著者
藤原 裕
出版者
立正大学
雑誌
立正大学人文科学研究所年報 (ISSN:03899535)
巻号頁・発行日
vol.34, pp.19-40, 1997-03-20

この世を表現することが現実よりさらに重要であると,バルザックに教えられ,そうした認識に至る時間をうまく獲得できたプルーストは,稀にみる記憶力と感性の持ち主であった。自ら記憶を正確に呼び起こしたり,自分の思い出が立ち現れる奇跡をひたすら待ってついに実現したのである。その上かれは一度に多くのことを考える能力を持っており,かれの美意識のあらゆる傾向は,文学の創造に関わる芸術のさまざまな形を設定することにあった。「失われた時を求めて」の中で創造された,ベルゴット,エルスチール,ヴァントゥイュという三つの人物像のコレスポンダンスは,ワグナーの総合芸術によって説明されるにふさわしいものである。永年プルーストと音楽につき研究の旅をつづけた果実として,1967年から五十余度にわたり渡欧して,主にプルーストが愛した絵画の数々につねに接し,作品と画家の人生を踏査し,プルーストが想像したヴィジョンに近づく努力をつづけた。この論文はその一端であるが,各章のなかでは作家の絵画についての審美観がいかに劇的に生まれたかを述べる。プルーストが試みる芸術の定義は,リアリズムの概念を反駁することである。プルーストはつねに芸術家たちの作品と人生を考えていたが,これらの作品を味わいながら,その生みの苦しみを知らないことを自覚していた。かれはその師セアイユの影響で,人生の究極の真実は芸術の中にあると考え,人生を崇高なものにするのは詩人の役割であると言った。科学のたゆみない進歩に比べて,芸術の進歩についてはホメロスの時代から考えるべくもないが,芸術の諸分野のあいだには兄弟関係が存在するとみたのである。造形芸術よりもむしろ音楽について感受性が高かったプルーストは,ラスキンに導かれて絵画や建築に接近した。そしてかれの時代にあまり知られていなかったフェルメールの発見へとつながる。ラスキンの近世の画家に対する偏見や矛盾を乗り越えながら,キリスト教,建築,古都などへのラスキン的巡礼を経て獲得した,ヴェネチア及びカルパッチオの知識は,プルーストの作品におびただしい風景と表現を与えているが,残されたその草稿をみると,抹消と書き直しによって次第にまったく別の性格を帯びるに至っている。プルーストは,カルパッチオから有名なデザイナーのフォルチュニーが着想を得ているのに深い関心を寄せ,このヴェネチア派の画家の作品を細心に見つめる。また戦時中に「失われた時」の出版社を変更して,作品に対する不道徳の批判をかわしつつ,シャルリュス男爵が,カルパッチオの絵に現れる町のようにパリが軍人で彩られているのに満足していることを付言する。まことにアルベルチーヌの衣装は,カルパッチオの「聖女ウルスラ」のなかの婚約者の出発の場面や「グラードの大司教」のリアルト橋のほとりの邸の場面に見いだされるのである。オランダへの旅で始めて見たフェルメールの色彩から,プルーストはあの有名な黄色の壁面の幾重にも塗られた色の深さにあこがれる。こうしたフェルメールのアクセントは作家のいわゆる文章の手本となる。ベルゴットは死に臨んで「デルフトの風景」を見て,文学創造の神秘的な本質を把握したのであった。シャルダンについての研究を書いたプルーストは,その静物(NATURES MORTES)を生きている物体(NATURES VIVANTES)と命名し直し,それをシャルダンの最大の教訓とした。プルーストは作中人物の画家エルスチールのモデルを,ワトーの絵に現れるイタリア喜劇の俳優から得ているとはいえ,シャルダンをバルザック以前の最大の日常生活の観察者として見なしている。かれはシャルダンの教訓をエルスチールに与え,現実の物を描くのにシャルダンと同じ努力を払わせようとしたのである。しかし世間はエルスチールの上に,シャルダンの絵に好んで見られるあの時間的な遠近法を想像しようとしなかった。シャルダンは,すべての事物はこれを見つめる精神の前ではみな平等であって,誤った慣習と趣味によってとらわれた理念をわれわれに捨てさせ,光りのなかでは至るところに美があることをプルーストに確認させる。芸術家のなかには芸術が気晴らしの種と思っている者がいる。しかしルノワールの場合は必ずしもそんな底の浅いものではなく,細かい議論を拒否するものがあるが,生命の感覚的な部分に直接的にすっかり溶け込んでいる。しかしプルーストはこうした概念から逆の立場にある。かれにとって芸術は人間につきまとう人生の意義の形而上的な問いに答えるべき由々しき業なのだ。第一画家は外の写実に頼る代わりにせめて対象から着想を得て,自らの芸術的素養の限りを尽くそうとする。即ちルノワールはむしろ絵画を学ぶのに風景を見つめないで,カンヴアスを眺めていた。プルーストはクロード・モネを印象主義の精髄と見なして,モネは目前に家や野原があっても,それを青や赤の四