著者
岡本 貴久子 Kikuko OKAMOTO オカモト キクコ
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科
雑誌
総研大文化科学研究 (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.9, pp.81-97, 2013-03

本研究では近代日本において実施された「記念」に樹を植えるという行為、即ち「記念植樹」に関する文化史の一つとして、明治12(1879)年に国賓として来日した米国第18代大統領U.S.グラント、通称グラント将軍による三ヶ所(長崎公園・芝公園・上野公園)の記念植樹式に焦点をあて、それが行われた公園という空間の歴史的変遷を分析することによって、何故そうした儀式的行為が営まれたかという意図とその根底に備わっていると見られる自然観を考察した。 なぜ記念植樹か。実は近代化が推進される当時の日本において記念碑や記念像が相次いで設置されていく傍らで、今日、公私を問わずあらゆる場面において一般的となった記念樹を植えるという行為もまた同様に、時の政府や当時を代表する林学者らによって国家事業の一環として推進されていたという事実があり、加えてこうした儀式的行為を広く一般に浸透させる為に逐一ニュースとして記事にしていた報道機関の存在から、記念に植樹するという行為もまた日本の近代化の一牽引役として働いていたのではないかと推測され得るからである。 本文では1872年のグラント政権が開国後間もない新政府の近代化政策に与えた諸影響を中心に論じたが、例えばこのグラント政権下において米国で初めて国立公園が設定され、Arbor Dayという樹栽日が創設され、且つ同政権下の農政家ホーレス・ケプロンが開拓使顧問として来日、増上寺の開拓使出張所を基点に北海道開拓を指揮するなど、グラント政権下における殊に「自然」に関わる政策で新政府が手本としたと見られる事柄は少なくない。こうした近代化の指導者ともいうべきグラント将軍による記念植樹式は、いずれも明治6(1873)年の太政官布告によって「公園」という新たな空間に指定された社寺境内において営まれ、米国を代表する巨樹「ジャイアント・セコイア」等が植えられたのだが、新政府にとってそれは単に将軍の訪日記念という意味のみならず、「旧習を打破し知識を世界に求める」という西欧化政策を着実に根付かせる意図を持ってなされた儀式的行為であったと考えられる。しかしながら同時にこの儀式的行為は、「樹木崇拝」という新政府が棄てたはずの原始的な自然崇拝が根底に備わるものであり、新旧の自然思想が混淆している点を見逃してはならない。 従って明治初期の記念植樹という行為は、新旧あるいは西洋と東洋の思想とかたちと融和させるために行われた一種の儀式的行為であり、明治の指導者たちはこのような自然観を応用しながら近代化促進につとめたといえるのではないだろうか。Planting memorial trees is today a common practice. The act of planting such trees indeed contributed to the promotion of Japanese policies of modernization in the Meiji era, no less than erecting monuments or memorial statues. Two facts support this hypothesis. First, there are texts encouraging the planting of memorial trees, some written by Honda Seiroku, professor of the Imperial University of Tokyo, who laid the groundwork for modern forestry, and others issued by such government offices such as the Ministry of Agriculture, Commerce and Forestry. Second, the media came to recognize the news value of memorial planting and reported on it. Under these circumstances, memorial trees were planted widely as rites of national significance in modern Japan. The event that I examine here is the ceremony commemorating General Ulysses S. Grant's visit to Japan as a state guest in 1879. Materials indicate that General Grant planted memorial trees at three different parks, all of which were former landholdings of Buddhist temples and Shinto shrines, transformed now into modern Japan's first public parks by decree in 1873. An analysis of the characteristics and historical changes of these park spaces and the types of memorial trees chosen for planting suggests that the intention was to reflect the policy of Westernization in Japan, with its emphasis on breaking with the past and obtaining new knowledge. At the same time, the root of these ritual practices can be seen in the worship of trees which the government otherwise rejected. There is evidence here that an admixture of old and new ideas regarding nature was one source powering this particular aspect of the promotion of modernization in Japan.
著者
王 暁瑞
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科
雑誌
総研大文化科学研究 (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.8, pp.57-70, 2012-03

近世後末期の越前国福井(現福井県)出身の歌人橘曙覧が詠んだ五二首からなる連作詠「独楽吟」は、すべて初句が「楽しみは」、末句が「時」で揃うという形になっている。これは従来の和歌に見られない独特な表現形式とされ、その形成について、先行研究では、「くつかむり」の方式などが作者の発想と構成を促した、あるいは俳諧歌や狂歌から影響を受けたとするものなど、日本の韻文に関連した指摘が多くあるが、十分に納得のいく具体的な説明はいまだ提出されていない。 一方、中国文学との関わりについては、前川幸雄氏が、論文「橘曙覧作「日本建国之吟」考」(『福井大学教育地域科学部紀要』第五二号、二〇〇一年十二月)において、曙覧の「独楽吟」を北宋の邵雍の詩作に関連付け、さらに、論文「橘曙覧と邵雍と―「独楽吟」と「首尾吟」の関係について―」(『国語国文学』第五〇号、福井大学言語文化学会編、二〇一一年三月)において、「独楽吟」と邵雍の連作詩「首尾吟」との関係、即ち作者の人生、処世観、作品の構成(形式上の)、作品の思想上の類似性、共通性について考察した。これは、曙覧の「独楽吟」を考える上で非常に示唆的なものであった。 「首尾吟」とは、邵雍の詩集『伊川撃壤集』巻二十に収められる連作詩であり、各詩の首句と尾句が「堯夫非是愛吟詩」という同じ句で統一されており、従来、見られない特殊な漢詩の体裁となっている。また、この連作の各詩の首聯は、例えば「堯夫非是愛吟詩、詩是閑観蔬圃時」(「首尾吟」第六五首のもの)のように、首句が「堯夫非是愛吟詩」という同じ句で統一されているだけではなく、第二句「詩是閑観蔬圃時」の句尾も「…時」という詞で統一されている。『伊川撃壤集』では、このような形式の詩が一三五首連続して並んでおり、連作の全体に音律的リズムを与えている。本稿では、こうした首聯での表現形式と、曙覧の「独楽吟」の表現形式との相似性に焦点をあてて、両者の影響関係について考察する。そしてまた、「首尾吟」は、その表現内容においても、自然や田園、生活や家庭の楽など身近な楽しみを詠み上げているが、曙覧の「独楽吟」にも「首尾吟」の発想や趣向をとりなしたとみられる例が散見されることについて検討を加えた。In the late Edo period, Tachibana no Akemi wrote a linked poem called Dokurakugin, which had a unique form of expression by starting the upper phrase with "tanoshimi wa" ("the moment I'm feeling happy is") and concluding the lower phrase with "toki" ("when") The form of this poem has long been thought to be a unique artistic form of waka. Up to now, no research has been able to explain how the form of this poem came to be.However, the Northern Song Dynasty poet Shao Yong left a famous group of 135 poems called Shao wei yin (Jp. Shubigin), all of which were included in his collection Ichuan Jirang ji (Jp. Isen Gekijō shō). A special characteristic of these poems is that each upper and lower phrase reads "Gyofu kore shi ginzuru o aisuru ni arazu" (I wrote a poem because I want to enjoy life, not because I like to write a poem). Moreover, each of these poems uses "toki" to end the second sentence. That is to say, for every poem, the first sentence is "Gyofu kore shi ginzuru o aisuru ni arazu," and the end of the second sentence is "toki." Thus we can see that this form has a kind of rhythm between the first sentence and the end of the second sentence, and that it appears to be similar to the form that Tachibana no Akemi uses in Dokurakugin. In addition, the ideas and artistic conceptions of Shao wei yin and Dokurakugin in their expressions regarding landscape gardens and happy family life are also quite similar. I believe this is sufficient evidence to conclude that the expressive form of Shao wei yin had an influence on the form of Dokurakugin in its development process.
著者
陳 可冉
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科
雑誌
総研大文化科学研究 (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.8, pp.43-56, 2012-03

林鵞峰編『本朝一人一首』(寛文五(一六六五)年跋刊)は、日本漢文学の本格的な研究書の嚆矢として、新日本古典文学大系にも収録された名著である。今から三百二十年前の元禄四(一六九一)年、同書が落柿舎の机上にも置いてあったことは、芭蕉の『嵯峨日記』によって知られる。 落柿舎中の芭蕉は『本朝一人一首』を読み、中の詩作に対する自己の所感まで書き残しているのである。『本朝一人一首』が芭蕉と日本漢詩との接点を裏付ける重要な糸口であることは間違いあるまい。ところが、芭蕉研究における『本朝一人一首』の意義をめぐって、これまで十分な検討がなされているとは言い難い。本稿では、『本朝一人一首』の性格と特徴をよく把握した上で、『嵯峨日記』と『おくのほそ道』を中心に、芭蕉における『本朝一人一首』の受容について若干の考察を試みたい。 『嵯峨日記』四月二十九日・晦日の条は、いわば『本朝一人一首』の読書メモにあたる。稿者は、その前日である四月二十八日の条に焦点をあて、現在最も信頼された『嵯峨日記』の底本である野村家蔵本(原本所在未詳)を参照しつつ、四月二十五日の条の末尾との比較によって、『嵯峨日記』には本文と自注という二種類の異質な文章が併存し、しかも芭蕉はそれらを意識的に書き分けているのではないかと論じる。次に、「思夢」の話を扱う『本朝一人一首』巻五・高階積善「夢中謁白太保元相公」に注目し、芭蕉が評釈の手法を好んで用いたのは『本朝一人一首』の詩評からの影響であろう、という見解を述べる。 以上の結論を踏まえて、執筆時期が『嵯峨日記』に近い『おくのほそ道』をも俎上に載せ、句評の形式で曽良を紹介した「黒髪山」を取り上げ、鵞峰の詩評の特徴に合致した芭蕉の行文を分析する。さらに『おくのほそ道』「立石寺」・「尿前の関」における語句の出典として、『本朝一人一首』巻六・藤原実範「遍照寺翫月」と巻三・空海「在唐観昶法和尚小山」を指摘し、芭蕉と『本朝一人一首』所収の日本漢詩との関わりを探る。Honchō ichinin isshu (HII, hereafter), a masterpiece written by Hayashi Gahō, represents the first full-fledged research on Japanese kanshi. It is included in the Shin koten bungaku taikei series of classical Japanese literature. Bashō's Saga nikki (SGN) informs us that Bashō kept this book on the table in Kyorai's Rakushisha lodge. We know that while staying at Rakushisha, Bashō read through HII and made personal notes on the poetry in the book. There is no doubt that SGN provides us with an important clue to a possible link between Bashō and writings by the Hayashi family. However, there has not been much work done on how relevant HII is in research on Bashō. This essay illustrates the nature and the characteristics of HII before discussing how HII may have influenced Bashō, focusing on Oku no hosomichi (ONH) and SGN in particular.Bashō's entries on April 29th and 30th in SGN could be viewed as notes made while reading the HII. I argue, based on a comparison between the last part of the April 25th entry and that of April 28th, that the main body of SGN and its self-created commentary are of a completely different nature, and that Bashō intentionally kept them separate. I made use of a version in possession of the Nomura family, one believed to be the most bona fide among the versions of SGN. Next, I will talk about Shimu, arguing that the poetry critique found in HII may have inspired Bashō to adopt the style of explanatory critique in his writing, based on observations from book five of HII.This essay also points out that some of Bashō's text shares certain characteristics found in the critiques by Hayashi Gahō, and demonstrates a possible link between Bashō and Japanese kanshi in HII by noting that some words Bashō used in ONH, Ryūshakuji, etc., actually come from books six and three of HII.
著者
李 忠澔
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科
雑誌
総研大文化科学研究 (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.8, pp.27-42, 2012-03

『太平記』に登場する正成は、智仁勇の三徳を兼備した武将で、天皇のために命を捧げた英雄として広く知られているが、近世期以降はその教訓的な側面が正成伝説の普及を支える肝要な要素となっていく。 『太平記』において正行の母は、父正成の戦死を悲しみ自ら命を絶とうとする正行を諌め、正成の遺訓の意味を再度教え諭す。このエピソードが端緒となり、その後正成の妻は良妻賢母として顕彰されていくことになる。 一方、近世前期に流行した「太平記読み」のテクストであった『理尽鈔』は、兵学中心の合戦談という性格から、正成の妻が正行に父の遺訓を教え諭す場面を省略し、その代わりに正成の首をめぐって足利直義と楠家の家臣間で繰り広げられた駆け引きに関するエピソードを挿入している。これは、合戦談の中では女性の存在が副次的にしか認識されないことから、『太平記』における正成の妻の情緒性豊かな描写が省略された結果と見られる。 このような『理尽鈔』における扱いとは別に、正成の妻は近世の早い時期から啓蒙目的の女訓書に登場している。仮名草子女訓書『本朝女鑑』では、『太平記』原典の正成の妻に関するエピソードが簡略な形で引かれており教訓を主眼とする女訓書の性質に即して、母として息子の誤りを戒める内容が中心になっている。 さらに、時代浄瑠璃においてはそれ以前とはやや異なる正成の妻のイメージが形成される。近松門左衛門の『吉野都女楠』において、正成の妻「菊水」は従来と同様に夫の遺志を継ぎ、息子を訓戒する良妻賢母として登場するが、その上に大力という性質をも兼ね備えた逞しい女性として描かれる。ここでは、男性のために自己を犠牲にする時代浄瑠璃の典型的な女性とは異なる、戦乱という苦難を生き抜く強い女性像が正成の妻に付与されていると言える。 一方、西沢一風・田中千柳の『南北軍問答』においては新しい趣向が設定され、正成の妻は女色に溺れる正行を訓戒する。正行の誤った行動を戒めるという点では、『太平記』と軌を一にするものの、正行が好色者として描かれる点に加えて、「泣男」杉本佐兵衛が正成の妻に代わって訓戒の内容を伝えるという点が新しい構想となっている。 このように、正成の妻は『太平記』から時代浄瑠璃に至るまで、良妻賢母としてのイメージを保ちながらも、その上に新たな趣向を取り入れつつ受容されていくことになる。As he appears in the Taiheiki, Kusunoki Masashige is a military official who had a combination of the three virtues of wisdom, benevolence, and valor, and he is broadly known as a medieval hero who gave his life for the Emperor. After the passing of the Edo era, the instructive aspect of Kusunoki Masashige came to be emphasized, and this was the primary reason for dissemination of his legend.In the Taiheiki, the wife of Masashige persuades their son Masatsura, who is distraught over the death on the battlefield of his father, not to kill himself by reminding him of the meaning of the instruction which Masashige had left behind. With this episode as starting point, the wife of Masashige afterward became known to society as, in the Meiji-era phrase, "a good wife and wise mother."However, in the Rijinshō, a retelling of the Taiheiki tales that was popular in the first half of the Edo era, the text treating Masashige's legend consists mainly of war talk and military science. It omits the scene in which the wife of Masashige taught her son the dying injunctions of his father and instead inserts the episode about the confrontation between the enemy camp and the members of Masashige's household over the treatment of Masashige's severed head. This substitution for the extensive description of Masashige's wife in the Taiheiki is seen as an example of the relegation of the existence of females to secondary position when the main subject is war talk.In contrast to the Rijinshō, the wife of Masashige appeared for the purpose of edification in the lesson books of the early Edo period addressed to women. In the instruction for women, Honchō jokan, the episode about the wife of Masashige in the original text of the Taiheiki is quoted in simplified form to suit the nature of instruction for women, the major purpose of which was to teach the example of a mother reasoning with her son to correct his wrongs.In the jidai jōruri genre, the image of the wife of Masashige is formed a little differently. In Chikamatsu Monzaemon's Yoshino miyako onna Kusunoki, the wife of Masashige appears as in previous versions as a good wife and wise mother who disciplines her son to succeed to the legacy of her deceased husband, but in addition she is described as a sturdily built woman with physical strength and a strong character. Here, unlike the typical woman who sacrifices herself for a man in the jidai jōruri genre, the image of a strong woman who overcomes the troubles of war is granted to the wife of Masashige.In another example of this genre, Nanboku ikusa mondō, the authors, Nishizawa Ippû and Tanaka Senryû, added a new feature. In their account, the wife of Masashige preaches at the son for indulging in sex with women. The point at which she preaches at him for his wrongdoing is the same as in the Taiheiki. But in addition to the description of the son as a womanizer, there is another change: It is the servant Nakiotoko who delivers the admonition on behalf of the wife of Masashige. This can be said to be a new conception.In short, although the wife of Masashige maintained the image of good wife and wise mother from the medieval Taiheiki through the early modern jidai jōruri genre, over time new elements were added to the image and accepted.