著者
内田 力
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.58, pp.195-213, 2018-11-30

日本中世史家の網野善彦(生没年一九二八~二〇〇四年)は、一九七〇年代ごろから新しい歴史学の潮流(「社会史」)の代表的人物として注目されるようになり、のちに「網野史学」・「網野史観」と称される独自の歴史研究のスタイルを打ち立てた人物である。かれの歴史観は、とくに大衆文化の実作者への影響が大きく、映画監督の宮崎駿や小説家の隆慶一郎、北方謙三の作品にその影響がみられる。
著者
木場 貴俊
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.60, pp.159-192, 2020-03-31

狩野派で主に描かれてきた、化物の名称と容姿を個別に並べた「化物尽くし絵巻」と総称される絵巻(狩野派系統本)は、江戸文化特有の作品である。その系譜上に位置付けられる、国際日本文化研究センター所蔵『諸国妖怪図巻』(長岡多門作、18 世紀以降 以下、日文研本)は、詞書(ことばがき)がある狩野派系統本として珍しい作品である。本論は、『諸国妖怪図巻』とそれと関係する詞書がある二巻の絵巻、作者不明『化物尽くし絵巻』(國松良康氏所蔵、18 世紀以降 以下、國松本)と作者不明『怪奇談絵詞』(福岡市博物館所蔵、江戸末期~明治時代)を比較することで、各絵巻の特徴や関連性を考察したものである。
著者
岩井 茂樹
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.61, pp.45-67, 2020-11-30

本稿は、明治末期から大正時代にかけて増加した笑った写真(本稿では「笑う写真」とした)の誕生と定着過程を明確にすることを目的としたものであり、そこで重要な役割を担った雑誌『ニコニコ』の特徴について論じたものである。 従来、「笑う写真」の定着過程については、石黒敬章などによって、おおよそ大正時代のことであったということが指摘されてきたが、その原因についてはほとんど考察されることがなかった。 しかしながら、本稿では1911(明治44)年に、ニコニコ倶楽部によって創刊された雑誌『ニコニコ』が「笑う写真」の定着過程に大きな役割を担ったことを証明した。この雑誌には、従来なかったような特徴があった。その一つが「笑う写真」の多用である。口絵はもとより、本文中にも「笑う写真」を多数配していたのである。また1916(大正5)年時点での発行部数は当時もっとも多く発行されていた『婦人世界』に次ぐものであり、また図書館における閲覧回数も上位10 位内に入るほど広く読まれた雑誌であった。 この雑誌の発刊に尽力した中心人物は当時、不動貯金銀行頭取をしていた牧野元次郎という人物であったが、彼は大黒天の笑顔にヒントを得て「ニコニコ主義」という主義を提唱し、それを形象化するために雑誌『ニコニコ』に「笑う写真」を多数掲載したのである。大黒天の笑顔を手本にし、皆が大黒様のような笑顔になることを、牧野は望んだ。国民全員がニコニコ主義を信奉し、実践することによって、国際的な平和と、身体の健康、事業の成功(商売繁盛)を実現しようとしたのである。『ニコニコ』は好評を博し、大衆に広く受け入れられた。その結果、「笑う写真」が誕生し、急増した結果、大正時代になって「笑う写真」が普及したのである。 本稿によって、雑誌『ニコニコ』の特徴が示され、その普及程度が具体的な数値や言説を用いて推定されたとともに、この雑誌が「笑う写真」に及ぼした影響が明確になった。
著者
重田 みち
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.58, pp.51-79, 2018-11-30

日本中世の能楽論書『風姿花伝』五篇のうちの神儀篇は、能楽史研究をはじめ藝能史・説話史研究、民俗学等の資料として注目されてきた。しかし、その成立時期や著者を純粋に世阿弥と見てよいかどうか等、文献学的な問題が多く積み残されている。また、同篇は従来、既成の伝承を比較的素朴に綴った猿楽伝説と見られ、その著述に世阿弥の特別な意図がなかったかどうかなど、伝書としての性格や史料論的な観点に注目した検証は行われていない。
著者
西田 彰一
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.58, pp.139-167, 2018-11-30

本稿では筧克彥の思想がどのように広がったのかについての研究の一環として、「誓の御柱」という記念碑を取り上げる。「誓の御柱」は、一九二一年に当時の滋賀県警察部長であり、筧克彥の教え子であった水上七郎の手によって発案され、一九二六年に滋賀県の琵琶湖内の小島である多景島に最初の一基が建設された。水上が「誓の御柱」を建設したのは、デモクラシーの勃興や、社会主義の台頭など第一次世界大戦後の急激な社会変動に対応し、彼の恩師であった筧克彥の思想を具現化するためであった。
著者
頼 衍宏
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.58, pp.9-49, 2018-11-30

法隆寺金堂に珍蔵されている「銅像薬師如来坐像」という国宝の光背銘は、日本の国語学ないし古典文学の領域で重要な位置を占めている。その文体について、現代の有力説では和文とされている。一方で、「正格の漢文」という波戸岡旭の説もある。ここでは、この少数説を支持して、訓詁・音韻・修辞という三つの側面から検証した。 字義については、とくに八箇所の文字列に即して考証する必要がある。そのために、中国の類書・正史・総集・金文・造像記・敦煌変文にとどまらず、日本で写経された漢訳仏典も視野に入れて、しかるべき用例を若干拾った。結果、純漢文体で読むことができた。この観点に基づいて、筆者は新しい読み下し文を作成してみた。 字音については、『切韻』の韻摂を導入して、銘文における韻字の分布を調査してみた。また、西周の散文のなかに存在する押韻をもつ金文、言い換えれば、非定型のなかに韻字を布陣する金石文の技法に注目しつつ、本銘の押韻状況を割り出した。 従来論じられていない修辞については、まず異なる字数五十八字のうち「大」「天」という執筆者の愛字から見ていく必要がある。その十二回ほど繰り返されている主旋律および配置の有り様は、唐詩に示された技法を抜きにしては考えられない。そのうえ、本銘を検討すると、前半の「大宮治天下」「天皇」「大」「賜」「歳次」「年」「仕奉」の七箇所が後半でそのまま繰り返されているという技巧も発見した。総合的に観察すると、同心円・渦・波という繫がりが認められる。冒頭の「池」に因んだ二十一箇所の修辞は、ちょうど発願の「丙午」から完成の「丁卯」までの二十一年間に相当する。 以上の考察により、正格漢文体とする少数説を復権させるとともに、現行における文学史の主流的な記述の仕方の刷新を提起したい。
著者
佐竹 真城
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
no.60, pp.221-254, 2020-03-31

小論で扱う『往生礼讃光明抄』は、神奈川県立金沢文庫管理の国宝称名寺聖教に属する一書で、撰者は法然門下の覚明房長西である。本書について、文永5(1268)年の書写奥書を有していることから、『往生礼讃』の註釈書として最初期に位置付けることができ、史料として貴重である。撰者の長西については、法然の室への入門は遅かったが、後に九品寺(くぼんじ)流と称する一派を形成していることから、法然門下のなかでも重要視される人物である。しかしながら、九品寺流は早くに途絶え、その著作も殆どが早くに散逸していたため、第三者の所伝のほかは詳細を知る術がなかった。ところが、昭和の調査で本書を含めた数点の長西著作が顕出されたのである。以降、学界としてその重要性・貴重性は大いに認識され、真の長西教義が明らかにされることが期待されていた。しかしながら、筆者以前に実際に翻刻された典籍は僅かであり、十分に研究が進展しているとは言い難い。また、これら未翻刻の典籍には、同時代に活躍した浄土宗第三祖良忠への影響を指摘することができる。如上の点から、長西研究のみならず、当時の法然門下の交流や思想交渉など、従来知られていなかった点を明らかにする上で、貴重な史料と成り得ると考える。よって小論は、長西研究ならびに中世浄土教研究の進展を期して翻刻を公開する。

5 0 0 0 OA 口絵

著者
木場 貴俊
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.60, 2020-03-31
著者
内田 力
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.58, pp.195-213, 2018-11-30

日本中世史家の網野善彦(生没年一九二八~二〇〇四年)は、一九七〇年代ごろから新しい歴史学の潮流(「社会史」)の代表的人物として注目されるようになり、のちに「網野史学」・「網野史観」と称される独自の歴史研究のスタイルを打ち立てた人物である。かれの歴史観は、とくに大衆文化の実作者への影響が大きく、映画監督の宮崎駿や小説家の隆慶一郎、北方謙三の作品にその影響がみられる。 では、網野はなぜこれほどまで個性的な歴史研究者になったのか。そう考えて網野の自伝を読むと、一九五三年の夏に左翼政治運動から離脱したことが重大な転換点として語られている。本論文では、網野自身が研究上の重大な転換点として語っていた一九五〇年代の網野の活動を、同時代の左翼政治運動の潮流とつきあわせて検証した。 本論文ではまず、日本の敗戦直後における網野と共産党の関係について確認した(第一節)。そのうえで、一九五三年以降の共産党分裂期を対象として、網野をとりまく政治的状況を分析するとともに(第二節)、網野が歴史をめぐっていかなる活動を展開していたのかを分析した(第三節)。最後に、一九五〇年代後半、つまり網野が左翼政治運動から離脱したあとに、いかなるかたちで歴史研究を再開したのかを検討した(第四節)。 以上をとおして本論文では、一九五〇年代前半の一時期、国際共産主義運動の一部分に組み込まれて翻弄されていた網野善彦が、左翼運動離脱後に、政治的に否定された学説の検証に向かったことを示した。くわえて、一九五〇年代の段階ですでに、歴史を表象するメディアの問題に接していたことを指摘した。
著者
古俣 達郎
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.58, pp.107-137, 2018-11-30

本稿では、明治末のアメリカ人留学生で日本学者であったチャールズ・ジョナサン・アーネル(Charles Jonathan Arnell 1880-1924)の生涯が描かれる。今日、アーネルの名を知るものは皆無に等しいが、彼は一九〇六(明治三十九)年に日本の私立大学(法政大学)に入学した初めての欧米出身者(スウェーデン系アメリカ人)である。その後、外交官として米国大使館で勤務する傍ら、一九一三年に東京帝国大学文科大学国文学科に転じ、芳賀矢一や藤村作のもとで国文学を修めている(専門は能楽・狂言などの日本演劇)。卒業後は大学院に通いながら、東京商科大学(現:一橋大学)の講師に就任し、博士号の取得を目指していたが、「排日移民法」の成立によって精神を病み、一九二四年十一月、アメリカの病院で急逝した。
著者
フィットレル アーロン
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
no.60, pp.9-38, 2020-03-31

本稿では、二重文脈歌の翻訳方法について検討し、翻訳の改善に向けて、翻訳方法を提案してみた。古典文学、特に和歌を外国語に翻訳する際、掛詞という、日本語の語彙と構造と深く関わる修辞法を目標言語にも伝えるのは極めて難しいことである。掛詞の一方である景物ともう一方である人事との間に、音声以外の共通点が見出しがたい場合、目標言語への翻訳または反映がさらに困難で、先行翻訳において様々な工夫がなされてきてはいるものの、問題が解決されているとは言い難い。そもそも、掛詞は種類も、一首の和歌の中での数も多く、縁語とともに出てくる例も多い。また、景物と人事の関係もさまざまであり、ときには音の繫がり以外の関連が見つけにくい例もあるが、景物と人事の性質が類似する例も多い。稿者は和歌のハンガリー語訳も行っているため、本稿ではハンガリー語訳を中心に、翻訳または反映が最も困難であると考えられる、多くの掛詞と縁語を使用した二重文脈歌の西洋の言語への翻訳方法について考察した。最初に、掛詞の本質について、同音異義の修辞法に関する主な先行研究を参考にして確認した。次に、外国語訳が複数ある『古今和歌集』と『新古今和歌集』、『百人一首』の二重文脈歌を中心に、英訳と独訳の先行例をとおして、二重文脈歌の現在までの翻訳方法を検討し、11 の翻訳方法を識別し、例をあげて分析し、その問題点を示した。最後に、掛詞の本質をより正確に伝達する翻訳方法を提案し、翻訳実践を行った。上記の検討と合わせて、二重文脈歌の特質を最も正確に伝える翻訳方法は、景物の文脈を表面に出し、人事の文脈を潜在化して、言葉の選択または擬人法によって暗示する、寓喩的な方法であると結論付けた。
著者
マスキオ パオラ
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.58, pp.81-106, 2018-11-30

『寓骨牌』(天明七[一七八七]年刊)は、その時期に江戸で大流行していた「めくりカルタ」(ポルトガル由来のトランプカードで行われるカードゲーム)を擬人化して登場させる山東京伝の黄表紙である。従来の研究では、珍しい題材の擬人者の一つとして挙げられてきたが、特に意義があるとはされてこなかった。しかし、当時の読者が持っていためくりカルタの知識を意識しながら本作を読むことで、その構成や娯楽性を理解することができる。 本稿ではまず、めくりカルタの基礎知識や遊び方を紹介し、『寓骨牌』でそれぞれの札がどのように擬人化されているかを分析した。『寓骨牌』の擬人化の手法はゲームにおける役割を反映しているといえる。例えば、クラブ・スペード・ダイヤ・ハートに当たるハウ(青札)・イス(赤札)・オウル・コップの四種一~十二の計四十八枚のうち、最大の点数が付く青札の六は、姫君の六大御前として擬人化されている。実際のゲームで点数の高い札が狙われるように、『寓骨牌』の物語で六大御前はさまざまな登場人物に思いを寄せられる。 次に、作品の趣向を考察した。「めくり」のルールを意識しながら物語を読んだ結果、登場人物の関係もゲームを反映していることがわかる。例えば、赤蔵がお七と桐三郎を追いかけている時に、鬼と幽霊が突然現れて難儀を救う場面は、ある遊戯者が赤札の七で青札の七を取ろうとしている様子に、ジョーカーのような役割を果たす鬼札や幽霊札が突然現れるゲームの様子に見立てられている。よって、『寓骨牌』は「カルタ見立て」の趣向を持っているといえる。 このような解釈によって、山東京伝の擬人物黄表紙における『寓骨牌』の位置付けを改めて考察することが必要になる。京伝が『御存商売物』(天明二年)で人気作者となってから素材を変えて同じパターンで天明期に執筆した擬人物黄表紙と比較して、『寓骨牌』では擬人化された札にお家騒動に見立てためくりの勝負を演じさせることで、「お家騒動の擬人物」の趣向をさらに複雑にし、凝りに凝った作品を生み出した。この後、寛政の改革以降の大衆化した京伝の黄表紙には、そのように細かく編まれた擬人物は見出されない。そのため、『寓骨牌』は京伝の擬人物黄表紙の到達点と見なせるのではないか。
著者
カウテルト ウィーベ
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.59, pp.7-35, 2019-10-10

日本から東インド会社を通じて輸入された高価な陶芸・染織品・漆工芸品などの珍品は、17世紀後半に北西ヨーロッパ貴族たちの手に渡り、とりわけ日本の着物は大人気を博した。また、漆工芸においては豪華に装飾された蒔絵簞笥が驚くほどの高値で販売された。これらの珍品にみられる日本美はウィリアム・テンプル(一六二八~一六九九)によって「シャラワジ」(sharawadgi)として紹介され、「シャラワジ」はイギリス風景式庭園の発展のきっかけになる言葉になった。本論では、この日本美の伝播経路と、江戸期の「洒落」と「味」の美学、現在の「しゃれ味」とのかかわりに迫ってみた。鍵なる人物は、オランダ人の文人ホイヘンス(一五九六~一六八七)と商人ホーヘンフック(?~一六七五)であった。これまで300有余年、謎の言葉であった「シャラワジ」を、当時のエッセイ、貴族の手紙や日本工芸品から解明し、江戸時代の工芸家の「しゃら味」の美学であると結論付けようとするものである。
著者
西田 彰一
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.58, pp.139-167, 2018-11-30

本稿では筧克彥の思想がどのように広がったのかについての研究の一環として、「誓の御柱」という記念碑を取り上げる。「誓の御柱」は、一九二一年に当時の滋賀県警察部長であり、筧克彥の教え子であった水上七郎の手によって発案され、一九二六年に滋賀県の琵琶湖内の小島である多景島に最初の一基が建設された。水上が「誓の御柱」を建設したのは、デモクラシーの勃興や、社会主義の台頭など第一次世界大戦後の急激な社会変動に対応し、彼の恩師であった筧克彥の思想を具現化するためであった。 水上の活動は、国民一人一人に国家にふさわしい「自覚」を促すものであった。この水上の提唱によって作り出された記念碑が、国民精神の具現化であり、同時に筧の思想の可視化である「誓の御柱」なのである。この記念碑の建設運動は、滋賀県に建てられたことを皮切りに、水上が病死した後も彼の友人であった二荒芳徳や渡邊八郎、そして筧克彥らが結成した大日本彌榮會に継承され、他の地域でもつくられるようになった。こうした大日本彌榮会の活動は、特に秋田の伊東晃璋の事例に明らかなように、宗教的情熱に基づいて地域を良くしたいという社会教育に取り組む地域の教育者を巻き込む形で発展していったのである。 この「誓の御柱」建設運動の真価は、明治天皇が王政復古の際に神々に誓った五箇条の御誓文を、国民が繰り返し唱えるべき標語として読み替え、それを象徴する国民の記念碑を建てようと運動を展開したことであろう。筧や水上たちは、国民皆が標語としての御誓文の精神に則り、建設に参加することで、一人一人に国家の構成者としての「自覚」を持たせ、秩序に基づいた形で自らの精神を高めることを求めたのである。そしてこの大義名分があったからこそ、「誓の御柱」建設運動は地域の人々の精神的教化の素材として伊東たち地域で社会教育を主導する人々にも受け入れられ、日本各地に建設されるに至ったのである。
著者
フィットレル アーロン
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.60, pp.9-38, 2020-03-31

本稿では、二重文脈歌の翻訳方法について検討し、翻訳の改善に向けて、翻訳方法を提案してみた。
著者
宮武 慶之
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
no.59, pp.37-62, 2019-10-10

江戸時代後期に茶の湯道具の収集で著名な松江藩七代藩主松平治郷(不昧/一七五一~一八一八)の元には多くの道具商が集った。この道具商のうちの一人に本屋惣吉(了我/一七五三生)がいる。本屋惣吉については、従来、元は貸本屋であり、冬木家の道具流出に関与し、それらの道具を不昧に売却したことが知られる。また天保年間に成立した『江戸名物詩(初編)』では江戸新右衛門町角の道具商である本惣を紹介しており当時、成功したことがわかる。しかしながら、不昧と親しくし、今日でも著名な美術品の取引に関与した人物でありながら、その行状についてはこれまで明らかにされていない。また了我の後を継いだ人物として了芸(一八五七か一八五八没)がいる。新右衛門町にあった本惣は近代まで事業を続け、質商として活動していた。了芸、了我親子の行状を明らかにすることは江戸時代後期の江戸での美術品移動と本惣の経営形態を考える上でも重要と考える。そこで本稿では次の二点について論じる。一点目は本惣と不昧との交流である。不昧に多くの道具を取り次ぐ一方で、不昧に近侍し、その用をなしたことが確認できる。特に道具の取り次ぎと、茶会への参加を中心に論じることとする。二点目は本惣が天保年間に江戸で有力な道具商になっていた点に注目した上で、人と金の流れに注目する。人の動きに関しては、了芸が長命であった点に加え、子である了芸、また同じ新右衛門町に店を構えた本屋吉五郎(生没年不詳)の活動を考察の対象とする。金の動きに関しては、了我や了芸の頃の本惣の理財活動に注目する。近代の本惣は、質商と地主を兼ねており、金融と土地の観点から、本惣の初期の経営形態を明らかにする。以上の二点を中心として、これまで明らかにされていない不昧と本惣の創業の関係を明らかにする。
著者
岡﨑 滋樹
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
no.59, pp.63-90, 2019-10-10

本稿は、「畜産」と「台湾」という視点から、戦前農林省による資源調査活動の実態に迫り、政策との関わりによって調査の性格が如何に変わっていたのかを明らかにした。これまでの満鉄や興亜院を中心とした資源調査に関する研究では、調査方法そのものについて詳細な検討が進められてきたが、その調査がいかに政策と関わっていたのかという部分は検討の余地が残されていた。したがって、本稿では、まず調査を左右する政策立案の実態を検討し、その政策が調査に対して如何なる影響を与えていたのか、調査報告が如何に政策に左右されていたのかという、当時指摘されていた「政治的」な調査活動の側面に注目した。農林省が1934年5月に台湾で行った馬事調査は、台湾馬政計画の実施を見据えたものであり、実際の調査の主目的は、農林省から台湾総督府へ政策協力を依頼することにあった。政策を立案するために台湾の状況を視察することは副次的なもので、本調査で最も重視されたのは台湾総督府が如何に帝国馬政計画に参画してくれるのか、その意思確認であった。調査を担当した農林省佐々田技師による報告書は、既定の政策方針に合うように現地の様子が記されており、条件付きで今後の見通しを期待するような、巧みな文書構成が目立った。また、本報告書は政策決議を問う調査会で参考資料として配布されるが、農林省の官僚をはじめとして、他の政府委員たちも全く関心を示すことなく、誰一人としてその報告書について発言する者はいなかった。まさに形式的に立案資料を残しただけで、それを参考にして政策を構想していくというものではなかったのである。かかる政府内の動きは、戦前日本の政策立案過程の一端を示しており、官庁職員の行動規則と伝統的な作業方法は、政策立案と調査活動に重大な影響を及ぼしていた。調査活動を見る場合は、特に「政治的」な側面に注意する必要があり、資源獲得を見据えた対外調査なのか、あるいは政策協力を求める役人の出張であったのかは区別しなければならない。台湾馬事調査は、まさに既定の政策方針に左右され、資源調査という名目で実は政策協力を求めるための出張であったという、官庁職員の業務実態を示す典型例であった。
著者
岡﨑 滋樹
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.59, pp.63-90, 2019-10-10

本稿は、「畜産」と「台湾」という視点から、戦前農林省による資源調査活動の実態に迫り、政策との関わりによって調査の性格が如何に変わっていたのかを明らかにした。これまでの満鉄や興亜院を中心とした資源調査に関する研究では、調査方法そのものについて詳細な検討が進められてきたが、その調査がいかに政策と関わっていたのかという部分は検討の余地が残されていた。したがって、本稿では、まず調査を左右する政策立案の実態を検討し、その政策が調査に対して如何なる影響を与えていたのか、調査報告が如何に政策に左右されていたのかという、当時指摘されていた「政治的」な調査活動の側面に注目した。
著者
宮武 慶之
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.59, pp.37-62, 2019-10-10

江戸時代後期に茶の湯道具の収集で著名な松江藩七代藩主松平治郷(不昧/一七五一~一八一八)の元には多くの道具商が集った。この道具商のうちの一人に本屋惣吉(了我/一七五三生)がいる。本屋惣吉については、従来、元は貸本屋であり、冬木家の道具流出に関与し、それらの道具を不昧に売却したことが知られる。また天保年間に成立した『江戸名物詩(初編)』では江戸新右衛門町角の道具商である本惣を紹介しており当時、成功したことがわかる。