著者
高橋 武
出版者
鹿児島国際大学
雑誌
鹿児島経済大学社会学部論集 (ISSN:09140700)
巻号頁・発行日
vol.7, no.3, pp.1-26, 1988-10-15

わが国では社会開発は,1960年代に国連が提唱したsocial developmentの訳語としてうまれた。政府は1967年の第4次経済計画にこの概念を採用して「経済社会発展計画」なる名称を使った。しかし一般の用語は,政府の担当部局「経済企画庁」の名称が示すように,今でも経済計画(economic planning)である。社会開発に関連のあるものに,国土計画がある。昨年,第4次全国総合開発計画が発表された。経済計画が5年程度の短期のタイム・スパンの展望であるのに対し,総合開発計画は10年程度の中期の展望のものである。(わが国では政府や一般の人々は5年を中期,10年を長期とみている人が多い)。この四全総に対しては,特に地方のレベルで,つまり県と市町村の当局者の間で関心が強い。ことに今次の四全総は東京への過度の集中をやめるため「多極分散型」の国土利用が提唱されていることもある。これからもわかるように,このプランニングは地域開発(regionaldevelopment)の概念に近い。今回のシンポジウムの日本語の名称「地域社会開発」という語は,この会場の外部では,「地域社会の開発」(development pf reeional society)と理解する人の方が大部分であろう。この誤解は,もしあるとすれば,1つには「社会開発」というnotionがわが国で未だ普及していないこと,いわばunderdevelopmentなどとによる。2つには,本質的に,現代の日本語の使い方,ことに文語調における用語の不明さ(ことに役所や大学で)に原因がある。私のペーパーにはsocial developmentをもって,welfareの意味を帯びた概念と考え(value-free societal developmentとは違うと考えて),国家の社会政策上のmeasures (対策)を主に採上げた。戦前の日本では,ドイツの歴史学派経済学から輸入した「社会政策」論が,労働立法や社会立法に大きく役立った。戦後は社会保障論がこの社会政策論に取って変わったとみてよい。この40年間に,医療,保健,社会福祉が,所得保障はもとよりとして,社会保障という概念の下に人権思想に支えられて発展したからである。この点では,1950年に社会保障制度審議会が首相に答申した「社会保障制度に関する勧告」が重要である。この第1次勧告と称されるものは,社会保障をもって社会保険,国家扶助(国際的には「社会扶助」と称されるもの),医療および公衆衛生(保健),社会福祉の4部門をあげたため,わが国ではこの広い社会保障概念が定着することになった。この勧告は敗戦の苦難にさいなまされていた当時の人々から深い共感をもってむかえられた。1946年の新憲法にかかげられた生存権(right to life or subsistence)は,この勧告によってその制度的な中味をあたえられたからである。戦後の40年間をぶり返ってみると,大雑把には,次のように要約できよう。第1に当初の間は社会保障とは,具体的には国家の社会扶助(生活保護法という名)を意味していた。社会保障の議論もこれに集中していた。第2に1961年に医療保険が全国民をカバーしたこと(いわゆる国民皆保険)によって,本格的な社会保障の展開が医療から始まった。この医療の先行性は,社会保障発達史の戦後パターンとして,国際的にも注目に値しよう。第3に長期給付としての年金が殆んどすべての老人生活の主たる収入源として役立つようになったのは,1973年の改正法(ことに給付額の引き上げと物価に基づく年金スライド制の導入)からである。第4に社会福祉が本格的な展開を見せ出しだのは,それよりも遅れて1980年代に入ってからとみてよい。医療と所得保障が進展したのは,何よりもその背景に経済の高度成長期(1955〜1974年)があったからである。これらの組織化の方法が社会保険というやり方であったから,その財源は拠出金(contributions)というself-financingの仕組みに相当程度まで依拠することができた。また政治的には医師会や労働組合運動が圧力集団としてそれらの改善を不断に要求したからである。毎年の政府予算の編成には,常に社会保障関係費は取引の対象になってきたし,また社会保障給付費は国民所得との対比(ratio)で常に関係者やジャーナリズムの関心の的になってきた。これらの点でぱ,社会福祉は戦略的に不利な立場に立たされるから,その発達が遅れたわけである。もっとも児童の保育については,高度成長期に婦人の労働力化が著しく進んだため,乳幼児保育のニードと必要性(necessity)のために,多くの市町村で公立または認可(authorized)保育所が生まれた。保育は有料で少額の自己負担が前提であるが,その経営には多額の公の資金,ことに国庫補助金が注入された。今日の問題は,都市近郊で無認可保育所が出現したことにある。公立または認可保育所の開館時間(保母の労働時間に左右される)と婦人労働者の通勤時間との間に調整が未だ出来上がっていないからである。また企業内の福祉施設として託児施設や保育所は,全く遅れた部門である。1980年代に入って政府の政策は,社会保障のcost cpnstraintに変わった。国家財政の赤字のため,また例えば「過剰の医療」が,もはや社会保障の「聖域化」を許さなくしたからである。ここでも財源を大きく国家資金にまつ社会福祉や,国庫補助金の多い医療保険,ことに国保がその抑制策の矢表てに立たされる。今や,政府,ことに厚生省は,老人問題を政策の頂点に押し上げている。1982年の老人保健法の制定とその後の法改正に代表されるように,医療・保健・福祉に一体的にアプローチする考え方である。このため財源の地方化と行政の地方分権化に進む方向にある。Down to Earthのためには,何よりも,3割自治(町村には1割自治さえ)という現実と,120年にわたる中央集権的な支配一従属の体制(指令の東京マチという慣行)が問題になる。そこで私のペーパーは,現地の端末の事情に少しくふれた。何よりも,わが国の人口動態は,永年の低い出産率のために,町や村では人口構成が既に逆ピラミッドの傘型の現象さえ出現した。幼児,少年,青年,壮年,老年の年齢階層間のアンバランスが問題になる。目下の関心は専ら老人問題に集中しているが,もっと広く,家族政策を考え出する必要もあろう。その点でも「ある非行少年の死」は,深い反省をわれわれに求めるものがある。"How can one individual help another to become morally virtuous?"
著者
豊田 謙二
出版者
鹿児島国際大学
雑誌
季刊社会学部論集 (ISSN:09140700)
巻号頁・発行日
vol.10, no.4, pp.23-41, 1992-02-15

Max Weber is one of the greatest sociologist and statesman in a proud sense. This can specifically be pointed out through the work of Weber and his theory of sociology as well as his most radical proposals against German domestic politics. In addition, we must recognize Weber's interest in empirical social research. Weber distributed a large methodological monograph for the survey of the Verein fur Sozialpolitik, he intended the study to be of a scientific nature. One important characteristic concerning his methodological discussions concerns his estimate of attitudes among industrial workers. This peculiar estimate in Weber's inquiries locates his empirical research in the cultural-historical theory of social changes.