政社―国民協会、団体―信用組合の組織化を目指して全国をくまなくめぐり、自らの手足と耳目で「組織」することにこだわった政治家・品川弥二郎とその京都別荘・尊攘堂である。 分析の結果として、以下の諸点を指摘した。1. 品川にとって尊攘堂は、政治家別荘一般について指摘されているような政界からの逃避や慰安のためだけの場ではなく、また維新殉難志士の慰霊・祭典を行うという堂創設の本来的目的のみでもなく、在野における地方人士「組織」のための拠点、あるいは連絡機関であった。2. 品川―尊攘堂を中心とするネットワーク自体の持つ魅力に惹き寄せられ、全国から多様な属性の人びとが集まっていた。3. 尊攘堂は、これら様々な背景を持つ人びとがそれぞれの目的や持ち場を一時的に離れて集う大規模なコミュニタスであり、このようなコミュニタスを持ったことが、組織を忌避する地方人士を品川が幅広く把握できた要因であったと考えられる。
著者
内田 力
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.58, pp.195-213, 2018-11-30

日本中世史家の網野善彦(生没年一九二八~二〇〇四年)は、一九七〇年代ごろから新しい歴史学の潮流(「社会史」)の代表的人物として注目されるようになり、のちに「網野史学」・「網野史観」と称される独自の歴史研究のスタイルを打ち立てた人物である。かれの歴史観は、とくに大衆文化の実作者への影響が大きく、映画監督の宮崎駿や小説家の隆慶一郎、北方謙三の作品にその影響がみられる。 では、網野はなぜこれほどまで個性的な歴史研究者になったのか。そう考えて網野の自伝を読むと、一九五三年の夏に左翼政治運動から離脱したことが重大な転換点として語られている。本論文では、網野自身が研究上の重大な転換点として語っていた一九五〇年代の網野の活動を、同時代の左翼政治運動の潮流とつきあわせて検証した。 本論文ではまず、日本の敗戦直後における網野と共産党の関係について確認した(第一節)。そのうえで、一九五三年以降の共産党分裂期を対象として、網野をとりまく政治的状況を分析するとともに(第二節)、網野が歴史をめぐっていかなる活動を展開していたのかを分析した(第三節)。最後に、一九五〇年代後半、つまり網野が左翼政治運動から離脱したあとに、いかなるかたちで歴史研究を再開したのかを検討した(第四節)。 以上をとおして本論文では、一九五〇年代前半の一時期、国際共産主義運動の一部分に組み込まれて翻弄されていた網野善彦が、左翼運動離脱後に、政治的に否定された学説の検証に向かったことを示した。くわえて、一九五〇年代の段階ですでに、歴史を表象するメディアの問題に接していたことを指摘した。
著者
佐藤 信
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = Nihon Kenkyū (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.51, pp.63-95, 2015-03-31

本稿は、近代日本の典型的な権力者である山県有朋とその館を事例として、空間と政治の連関を研究したものである。椿山荘(東京)や無隣庵(京都)、古稀庵(小田原)といった山県の邸宅はその庭によってよく知られているが、それらの館がどのように使われていたか明らかではないところも多い。本稿は、山県有朋関係文書や田中光顕関係文書などの政治史史料を用いることで、この問題に取り組んだ。

20 0 0 0 OA 口絵

著者
クレインス フレデリック
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ
巻号頁・発行日
vol.56, 2017-10-20

18 0 0 0 OA 口絵

著者
クレインス フレデリック
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ
巻号頁・発行日
vol.57, 2018-03-30
著者
重田 みち
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.58, pp.51-79, 2018-11-30

日本中世の能楽論書『風姿花伝』五篇のうちの神儀篇は、能楽史研究をはじめ藝能史・説話史研究、民俗学等の資料として注目されてきた。しかし、その成立時期や著者を純粋に世阿弥と見てよいかどうか等、文献学的な問題が多く積み残されている。また、同篇は従来、既成の伝承を比較的素朴に綴った猿楽伝説と見られ、その著述に世阿弥の特別な意図がなかったかどうかなど、伝書としての性格や史料論的な観点に注目した検証は行われていない。
著者
山本 芳美
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.63, pp.43-83, 2021-10-29

本論は、19世紀後半から20世紀初頭における外国旅行者による日本でのイレズミ施術について取り上げる。この時代は、日本においてイレズミに対する法的規制が強化され、警察により取り締まられた時代でもある。しかし、法的規制が課せられた時代においても、日本人対象の施術がひそかに続けられていた。一方、同時期は欧米を中心にイレズミが流行した時期でもある。日本人彫師たちは、長崎、神戸、横浜ばかりでなく、香港、アジア各地の国際港に集まって仕事をしていた。状況を総合すると、日本国内の施術では、外国人客にとっては「受け皿」、彫師にとっては「抜け道」が形成されていたことが強く示唆される。つまりは、日本ならではの観光体験メニューとして、イレズミ体験が存在していたと考えられるのである。 本稿では、こうした視点から、外国人観光客と彫師、それを仲介する人々や場を歴史人類学的に分析する。1870年代以降から1948年までの日本のイレズミと規制についての概略をしめしたうえで、1881(明治14)年に英国二皇孫であるアルベルト・ヴィクトルおよびジョージが来日に際して政府高官に示した施術の希望にどのように対応したのかについて検討する。そして、この二人の施術が、外国人客たちが施術を受ける誘因となった可能性を指摘する。その上で、横浜で活動した彫師、彫千代を例に、日本のイレズミがどのように評価され、どの程度の日数でどのように彫られていたのかを整理する。客の誘致が旅行案内書やホテルのメニューなどの広告でどのようにおこなわれ、どのような勧誘者が関わっていたのかを論じる。 日本みやげのイレズミについての記述は英米圏の新聞、雑誌などに多く残っており、先行研究は英米圏が中心であった。日本人にとってはイレズミが禁止されていた時代でもあり、外国人向けの施術に関する国内外の資料は多くはないが、近年、雑誌や新聞記事のデジタル化が進んだことにより新たな資料が見つかっている。本論ではいくつかの新資料を提示しつつ、論を進めている。
著者
由谷 裕哉
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.64, pp.199-222, 2022-03-31

本稿は、柳田國男(1875-1962)が主に戦時下で主張していた氏神合同論(本稿での仮称)を、彼の戦時言説として考察する。ここでの氏神合同論とは、柳田が『日本の祭』(1942年)や『神道と民俗学』(1943年)をはじめ、敗戦後しばらくまで主張していた氏神に関する議論で、異姓の家が共同して一つの氏神を祀ることを意味づけようとする理論である。柳田は氏神を氏の神と考え、それらが合同した(合併した、統合された)ことを複数の理由から説明したが、合同したとされる氏神の例は参照されず、各々の理由も帰納的に導かれたものではなかった。また、柳田のテキストを具体的な民俗事象との対応を気にせずに思想として読もうとする、いわゆる柳田研究においては、柳田のこの議論はほぼ等閑視されてきた。こうした柳田研究は柳田の戦争への関わりについても、彼が積極的に戦争協力をしなかったと捉えようとしていた。 それに対して本稿は、柳田の氏神合同論が提唱されるのを彼の戦時体制への協力姿勢が明確になる1942年と捉え、それ以前の彼の氏神論の検討から始める。柳田が氏神を祖霊と解釈しようとした始まりを1932年の「食物と心臓」であると捉え、2年後の1934年から3年間にわたり柳田の門下生を主な調査者として全国的に行われた通称・山村調査が、この仮説の検証を課題の一つとしたと考えられるとする。しかし、この検証は成功せず、さらに1936年頃から宗教学者の原田敏明が実証的な調査に基づき、氏神は地域的な性格を持ち、土地に即した存在であると主張した。 本稿は以上の1930年代における動向を踏まえ、1942年の『日本の祭』を端緒としたと考えられる氏神合同論を、個々のテキストの文脈に即して抽出し、柳田の戦時体制への対応とどう関わるかと併せて考察する。とくに氏神合同論と戦時体制への対応とが密接に結びつけられた言説として、『神道と民俗学』および長野県東筑摩郡での氏神調査に関わる1943年7月の講演に注目する。この講演以降の柳田の言説をも考慮し、氏神は戦時に軍神に続いて死ぬ人々の信仰を支える存在であるので、それが氏の神ではなく合同して産土(うぶすな)のようにローカルな神となったところに意味がある、と柳田が考えていたと導くことを結論とする。
著者
清松 大
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.64, pp.91-106, 2022-03-31

高山樗牛の唱えた「美的生活論」は、登張竹風による解説を一つの契機として、その「本能主義」的側面がニーチェの個人主義思想と強固に結びつきながら理解された。樗牛の美的生活論は文壇内外で多くの批判や論争を呼ぶとともに、同時代の文学空間を熱狂的なニーチェ論議へと駆り立てていった。 なかでも、坪内逍遙が「馬骨人言」において創出した「滑稽」な戯画的ニーチェ像は、『中央公論』や『新声』、『文庫』、『饒舌』といった、文学志向の青年たちを主たる読者層としていた雑誌において、その姿形を変えながら増殖していくことになる。そこでは、美的生活論の思想や樗牛という存在自体が「滑稽」化され、時には「滑稽」的なニーチェ像をつくりだした張本人たる逍遙をも組み込みながら、ニーチェ思想や美的生活論をめぐる論争そのものが戯画化された。 こうした現象は、「文閥打破」を掲げて既成文壇の批判者を自任し樗牛とも敵対関係にあった青年雑誌の特質を反映したものとみなすことができる。そして、中央文壇や論壇への対抗意識を燃やす青年たちの武器として選び取られた「滑稽」や「諷刺」への問いと実践は、美的生活論争以前にほかならぬ樗牛・逍遙によってたたかわされていた「滑稽文学(の不在)」をめぐる論争以降の文学空間に伏在していた要求であった。「馬骨人言」以後の「滑稽」的なニーチェ像の再生産や美的生活論の戯画化は、そうした時代の要求が表出したものとしても意味づけられる。 従来、高山樗牛という存在は明治期の青年層から敬慕された対象として語られることが多かったが、本稿では、中央文壇に対する明確な敵対意識を有していた青年雑誌と樗牛との間に緊張関係を見出し、「青年」と樗牛との関係性をとらえ直す契機を提示する。また同時に、明治期の文学空間において「滑稽」や「諷刺」といった問題がどのような意義を有していたかを問い直す視座を開こうとするものである。
著者
西田 彰一
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.58, pp.139-167, 2018-11-30

本稿では筧克彥の思想がどのように広がったのかについての研究の一環として、「誓の御柱」という記念碑を取り上げる。「誓の御柱」は、一九二一年に当時の滋賀県警察部長であり、筧克彥の教え子であった水上七郎の手によって発案され、一九二六年に滋賀県の琵琶湖内の小島である多景島に最初の一基が建設された。水上が「誓の御柱」を建設したのは、デモクラシーの勃興や、社会主義の台頭など第一次世界大戦後の急激な社会変動に対応し、彼の恩師であった筧克彥の思想を具現化するためであった。