著者
波田野 節子
出版者
朝鮮学会
雑誌
朝鮮学報 = Journal of the Academic Association of Koreanology in Japan (ISSN:05779766)
巻号頁・発行日
vol.238, pp.1-33, 2016-01

一九四〇年七月の日本語小説「心相觸れてこそ」が中断したあと、李光洙は大量の対日協力的な論説、随筆、詩を日本語で発表したが、日本語小説は書かなかった。その彼が一九四三年一〇月、「加川校長」と「蠅」の二つの日本語小説を皮切りに一年間で通算七編の日本語小説を発表する。なぜ李光洙はこの時期に日本語小説を書きはじめたのか。一九四三年春、李光洙は息子の中学進学のために平安南道の江西で暮らし始めた。前年末には日本で大東亜文学者大会が開かれて李光洙も参加し、四月に朝鮮文人報国会が結成され、八月に第二回の大東亜文学者大会が開かれるという時期であったにもかかわらず、李光洙は「私事」のために田舎に引き籠ったのである。ところが、まもなく再発した結核のために、李光洙は京城にもどらざるを得なかった。彼が病床にあるあいだに息子は京城の中学に転校し、江西中学の関係者を失望させた。病勢が回復したあと李光洙が「加川校長」を書いたのは、江西中学の日本人関係者に詫びるためだったと思われる。このなかで李光洙は自らを、木村の転校の原因になる病弱な父親として登場させている。李光洙が戻ってきたころ、京城では学徒兵志願の強制が始まろうとしていて、戦況悪化のなかで知識人虐殺名簿の噂が飛び交っていた。李光洙は同胞の犠牲を減らすために対日協力を決意し、ついに東京で学徒兵志願の勧誘を行なうにいたる。このときに書かれたのが短編「蠅」である。年令制限のせいで勤労奉仕に出られない老人が七千八百九十五匹の蠅を叩き殺すという滑稽ながらも鬼気迫る姿には、この狂気の時代に李光洙が抱いた無念さが投影されている。

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著者
朝鮮學會 [編集]
出版者
朝鮮学会
巻号頁・発行日
1951
著者
波田野 節子
出版者
朝鮮学会
雑誌
朝鮮学報 (ISSN:05779766)
巻号頁・発行日
vol.199, pp.191-230, 2006-07

洪命憙の歴史小説『林巨正』は一九二八年から一九四〇年まで中断を繰り返しながら新聞と雑誌に連載された。筆者はその連載期間をつぎの三期に分けた。一九二八年から翌年の逮捕収監までの第一期、一九三二年の連載再開から三年後の病気による中断までの第二期、そして一九三七年の再開から一九四〇年後の完全中断までの第三期である。洪命憙は第二期の『義兄弟編』を執筆している途中、その当時復刻された朝鮮の正史『朝鮮王朝実録』と出会ったが、とりあえずそのまま書き続けて『火賊編』以降でこの正史を小説の材源として取り入れ、連載が完全に終わって『林巨正』を単行本にするときに、前に書いた『義兄弟編』を後で書いた『火賊編』の内容に合わせて修正したと推測される。筆者は第二期の記述に見られる時間の食い違いに疑問をいだき、原因を突きとめるためにこの時期の新聞連載と単行本のテキス卜を対校した。残念ながら原因を解明することはできなかったが、代わりに、単行本では消されて連載本テキストにだけ残された、作家の試行錯誤や推敲の跡を見出すことができた。本稿ではまた、『火賊編』冒頭の歴史的記述が、単行本にするさいに挿入されたものであることも明らかにした。この挿入は第三期における作家の創作姿勢を示唆するように思われる。
著者
山田 佳子
出版者
朝鮮学会
雑誌
朝鮮学報 (ISSN:05779766)
巻号頁・発行日
vol.194, pp.91-127, 2005-01

一九二九年、保母として東京へ渡った崔貞熙は、帰国後、三千里杜の記者として執筆活動を開始した。当初は階級問題や女性の階級的覚醒などを扱った記事、随筆を書き、記者としての任務を果たすことに専心していた。目標はあ-まで小説家になることであったが、記者生活は忙しく、文人たちに会って話を聞く機会は訪れなかった。さらに、ジャーナリズムは女性作家に対して随筆の注文ばかりを次々と寄せ、文章を書く余裕はなかった。思うような小説が書けずに焦る気持ちは随筆の主題となって現れた。習作期の小説は、初めは階級間題を主題としたものが多かった。東京滞在中、作家は同胞の悲惨な生活の様子を目にして衝撃を受けており、その体験が下敷きになったと見られる。しかしそれはあくまで小説の素材面に表れるにとどまった。一九三四年からは私小説が書かれるようになる。これはそれまでに書かれた随筆の発展と見られる。また、季節の移り変わりに敏感であることを作家の任務と考えていた崔貞熙は、自然を用いた表現や、「月明かり」 「秋」などの語彙を好んで用いていたが、それらは小説の中の描写において効果を発揮した。登壇作「凶家」はこうした崔貞熙独自の手法から生まれた作品である。のちに書かれる「地脈」、「人脈」、「天脈」は崔貞熙の手法と、ジャーナリズムが要求する主題とが融合した作品である。小説家を志し、ジャーナリズムに傾きがちな記者生活の弊害を憂慮していた崔貞熙は、ジャーナリズムによって小説家になったのである。
著者
八幡 一郎
出版者
朝鮮学会
雑誌
朝鮮学報 (ISSN:05779766)
巻号頁・発行日
no.49, pp.435-456, 1968-10
著者
鶴園 裕
出版者
朝鮮学会
雑誌
朝鮮学報 (ISSN:05779766)
巻号頁・発行日
vol.156, pp.97-128, 1995-07
著者
野間 秀樹
出版者
朝鮮学会
雑誌
朝鮮学報 (ISSN:05779766)
巻号頁・発行日
vol.199, pp.37-81, 2006-07