著者
遠藤 弘美 目黒 美紀 宮地 洋子
出版者
仙台白百合女子大学
雑誌
仙台白百合女子大学紀要 (ISSN:13427350)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.133-140, 1999-01-29
被引用文献数
1

塩味嗜好と調味との関係を検討するため,本女子大学健康栄養専攻の学生52人を対象に調査した。その結果は次の通りである。1)食塩味覚検査を行った結果,0.6%濃度で知覚できたものが52人中50人(96.2%)で,味覚感受性が高いと考えられる。2)塩味に対する意識と感度には正の相関性(r=0.38,p<0.01)が得られ,塩味意識が「薄い」と認識している者はそうでない者と比べて塩味感度「鋭い」と認識している傾向が認められた。3)0.4〜1.2%の5試料の食塩濃度のうちすまし汁としてもっとも好まれだのは,0.8%濃度で22人(42.3%),ついで1.0%で19人(36.5%)であった。被検者が5試料に与えた順位の一致度はw=0.48(p<0.01)であり被検者の塩味嗜好に一致性が認められた。塩味意識との間に正の相関性(r = 0.45, p<0.01)が認められ,「薄い」味を意識している者は塩味嗜好においても薄い塩味を好むことが明らかになった。4)被検者に調味させたすまし汁の食塩濃度は0.67〜1.51%の範囲にあり,平均値は1.01土0.21%で,塩味嗜好濃度より高値を示した。 0.6〜0.9%のすまし汁として適塩範囲内に調味している者は21人(40.4%)であった。塩味意識との関係は「薄い」から「濃い」になるにしたがい,調製食塩濃度も高値を示し,両者間に正の相関性(r=0.29,p<0.05)が得られたが,塩味嗜好との間には相関関係は認められなかった。5)12種類の料理における塩味嗜好の結果,コンソメスープ及び茶碗蒸しにおいて有意差が得られ,塩味意識が「濃い」とする者が「薄い」「ふつう」より評点が高かった。料理の嗜好度では全ての料理が好まれ,塩味意識別に有意差がみられたのはスクランブルエッグ及びかぶときゅうりの即席漬であった。終わりに,官能検査にご協力下さいました本女子大学健康栄養専攻の学生の皆様に感謝いたします。なお,本報文の概要は,日本家政学会東北・北海道支部第43回大会において発表した。
著者
宮下 ひろみ
出版者
仙台白百合女子大学
雑誌
仙台白百合女子大学紀要 (ISSN:13427350)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.127-133, 2004-01-31

市販されている豆腐について「絹ごし」と「木綿」の種類の違いによる物性や嗜好の比較を行うことを目的に物性測定と官能検査を行った。市販の豆腐、2社(K社製品、S社製品)の「絹ごし」、「木綿」それぞれについてカードメータを用いて硬さ、破断力の測定を行い物性を比較した。また、豆腐を使用した料理のうち「みそ汁」に仕立てた豆腐についても同様に物性測定を行い、あわせて官能検査による、外観、硬さ、味についての嗜好調査を行った。官能検査は短期大学家政料の女子学生12名を対象に行った。物性測定の結果、硬さは2社ともに「絹ごし」より「木綿」の豆腐の方が数値が高くなった。2社を比較すると「絹ごし」「木綿」ともにK社製品がS社製品よりも硬く、K社の「絹ごし」の硬さはS社の「木綿」の硬さの数値を上回る結果となった。一般に豆腐は「絹ごし」が柔らかいとされるが、メーカー内では確かにその基準はあてはまるものの、各メーカーにより硬さの設定は差があることが分かった。破断力については、硬さ同様2社ともに「絹ごし」より「木綿」の豆腐の方が高値であった。2社を比較すると「絹ごし」「木綿」ともにK社製品がS社製品より高値であった S社の「絹ごし」と「木綿」豆腐を使用しそれぞれみそ汁に仕立てて物性測定を行った結果、いずれも加熱後のみそ汁の方が硬さ、破断ともに高値となった。みそ汁の具材としての豆腐について、官能検査による外観、硬さ、味の嗜好評価の結果、「木綿」より「絹ごし」の方が好まれる傾向にあり、外観では有意な差がみられた。
著者
原田 雅樹
出版者
仙台白百合女子大学
雑誌
仙台白百合女子大学紀要 (ISSN:13427350)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.31-50, 2007

「テキスト」の解釈学的現象学において、ポール・リクールは、エピステモロジーを現象学と解釈学との媒介として考えている。それは、彼の『時間と物語』においては、三重のミメーシス(ミメーシスI・先形象化、ミメーシスII・統合形象化、ミメーシスIII・再形象化)となって顕在化している。ミメーシスIIにおいて、物語のテキストが自立性を獲得してその指示機能が中立化されるのに対し、ミメーシスIIIにおいては、物語は、テキストと読者との間に再構築された実在世界を指示するようになる。ところで、リクールがフランス語に翻訳したフッサールの『イデーンI』には、現象学的還元において実在を括弧に入れ、その後に、理性の現象学において信念志向性によって実在を措定するという動きがある。このような動きの構造は、ミメーシスIIからIIIへという動きの構造に類似している。拙論では、この構造の類比をもとに、フッサールの純粋現象学を意識中心主義から引き離す一方で、リクールのテキスト概念を自然科学理論の構築の哲学的分析の方向にも広げ、自然科学の理論も、一種のテキストとして考えられることを示す。そうすることで、「科学作品の現象学」というものを提案していく。