著者
久葉 智代 Tomoyo KUBA くば ともよ
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科 / 葉山町(神奈川県)
雑誌
総研大文化科学研究 = Sokendai review of cultural and social studies (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.16, pp.1-15, 2020-03

本論文では、八世紀における大和国周辺のどのような場所が境界とされていたのか、そしてその境界がどのように認識されていたのかを、自然と人工の両面から検討する。主に以下の二点に着目する。一つ目は、自然地形と交通路との関係である。『日本書紀』の改新詔にみられる畿内堺のように、古代における境界は山や川を一つの区切りとしている。その境界とは、現代のように明確な線を引いたものではなく、ある地点から見た各方角の一地点を代表させたものである。大和国に目を向けてみると、『万葉集』では、北・南・西の各方角において、奈良山・真土山・生駒山・龍田山というそれぞれの山が境界として認識されている。これは、いずれも平城京からの交通路上に位置する山である。東の境界のみはほとんど現れないが、平城京から東へ向かうには、直接東方の山を越えるのではなく、一旦南下する必要があり、交通路を基にした境界認識を持っていた当時の人々にとっては、東へ向かうという体感が乏しかったことがその一因であると考える。二つ目は、祭祀と境界との関係である。境界で行われる祭祀として、「手向け」がある。交通路の主要な地点(主に坂や峠)において安全を祈る行為であるが、前述した大和国周辺の山が手向けを行う場となっていることが『万葉集』からわかる。 また、都城や畿内の境界において行われる疫神祭祀について、「疫神が交通路を通じて入ってくる」という指摘は従来からなされている。加えて、『日本書紀』の記事の中で、大和国の周辺で祭祀を行ったとされる場が、交通路上で境界とされる山々と一致している。祭祀における境界も、交通路が基になっていることがわかる。ある地点を境界として認識するということは、単なる景物に境界性を与えるのではなく、自らが交通路を利用して移動する際の状況を投影したものであった。この時代の境界とは、現代のように俯瞰で正確な地形を捉え、明確な線を引くものではなく、曖昧な幅を持ったものであったといえる。そのような境界に囲まれた空間の把握についても、明確な領域の意識があったのではなく、自身の経験と認知によるものであったと推測される。This paper discusses the boundaries in Yamato from both artificial and natural perspectives. The following two points are discussed.First, the relationship between the natural terrain and traffic routes is discussed. In ancient Japan, mountains and rivers were considered to be boundaries, as in the case of the boundaries of Kinai referred to in Kaishin no mikotonori in Nihon-shoki. The boundaries, however, were not clearly indicated lines, but served as landmarks representing directions. In the case of Yamato, Mt. Nara, Mt. Matsuchi, Mt. Ikoma and Mt. Tatsuta were considered to be boundaries in the north, south and west respectively. All these mountains are located on the traffic route from Heijo-kyo. The boundary on the east side of Yamato is not clear because people had to go south before heading east. It might have been difficult for people performed boundary recognition based on the traffic route to have a sense of going east.Second, the relationship with rituals held at the boundary is discussed. One such ritual is Tamuke, a prayer safe travel at the major points on the road, for example, in the mountains. According to Man'yoshu, the mountains around Yamato are mentioned above were places for rituals.It has been pointed out that the rituals were conducted on the boundaries of the capital and Kinai, because Ekijin (gods that bring illness) were considered to enter through the traffic route. Furthermore, the places where the rituals were thought to have been conducted correspond to the mountains that were regarded as boundaries. It is obvious that boundaries used for rituals were the basis for the traffic routes.When a specific point was recognized as a boundary, it did not mean that the boundary was simply a natural feature, but provided certain situations when people travel on the traffic route. The boundaries in those times were of ambiguous width, unlike today's clear lines. It is assumed that the recognition of space was based on people's experience and perception.
著者
鈴木 昂太 Kota SUZUKI スズキ コウタ
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科 / 葉山町(神奈川県)
雑誌
総研大文化科学研究 = Sokendai review of cultural and social studies (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.14, pp.1-31, 2018-03-31

本稿は、比婆荒神神楽の伝承者が、明治から第二次大戦終戦までの近代をどのように生き、現在まで神楽を伝えてきたのかを明らかにする論考である。本稿では、政治経済や社会動向など、地域社会の外部から伝承者に与えられた影響に注目して考察を行う。広島県庄原市東城町・西城町の神主と明治以降に農民たちにより結成された神楽社は、比婆荒神神楽を伝承している。神楽の執行に伴う経済的側面に注目して神楽を捉えると、執行者にとって神楽は、祭料やお花など収入を得ることができる稼ぎの手段でもあった。近世期のこの地域では、神職たちが郡毎に神楽組を結成し、独占的に神楽を執行しており、一般家庭出身の者が神楽を舞うことはなかった。こうした状況は、明治新政府が実行した新たな宗教政策により変化し、一般家庭出身の村人たちが新たに神楽団を結成して神楽を舞うことが可能になった。その後、明治の中頃から、国家の宗祀たる神社に奉職する神職は神楽を舞うべきではないという意見が強く主張されるようになる。また、地域の基幹産業であったたたら製鉄の不振という産業構造の変化があり、都市部への住民の流出も始まった。このような状況下で、産業に乏しい山間地域で暮らす農民たちは、冬季の出稼ぎとして積極的に神楽を舞い始めた。その結果、神楽における神事舞を神職、遊興的な能舞を神楽社が担当する近代的な執行体制が構築された。こうした執行体制のなかで、近世まで独占的に神楽を執行してきた神職たちは、明治時代の新たな宗教政策に応じた神楽の組織・規約を構築することで、神職たちが保持していた神楽に関する諸権利の維持を図っていた。また、近代の歴史を見てきた結果判明したのは、神楽の伝承者たちが、自分たちが伝承する神楽を、時代の文脈や価値観に即して意義付け、変化させながら伝えてきた複雑な過程である。比婆荒神神楽は、神職たちから模範的と称賛され、天皇制と結びついた国家の神話を演ずる「神代」の神楽という正当性を得ることが出来た。伝承者たちは、こうした「模範的神代神楽」というブランドイメージを武器に、引率者である神職が有していた人脈や聖蹟顕彰運動などを利用して、出張公演を盛んに行っていた。このような民俗芸能を「資源化」する試みは、すでに戦前から始まっていた。以上の考察より、比婆荒神神楽の地域社会における「民俗的」な側面ばかりを強調してきた先行研究者たちは、地元の外へ積極的に進出を試みていた近代の姿を見てこなかったことが理解されるだろう。本稿は、こうした研究史上の欠落を補うという意義を有している。
著者
黄 昱 Yu HUANG ファン ユ
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科
雑誌
総研大文化科学研究 = Sokendai Review of Cultural and Social Studies (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.12, pp.1-16,

『徒然草』が漢籍から受けた影響は、文章レベルに止まらず、その思想内容にまで及んでいることは今までの研究において議論されてきたことである。まず『徒然草』が広く読まれていた江戸時代には、本書と漢籍との関係が注目された。『徒然草』最初の注釈書である『徒然草寿命院抄』は、『徒然草』を儒釈道の三教を兼備する書物として捉え、和文でありながら、漢籍的な要素が強い書物とした。江戸中期頃から、『大東世語』『本朝遯史』といった人物伝記や、『明霞先生遺稿』『作文率』といった漢文作品集、さらに、異種『蒙求』といった幼学書に『徒然草』が漢訳されたのは、本書に内在する漢籍的な要素が然らしめたところと言えるだろう。一方、近代の中国では、民国時代から、周作人や郁達夫といった日本文化に心を寄せた文人たちが『徒然草』を中文に訳し、また、一九八〇年代以降、日本の古典文学作品が大陸で盛んに翻訳される中、『徒然草』も五種類の全訳本が刊行されるに至っている。本稿はこのような日中における『徒然草』の漢文訳と中文訳の状況の比較分析を目的とする。具体的には、主に周作人以降の『徒然草』の中文訳を中心に分析し、これらの翻訳にあたっての章段の取捨選択の意図と、訳文の文体・表現の特徴を考察した。一九二五年に周作人が『徒然草』の中から十四の章段を選んで翻訳し、彼が加えた小引(序)・附記(跋)と訳文を考察した。さらに、彼のほかの作品における『徒然草』についての言説を考えることによって、彼の翻訳手法と『徒然草』観を明らかにした。また、一九三六年に周作人と同じく日本文化に関心を持つ著名な小説家郁達夫も『徒然草』から七章段を選訳し、本書が「東方固有思想を代表するに値する哲学書」であると絶賛した。その後、一九八〇年代以降、五種類の『徒然草』中文訳も登場したが、本稿は周作人訳と郁達夫訳とこれら現代の中文訳とを比較し、『徒然草』が中文に翻訳される時の特徴と問題点を示した。最後に、江戸・明治期の漢文基礎教養書である異種『蒙求』に見られる『徒然草』の漢文訳とこれらの中文訳との比較に触れた。『徒然草』は日本と中国の文人の間で愛読され、翻訳されていたが、両者の訳述の異同を分析する作業を通して、日本と中国での本書に対する認識の差を確認し、『徒然草』の漢籍的な要素がさらに明確になったと言える。According to existing studies, the influence of Chinese classics on Tsurezuregusa is seen not only in expression, but also in its contents and philosophy. In the Edo period, when Tsurezuregusa began to be popular, it was first noted to contain ideas about Confucianism, Buddhism and Taoism. The claim was that this book had been strongly influenced by Chinese classical works. This might be one reason why Tsurezuregusa was translated into classical Chinese by Japanese intellectuals during the Edo period. On the other hand, famous Chinese writers, Zhou Zuoren and Yu Dafu, translated some chapters of Tsurezuregusa into Chinese in the 1920’s and 1930’s. After the 1980’s, when there was a boom in making Chinese translations of Japanese classics, five complete translations of Tsurezuregusa were published.This paper is concerned with the characteristics of and differences between the various translations into Chinese of Tsurezuregusa made by both Japanese and Chinese intellectuals. Through a comparative study of these translations, we can identify differences in understanding Tsurezuregusa between Japan and China, and reappraise elements of influence that Chinese classical works must have had on Tsurezuregusa.
著者
マジェッツ アグネシカ マジェッツ アグネシカ
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科
雑誌
総研大文化科学研究 (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.9, pp.135-142, 2013-03

本調査はパイロットスタディーとして位置づけられ、ポーランド語のある単語をカタカナ表記に転写する際、音引きを使うべきか否かという疑問がきっかけで始めた調査である。日本語を母語とする話者に、アクセントのあるポーランド語の単語が長音として聞こえるのか、それとも短音として聞こえるのか、を回答してもらう実験をおこなった。その結果、サンプルの68%には長音を示す記号(音引き符号や拗音の小文字)による表記が適当であると見なされた。一方、大多数の被験者が短音として認識する例も少ないながら(12%)存在するということが判明した。 Is the generally accepted transcription of Polish words into katakana an optimal one? Could it be improved? Literature from many languages is translated into Japanese every year. Polish literature is not an exception. Proper names and certain words which are typical for Polish cannot be directly translated into Japanese and therefore are transcribed into katakana. In some cases of transcription the prolonged sound mark is used for certain sounds in Polish and in others it is not. Why is there such a difference in transcription of Polish language into katakana? Would it not be better to unify the transcription by establishing the rule of using the prolonged sound mark consistently or else removing it entirely from the transcription? This is a preliminary study which raises the question of how native speakers of the Japanese language perceive Polish lexical stress in the case of accented vowel duration and, by implication, whether or not it would be necessary to put a mark of prolongation in all transcribed words of Polish. To answer the question, ten native speakers of Japanese were asked to identify twenty-five sound samples with their various versions of transcription in katakana and to choose the version which is the most accurate one. The results show that the transcriptions without any mark of prolongation were recognized as the most accurate in 12% of the cases.
著者
古明地 樹 Tatsuki KOMEIJI コメイジ タツキ
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科 / 葉山町(神奈川県)
雑誌
総研大文化科学研究 = Sokendai review of cultural social studies (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.15, pp.47-64, 2019-03-31

本論では、江戸時代中期の絵師、橘守国(延宝七(一六七九)年―寛延元(一七四八)年)画作『絵本通宝志』(享保十四(一七二九)年刊、以下『通宝志』)を、「太公望図」を中心に分析することにより、守国が行った作画方法を明らかにし、守国作品の位置づけを試みる。今回の分析から、守国の作図は画題が持つ複数の定型表現を取り合わせて行われていると推定できた。これは、守国が狩野派に学んだ知識を絵師の需要に即して変容させたものであると考えるものである。近世中期以降、町絵師が増加することで、粉本に対する需要が増していた。狩野探幽の弟子である鶴澤探山に学んだ橘守国は、その需要に応じるように大坂で多くの絵手本を作成した。それらの絵手本は浮世絵師を含む町絵師に大きな影響を及ぼしたことで知られる。本論で扱う守国画作の『通宝志』は、柏原屋より刊行された絵手本である。様々な画題を紹介し、人物図や和漢の故事画題に関しては解説を付す形式をとる。自序に従えば、守国は、作画の際に先例となる図様を粉本として用いるべきだと考えており、粉本として『通宝志』を手掛けたという。この主張は典型的な粉本主義と同種のものだと言える一方で、図様の中には先例から逸脱したものが少なくない。特に、巻五上にはその傾向が強く表れる。巻五上は、狩野永徳以来宝永年間まで狩野派が描き続けてきた賢聖障子(けんじょうのそうじ)という画題を掲載している。賢聖障子とは、三二人の漢人物を描いた紫宸殿を飾る画題であり、守国が狩野派の粉本を目にしていたと推測される。しかし、守国が描く賢聖の図は狩野派画の賢聖障子資料と同一の構図ではない。粉本主義の主張と、描いた作品の独自性という矛盾に対し、本論では「太公望図」を中心として分析を行った。その結果、太公望図には、舶載の漢籍などに由来する肖像画的な系統と、故事を絵画化した系統の二系統が存在することが判明した。また、守国の作画は両者を取り入れていることが判明した。これは賢聖障子の画題紹介をすると同時に、絵師の需要に即した図を守国が作画したものであると推測する。このことから、『通宝志』巻五上から見る守国作品は、絵画領域において狩野派という雅文化の知識を、庶民文化へと普及させる一翼を担ったと考えられ、知識が庶民文化へ伝達される近世中期的特徴と一致するものである。
著者
鈴木 昂太 Kota SUZUKI スズキ コウタ
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科 / 葉山町(神奈川県)
雑誌
総研大文化科学研究 = Sokendai review of cultural and social studies (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.14, pp.1-31, 2018-03

本稿は、比婆荒神神楽の伝承者が、明治から第二次大戦終戦までの近代をどのように生き、現在まで神楽を伝えてきたのかを明らかにする論考である。本稿では、政治経済や社会動向など、地域社会の外部から伝承者に与えられた影響に注目して考察を行う。広島県庄原市東城町・西城町の神主と明治以降に農民たちにより結成された神楽社は、比婆荒神神楽を伝承している。神楽の執行に伴う経済的側面に注目して神楽を捉えると、執行者にとって神楽は、祭料やお花など収入を得ることができる稼ぎの手段でもあった。近世期のこの地域では、神職たちが郡毎に神楽組を結成し、独占的に神楽を執行しており、一般家庭出身の者が神楽を舞うことはなかった。こうした状況は、明治新政府が実行した新たな宗教政策により変化し、一般家庭出身の村人たちが新たに神楽団を結成して神楽を舞うことが可能になった。その後、明治の中頃から、国家の宗祀たる神社に奉職する神職は神楽を舞うべきではないという意見が強く主張されるようになる。また、地域の基幹産業であったたたら製鉄の不振という産業構造の変化があり、都市部への住民の流出も始まった。このような状況下で、産業に乏しい山間地域で暮らす農民たちは、冬季の出稼ぎとして積極的に神楽を舞い始めた。その結果、神楽における神事舞を神職、遊興的な能舞を神楽社が担当する近代的な執行体制が構築された。こうした執行体制のなかで、近世まで独占的に神楽を執行してきた神職たちは、明治時代の新たな宗教政策に応じた神楽の組織・規約を構築することで、神職たちが保持していた神楽に関する諸権利の維持を図っていた。また、近代の歴史を見てきた結果判明したのは、神楽の伝承者たちが、自分たちが伝承する神楽を、時代の文脈や価値観に即して意義付け、変化させながら伝えてきた複雑な過程である。比婆荒神神楽は、神職たちから模範的と称賛され、天皇制と結びついた国家の神話を演ずる「神代」の神楽という正当性を得ることが出来た。伝承者たちは、こうした「模範的神代神楽」というブランドイメージを武器に、引率者である神職が有していた人脈や聖蹟顕彰運動などを利用して、出張公演を盛んに行っていた。このような民俗芸能を「資源化」する試みは、すでに戦前から始まっていた。以上の考察より、比婆荒神神楽の地域社会における「民俗的」な側面ばかりを強調してきた先行研究者たちは、地元の外へ積極的に進出を試みていた近代の姿を見てこなかったことが理解されるだろう。本稿は、こうした研究史上の欠落を補うという意義を有している。This paper discusses the modern performance of the traditional form of entertainment, Hibakojin Kagura, during the period from the Meiji era (1868–1912) through to the end of World War Two. It will focus particularly on influences from outside the community, such as political and economic factors and social trends.Hibakojin Kagura has been passed down through the generations by Shinto priests and villagers in Saijo-cho and Tojo-cho in Shobara-shi, Hiroshima Prefecture. Those performing kagura in a festival context are also financially rewarded, through service fees and flowers made as offerings to the gods. Therefore, it can be said that for performers, these kagura festivals are an occasion for earning money.During the Edo era (1603–1868), only Shinto priests were permitted to perform kagura in this area of the country. This situation changed under the policy of the Meiji government. From that time on, farmers from ordinary families began to perform kagura.Subsequent to this policy change, around the middle of the Meiji period, it came to be commonly believed that Shinto priests should not perform kagura. Furthermore, there were changes in the industrial structure of the area, which contributed to an outflow of residents to urban areas. Under these circumstances, the farmers living in mountainous areas where agricultural possibilities were limited, began travelling to perform kagura as a way of making money during the winter months.As a result, a modern system was created in which the Shinto priests were in charge of ceremonial duties, and farmers were in charge of entertaining. This arrangement was a way of ensuring that the priests, who had held the monopoly over kagura performances until early modern times, continued to maintain the various rights related to kagura.In modern times, the performers of Hibakojin Kagura handed the artform down through generations, while altering it to ensure it remains meaningful according to the context and values of the times. As a result, Hibaku Kagura became praised as 'exemplary' by priests, and legitimized as a form of Jindai Kagura, a name reserved for schools of kagura performing national myths associated with the Emperor System. Drawing upon this 'legitimacy', Hibakojin Kagura performers began to take frequent trips to other areas of Japan, making the most of the connections which the priests had accumulated and the authorization of the imperial mausoleums. These attempts to utilize folk performing arts as a cultural resource began even before the start of the Second World War.
著者
呂 怡屏 Yiping LU ル イーピン
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科
雑誌
総研大文化科学研究 = Sokendai review of cultural and social studies (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.13, pp.239-255, 2017-03-31

本稿の目的は、台湾において1999年に生じた大規模な地震である「九二一大地震」の後に作られた「九二一地震教育園区」と、2009年の台風に伴う土砂災害である「八八水害」の後に作られた博物館展示の内容を比較検討することである。前者が自然災害をもたらした環境と文化財への影響に対する意識を高め、後者がさらに台湾における原住民族の課題と深く関わってきたことを明らかにする。これにより、災害に関連して建設された博物館やその展示が、災害という課題だけでなく、地域の住民や民族集団のアイデンティティに影響を与えていく作用を有することを論じる。台湾では、1980年代に社会全体で民主化が進行した。人口の大多数を占める漢族系の住民に対して少数派であったオーストロネシア系の先住民である原住民族の間にも、「人権」、「土地権」、「自治権」、「言語・文化権」などへの意識が高まり、それらの権利回復を目的とする「原住民族運動」が社会運動として生じた。1994年の憲法改正により、原住民族の権利や文化を尊重することが求められるようになり、台湾各地で当地の民族の文化や歴史を展示するための地域原住民族博物館の建設が活発に進められた。1999年9月21日の九二一大地震以後、台湾の博物館は真剣に災害とその影響をテーマとして取り扱うようになった。このような中で、2009年、八八水害による自然的・文化的な被害が生じたことで、九二一大地震が起こった十年後、もう一度災害と人間の関係、そして被災地における文化と生活の再建への関心を人々の間に呼び起した。特に甚大な被害を受けた平埔原住民のシラヤ系タイヴォアン人の文化を再興するため、台湾の公立の博物館は、社会教育および文化保存・伝承を担う機関として、災害救援と文化復興に協力した。その中で、被災した小林村と同じ自治体にある高雄市立歴史博物館は、小林平埔族群文物館が完成するまでの準備と企画に取り組んだ。小林平埔族群文物館の常設展示の企画チームは被災者の意見を取り入れ、村の歴史を踏まえたうえで、昔の小林村の生活を再現することにした。展示の企画立案の過程と、実際に完成した展示は、現地住民の民族的アイデンティティを呼び起こすことに影響を与えたと考えられる。筆者は本論を契機として、開館後の文物館と村民とのコミュニケーション、および展示の中に盛り込まれなかった災害をめぐる経験と記憶の継承のありかたを研究課題として注目し続け、さらなる検証を重ねていきたい。This study focuses on the establishment of museums after natural disasters and the exhibitions held there. Using the exhibitions in Earthquake Museum of Taiwan and Shiaolin Pingpu Cultural Museum as case studies, this paper examines the process of planning exhibitions after natural disasters, while also investigating the construction of ethnic identity among the Pingpu indigenous people.After 1980s, along with the democratization of Taiwan society, indigenous people started to assert their rights, such as human rights, land rights, cultural and linguistic rights, and the right to autonomy. Through these movements, the Taiwanese population became well aware of the issues concerning the rights of indigenous people. In 1994, the rights of the indigenous people were included in Article 10 of Additional Articles of the Constitution of The Republic of China. Following this trend, in the late 1990s, the Council of Indigenous people founded 30 museums exhibiting the culture of the regional indigenous people in order to give a presentation of indigenous culture and history within those local societies.After the 1999 Jiji earthquake, museums in Taiwan started touching upon issues of natural disasters and their impacts. In this period, museums focused on rescuing items of cultural heritage and repairing historical architecture, but did not pay much attention to the relationship between natural disasters and indigenous people. But ten years later, Typhoon Morakot destroyed many towns and took many lives, especially those of the indigenous peoples. It forced the museums to reconsider what the role of the museum was in this case, as an institution of social education. After the typhoon, public museums both near and far from the stricken area have devoted themselves to rescuing items of cultural heritage, and also to helping victims to weather the hard time after the disaster. Furthermore, the government announced its decision to create the Shiaolin Pingpu indigenous museum, to commemorate this disaster and revive the Pingpu culture of Shiaolin village.In creating its permanent exhibition, the Shiaolin Pingpu Cultural Museum listened to and adopted the villagers’ suggestions, as well as using regional history to offer a representation of the lifestyle in Shiaolin Village in the past. Through this process, we are able to observe the gradual formation of ethnic identity of the Pingpu people in Shiaolin Village. The next challenge for the Shiaolin Pingpu Cultural Museum is to interact more with the local residents, and to record narratives about the disaster which are not included in the permanent exhibition.
著者
粂 汐里 Shiori KUME クメ シオリ
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科
雑誌
総研大文化科学研究 (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.11, pp.19-39, 2015-03

説経、古浄瑠璃は、近松門左衛門以前の、日本の中世末期、近世初期に盛んであった語り物文芸である。従来の文学史、芸能史において、説経・古浄瑠璃のテキスト研究は、近世初期の古活字版や万治寛文以降の半紙本など、版本を中心に進められてきた。しかし、説経・古浄瑠璃は、絵巻、絵入り写本、挿絵の多い草子本などのかたちでも数多く伝わっている。これらは本文研究において正本と同等の有益な資料群であると考えられ、いまは現存しない正本の復元など、多くの可能性を秘めている。にもかかわらず、説経、古浄瑠璃の絵巻、絵入り写本をめぐる総括的研究は、同時代の芸能―能、狂言、幸若舞曲―に比し、いまだ十分とはいえない。本稿では、説経、古浄瑠璃の絵巻、絵入り写本の重要性を示す一事例として個人蔵『しゆつせ物語』を取り上げ、その特徴と意義を報告する。『しゆつせ物語』は森鴎外の著作で知られる『さんせう太夫』の一伝本で、未紹介のテキストである。装丁に着目すると、初期説経正本と同じ三冊本形態である点、説経のテキストとしては珍しい列帖装の豪華絵入り写本である点が注意される。本文もまた、初期のテキストである寛永末年頃刊行の天下一説経与七郎正本、明暦二(一六五六)年刊行の佐渡七太夫正本と同時代の、古態をとどめたものである。しかし個人蔵本は、これら同時代のテキストにはない特徴を有している。まず挿絵をみると、豪華な絵入り写本という形態にふさわしく祝言性を強調し、残忍な描写を回避する傾向がある。これは、説経や古浄瑠璃を題材とした絵巻・絵入り写本の制作意図を把握する貴重な例である。次に諸本を比較してみると、個人蔵本には、従来知られてきた与七郎本系統とは異なる、独自本文が確認できる。また物語にとって重要な場面である天王寺が、個人蔵本では北野天満宮に置き換えられている。この点に着目し、中世末、近世初期に北野天満宮の境内が芸能者の参集する場であったという先行論をふまえつつ、『しゆつせ物語』に当時の北野社の繁栄が投影されていることを指摘した。Sekkyō and early jōruri are types of oral storytelling that flourished at the end of the middle ages and the beginning of the early modern period in Japan, before the time of Chikamatsu Monzaemon. Textual research on sekkyō and early jōruri has focused on half-ream-size (hanshibon) early moveable-type editions (kokatsujiban), that is, on printed chapbooks. However, sekkyō and early jōruri libretti also survive in the form of hand-written picture scrolls and picture books with many illustrations. I believe these represent a valuable body of material on par with printed chanter's proofs (shōhon) which hold many possibilities such as the reconstruction of chanter's proofs that are no longer extant. Nevertheless, intensive research on these manuscript sources lags far behind that on contemporary performing arts like the noh and kyōgen theatres and kōwaka ballads. In this paper I discuss the particularities of a copy of Shusse monogatari in a private collection, as an example of the importance of picture books and scrolls of sekkyō and early jōruri.
著者
宋 琦 Qi SONG ソン チー
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科 / 葉山町(神奈川県)
雑誌
総研大文化科学研究 = Sokendai review of cultural and social studies (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.14, pp.47-68, 2018-03-31

松宮観山は江戸期に神儒仏三教思想を論じた一人である。彼は、兵学、儒学、測量学、易学、和歌、唐音などの複数の分野に精通していた思想家で、『三教要論』、『続三教要論』などの自著において、神儒仏三教思想を唱えた。本論文は、松宮観山の思想における「道」と「教」についての分析を通して、彼の神儒仏三教思想の成立原理を検討したものである。最初に、松宮観山の生涯、彼の提起した神儒仏三教思想及びそれにかかわる先行研究を概観する。次に、松宮観山の神儒仏三教思想における「道」と「教」との関わりについて論じる。『三教要論』の冒頭には「教えとは何ぞ、道を脩る也」とあり、この内容の出典は『中庸』の「天命之謂性、率性之謂道、脩道之謂教」と思われる。これをみれば、『中庸』の思想の影響を受けた観山は、「天→性→道→教」の順で「教」が最終的に生成すると主張した。また、観山の神儒仏三教思想は、「道」と「教」との関連を重視し、「教」は自然の「道」によって決定される。これを踏まえて、松宮観山の神儒仏三教思想の成立原理を分析していく。松宮観山は、荻生徂徠の「聖人の道」への執着を批判し、また、本居宣長が「大和心」を探求することを否定する。さらに、観山の独自的な神儒仏三教思想の構造を分析した。彼は「十二支」という概念の活用で、当時のインド、中国、日本の三者を比較し、日本の活力或いは生命力を誇りながら、神道の優位性を強調する。また易学の「天地人三才」の原理、すなわち宇宙間に存在する万物を統合する視点から、神・儒・仏という三つの教えを併用した。このように、神道を中心として、儒仏の二教を補佐とする神儒仏三教思想が構築された。時代背景から見れば、中国では「明清交替」は本土や周辺に大きな影響を与えた。松宮観山の時代、「夷狄」であった満州人が政権を握っていた。同じく「夷狄」と見なされた朝鮮や日本などの周辺諸国において、国家意識や民族意識が次第に強くなっていた。観山においては、日本の「道」の独自性を強調するのが、それにあたると思われる。しかし、儒学を基盤とする中華文明から離れることができず、また日本においては、仏教の広範な社会的基礎があるので、このような時代背景からみれば、すでに日本の独自性に焦点を当てた観山は、神道だけを強調するのではなく、儒学と仏教を活用するように、保守的な態度をもって神儒仏三教思想を提起した。This essay is an attempt to analyze the structure of Matsumiya Kanzan's Shintoist Theory of Three Teachings, by studying the role of Tou (way or nature) and Kyou (teaching) in his theory.First, we take a look at Matsumiya's life, his Theory of Three Teachings, and former research conducted on him. One of the proponents of a Three Teachings approach, Matsumiya lived in the Edo era and was an expert in military matters, Confucianism, surveying, poetry and the Chinese language. He advocated his main ideas in his book Sankyouyouron ('The Basis of the Theory of Three Teachings'). Second, we focus on the connection between Tou and Kyou in Matsumiya's ideology. In the beginning of The Basis of the Theory of Three Teachings he wrote, "What is the definition of Tou? It is the practice of Kyou." The following sentence is taken from the Chinese classic Zhongyong (The Doctrine of Mean, trans. James Legge): "What heaven has conferred is called the Nature (Tou), an accordance with this Nature is the Path of duty (Sei), the regulation of this path is called Instruction (Kyou)." It seems that it was the influence of the Zhongyong that led Matsumiya to place Kyou last of his Three Teachings, in the order Tou-Sei-Kyou. Meanwhile, emphasizing the connection between Tou and Kyou, Matsumiya declared Kyou to be determined by Tou, which is based on the law of nature. This is the fundamental principle of his Theory of Three Teachings.Matsumiya criticized Ogyu Sorai's theory for its insistence on defining Tou as the law of ancient sages, and also he disagreed with Motoori Norinaga's Japan-centralist approach. Matsumiya applied the 12 earthly branch conception in comparing India, China and Japan, asserting the vitality of Japan, and emphasizing the excellence of Shintoism. He also applied the concept of the Three Geniuses (Heaven, Earth and Men), in order to advocate a position of everything being one when seen holistically, in order to support his combining teachings from different sources.Thus, his construction of his Theory of the Three Teachings, which revolved mainly around Shintoism but also contained Confucian and Buddhist elements, was finally completed. In the period that Matsumiya lived, China was ruled by Qing Dynasty, formed of Manchus, who the people of the time termed "savages." The fact that such "savages" had become the leaders of the East Asian world had great influence on China's neighbouring nations, with Korea and Japan's national consciousness gradually increased through their hatred of "savages." Matsumiya's emphasis on a Japanese form of Tou, different from the Chinese Tao, may be a product of increased national consciousness. However, Japan at this time had not separated itself from Confucianism-based Chinese culture, and Buddhism served as the basis of much of Japanese society, which means we can also see Matsumiya's Theory of Three Teachings as motivated by a form of conservatism.
著者
黄 昱 Yu HUANG ファン ユ
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科
雑誌
総研大文化科学研究 (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.12, pp.1-16, 2016-03

『徒然草』が漢籍から受けた影響は、文章レベルに止まらず、その思想内容にまで及んでいることは今までの研究において議論されてきたことである。まず『徒然草』が広く読まれていた江戸時代には、本書と漢籍との関係が注目された。『徒然草』最初の注釈書である『徒然草寿命院抄』は、『徒然草』を儒釈道の三教を兼備する書物として捉え、和文でありながら、漢籍的な要素が強い書物とした。江戸中期頃から、『大東世語』『本朝遯史』といった人物伝記や、『明霞先生遺稿』『作文率』といった漢文作品集、さらに、異種『蒙求』といった幼学書に『徒然草』が漢訳されたのは、本書に内在する漢籍的な要素が然らしめたところと言えるだろう。一方、近代の中国では、民国時代から、周作人や郁達夫といった日本文化に心を寄せた文人たちが『徒然草』を中文に訳し、また、一九八〇年代以降、日本の古典文学作品が大陸で盛んに翻訳される中、『徒然草』も五種類の全訳本が刊行されるに至っている。本稿はこのような日中における『徒然草』の漢文訳と中文訳の状況の比較分析を目的とする。具体的には、主に周作人以降の『徒然草』の中文訳を中心に分析し、これらの翻訳にあたっての章段の取捨選択の意図と、訳文の文体・表現の特徴を考察した。一九二五年に周作人が『徒然草』の中から十四の章段を選んで翻訳し、彼が加えた小引(序)・附記(跋)と訳文を考察した。さらに、彼のほかの作品における『徒然草』についての言説を考えることによって、彼の翻訳手法と『徒然草』観を明らかにした。また、一九三六年に周作人と同じく日本文化に関心を持つ著名な小説家郁達夫も『徒然草』から七章段を選訳し、本書が「東方固有思想を代表するに値する哲学書」であると絶賛した。その後、一九八〇年代以降、五種類の『徒然草』中文訳も登場したが、本稿は周作人訳と郁達夫訳とこれら現代の中文訳とを比較し、『徒然草』が中文に翻訳される時の特徴と問題点を示した。最後に、江戸・明治期の漢文基礎教養書である異種『蒙求』に見られる『徒然草』の漢文訳とこれらの中文訳との比較に触れた。『徒然草』は日本と中国の文人の間で愛読され、翻訳されていたが、両者の訳述の異同を分析する作業を通して、日本と中国での本書に対する認識の差を確認し、『徒然草』の漢籍的な要素がさらに明確になったと言える。According to existing studies, the influence of Chinese classics on Tsurezuregusa is seen not only in expression, but also in its contents and philosophy. In the Edo period, when Tsurezuregusa began to be popular, it was first noted to contain ideas about Confucianism, Buddhism and Taoism. The claim was that this book had been strongly influenced by Chinese classical works. This might be one reason why Tsurezuregusa was translated into classical Chinese by Japanese intellectuals during the Edo period. On the other hand, famous Chinese writers, Zhou Zuoren and Yu Dafu, translated some chapters of Tsurezuregusa into Chinese in the 1920's and 1930's. After the 1980's, when there was a boom in making Chinese translations of Japanese classics, five complete translations of Tsurezuregusa were published.This paper is concerned with the characteristics of and differences between the various translations into Chinese of Tsurezuregusa made by both Japanese and Chinese intellectuals. Through a comparative study of these translations, we can identify differences in understanding Tsurezuregusa between Japan and China, and reappraise elements of influence that Chinese classical works must have had on Tsurezuregusa.
著者
金 セッピョル
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科
雑誌
総研大文化科学研究 (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.8, pp.177-193, 2012-03

本稿の目的は、日本社会において自然葬という新しい葬送儀礼に与えられてきた意味を社会文化的コンテクストから明らかにすることである。 近年、従来の地縁・血縁を基盤とする墓、つまり居住地域の旦那寺に設けられ、長子によって継承される墓の形態が問い直され、継承を前提としない新しい選択肢が増えている。海、山などに骨灰をまく自然葬もその一つである。このような変化は、これまで家族構造の変化と人口移動という側面から説明されてきた。しかし、人生において重大な意義をもつ葬送のような通過儀礼は、当面する墓の購入と継承の問題だけでなく、これまでの生を締めくくり死に備える契機として、何らかの意味をもって実践される。本稿は、自然葬という新しい葬送儀礼にみられる重層的な意味の一面を、自然葬を実践する側に比重をおいて考察した。 その結果、自然葬は「近代日本的価値の拒否」という意味付けがあり、それが自然葬の登場と定着を支えてきたことが明らかになった。敗戦と戦後の民主化、大衆消費社会化、国際化の時代を生きてきた自然葬選択者たちは、「葬送の自由をすすめる会」のマスター・ナラティブに影響されながら、家族国家イデオロギー、軍国主義、集団主義と閉鎖性などを認識するようになり、それらを自ら拒否しようとする。しかし彼らは主体的個人、合理主義を求めるが、そのような理想のもとに人生を送ってきたわけではない。むしろ実践し切れなかった理想を自然葬に託しているように考えられる。 また、このような思想的背景をもって進められてきた自然葬は、現在、商業化され拡散している。商業化と、そこで発生している「すすめる会」の差別化戦略のなかで、自然葬の意味がどのように再編されていくかについては今後の課題でもある。This article investigates the meanings given to shizensō in a Japanese socio-cultural context. During the 1990s, new and alternative systems of death rituals appeared in Japan, mainly due to social changes such as urbanization, dissolution of family structures, etc. One of these new rituals is the scattering of cremation ashes, shizensō. I argue that the meanings given to shizensō and the practice thereof are connected with the rejection of modernity in Japan. Practitioners of shizensō who had experienced World War II and the student movement in the late 1960s and 1970s, described themselves as persons who had suffered oppression during these historical events. They expressed rejection of the traditional family structure which had been used as a model for the state and the ideology of militarism. Moreover, practitioners of shizensō who were brought up in the era of globalization, and could experience foreign culture directly, developed a feeling of opposition and strong criticism to group consciousness and the closeness of Japanese society. They considered these to be the side effects of Japanese modernity and expressed their rejection in choosing shizensō. I conclude that the adoption of shizensō is a way of breaking away from the constraints of Japanese society. This resulted in the birth of shizensō.
著者
李 忠澔 Chung-Ho LEE
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科
雑誌
総研大文化科学研究 = Sokendai review of cultural and social studies (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.8, pp.27-42, 2012-03-30

『太平記』に登場する正成は、智仁勇の三徳を兼備した武将で、天皇のために命を捧げた英雄として広く知られているが、近世期以降はその教訓的な側面が正成伝説の普及を支える肝要な要素となっていく。 『太平記』において正行の母は、父正成の戦死を悲しみ自ら命を絶とうとする正行を諌め、正成の遺訓の意味を再度教え諭す。このエピソードが端緒となり、その後正成の妻は良妻賢母として顕彰されていくことになる。 一方、近世前期に流行した「太平記読み」のテクストであった『理尽鈔』は、兵学中心の合戦談という性格から、正成の妻が正行に父の遺訓を教え諭す場面を省略し、その代わりに正成の首をめぐって足利直義と楠家の家臣間で繰り広げられた駆け引きに関するエピソードを挿入している。これは、合戦談の中では女性の存在が副次的にしか認識されないことから、『太平記』における正成の妻の情緒性豊かな描写が省略された結果と見られる。 このような『理尽鈔』における扱いとは別に、正成の妻は近世の早い時期から啓蒙目的の女訓書に登場している。仮名草子女訓書『本朝女鑑』では、『太平記』原典の正成の妻に関するエピソードが簡略な形で引かれており教訓を主眼とする女訓書の性質に即して、母として息子の誤りを戒める内容が中心になっている。 さらに、時代浄瑠璃においてはそれ以前とはやや異なる正成の妻のイメージが形成される。近松門左衛門の『吉野都女楠』において、正成の妻「菊水」は従来と同様に夫の遺志を継ぎ、息子を訓戒する良妻賢母として登場するが、その上に大力という性質をも兼ね備えた逞しい女性として描かれる。ここでは、男性のために自己を犠牲にする時代浄瑠璃の典型的な女性とは異なる、戦乱という苦難を生き抜く強い女性像が正成の妻に付与されていると言える。 一方、西沢一風・田中千柳の『南北軍問答』においては新しい趣向が設定され、正成の妻は女色に溺れる正行を訓戒する。正行の誤った行動を戒めるという点では、『太平記』と軌を一にするものの、正行が好色者として描かれる点に加えて、「泣男」杉本佐兵衛が正成の妻に代わって訓戒の内容を伝えるという点が新しい構想となっている。 このように、正成の妻は『太平記』から時代浄瑠璃に至るまで、良妻賢母としてのイメージを保ちながらも、その上に新たな趣向を取り入れつつ受容されていくことになる。
著者
吉本 弥生 Yayoi YOSHIMOTO ヨシモト ヤヨイ
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科
雑誌
総研大文化科学研究 = Sokendai review of cultural and social studies (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.9, 2013-03-28

一九〇〇年頃、日本の思想界では人格主義が大きな影響を与えていた。日本の人格主義は、感情移入美学との関連があり、その影響を強く受けていたのが阿部次郎(一八八三~一九五九)であった。同時に武者小路実篤(一八八五~一九七六)にもその傾向が見られ、両者の思想は互いに似たところがあった。 そこで、当時の社会思想について阿部と似た意識のあった武者小路実篤の「理想的社会」(『生長する星の群』一九二三年一月~八月)を取り上げ、阿部の『人格主義』(岩波書店、一九二二年)と比較することで、両者の相違と同時代受容を検証した。これまで、阿部と武者小路の社会観を考察する研究はなされていない。その際、浮上したのが「同情」と「隣人愛」の概念である。これは、阿部がリップスの感情移入を「同情」と訳していたことから始まった。阿部は、彼自身の解釈でこの言葉を用いていたが、「同情」「隣人愛」は、当時の日本において重要な役割を果たしている。 本稿では、「同情」に着目し、キリスト教と反キリスト教の両面から考察し、この視点から一例として、ショーペンハウア―受容を取り上げた。それは、阿部だけでなく、武者小路や森鴎外(一八六二~一九二二)、島村抱月(一八七一~一九一八)など、当時の知識人達に広まっていた。中でも、井上哲次郎(一八五六~一九四四)に見られるように、ショーペンハウアーは仏教の側面からも解釈されており、阿部と武者小路の社会観でも人格的価値や善という側面に共通性が見られた。 また、阿部と武者小路は各々「第三の社会」や「第三のもの」という国家や共同体観を持っており、これは当時、既に受容されていたイプセンの戯曲に登場する『皇帝とガラリヤ人』(一八七三年)で著した「肉の王国」と「霊の王国」を経て霊肉一致の「第三帝国」を求める人々の姿を想像させる。 イプセンの戯曲では、ギリシアの古代精神とキリストの精神を統一融合した世界として「第三帝国」が表現されるが、阿部と武者小路の目指す社会は、同時代に受容された感情移入説と人格向上が融合したものであった。 以上の考察の結果、武者小路の共同体はカントの「目的の国」と似ており、阿部の国家はヘーゲルの『法哲学』の国家観と似た特徴を持ち、両者は善の社会を目指している点では共通した思想を持っていたのである。Abe Jirō (1883–1959) declared that a good society can be created through “personalism” (1922). He thought that the improvement of individual personalities would lead to a virtuous society. Mushakōji Saneatsu (1885–1976) had a similar idea. Abe Jirō’s idea of “personalism” resembled Mushakōji Saneatsu’s thinking about the “ideal society.” In this essay, I have inspected their ideas. Abe Jirō said that sympathy is a kind of empathy; and empathy, when seen aesthetically, is also applicable to society. I investigated the problem of sympathy from the point of view of empathy. The theory of empathy proposed by Theodor Lipps (1851–1914) was introduced in Japan in discussions of aesthetics and psychology. Mori ōgai (1862–1922) was the first to take up the problem, and it spread among the intellectuals of that time. Sympathy was understood in terms of religion when Schopenhauer’s thought was transmitted to Japan. Schopenhauer can be interpreted from a Buddhist point of view, as seen in the writing of Inoue Tetsujirō (1856–1944). I investigate “sympathy” and “neighborly love” from the time of Schopenhauer’s reception in Japan. Lipps’s idea applies to all interpretations. Therefore, their interpretation differentiate with that of someone. But Abe’s and Mushakōji’s ideas resembled those of others in the same period. Ibsen (1828–1906), in his play Kejser og Galilaer (1873), had put forward something similar in his idea of “the third society” that unites the flesh as expressed by the Greek mind and the spirit as expressed by the Christian mind. Similarly, in Japan, Abe Jirō and Mushakōji Saneatsu saw their country as one in which sympathy and personalism were fused. Abe’s idea may also be compared to Hegel’s “philosophy of law,” and Mushakōji’s ideal society may be compared to Kant’s idea of a “goal country.” Abe and Mushakōji thought that religion is goodness.
著者
光平 有希 Yuuki MITSUHIRA ミツヒラ ユウキ
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科
雑誌
総研大文化科学研究 (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.10, pp.251-271, 2014-03

太古から現代に至るまで、人間は心身の治療や健康促進、維持する手段として音楽を用いてきた。私はそうした音楽療法の奥深い歴史の中で生み出された大いなる遺産を紐解くことが、現代の音楽療法理解にも繋がると考えており、その1例として、本論文ではリチャード・ブラウンの『医療音楽』(1729)を取り上げた。というのも、薬剤師であるブラウンは、これまでは主として哲学者や聖職者が取り上げてきた音楽療法について、初めて医療の立場から『医療音楽』という1冊を割いて、音楽の持つ治療的作用について言及しており、このことは、音楽療法の歴史を考える上で先駆的なものであると考えられるからである。 しかし、同書についての先行研究に関しては、『医療音楽』全体に焦点を当てた著作や本格的な論文は未だ見当たらない現状にある。そこで本論文は『医療音楽』について、ブラウンによって匿名でその2年前に書かれた『歌唱・音楽・舞踊機械論』も参考にしながら、1.書誌学的考察、2.ブラウンの人物像、3.『医療音楽』の内容、4.『医療音楽』に見られる機械論的身体観、5.『医療音楽』で重視された治療原理、と稿をすすめながら、ブラウンの音楽療法を解明することを研究目的とし、それと共に音楽療法の歴史における『医療音楽』の位置づけも試みた。 その結果、ブラウンの音楽療法には、ピトケアン学派の影響が顕著に見られ、その中で治療原理として「アニマル・スピリッツ」と「非自然的事物」という2つの概念を重視していたことが明らかとなった。『医療音楽』は理論書であり、実践書ではないものの、現代の音楽療法と同様に、「歌唱」、「音楽」、「舞踊」を通じてもたらされる生理的、心理的、社会的な効果を応用して、心身の健康の回復、向上を図ることを目的として書かれている。その点で、『医療音楽』はやはり、音楽療法史上、現代音楽療法の萌芽とも言うべく、重要な著作であると考えられる。Since primeval times, people have used music as a component of physical and mental therapy and as a means of promoting and maintaining good health. To fully understand music therapy in its contemporary form, it is crucial to reveal the rich heritage of music therapy in the course of history. This study analyzes Medicina Musica (1729) by Richard Browne. Browne was an apothecary who worked on music therapy, a subject historically taken up primarily by philosophers and clergymen. His contribution in Medicina Musica made him the first to offer insight into music therapy from a medical perspective. Browne's description of the therapeutic effects of music is believed to be a pioneering work in the history of music therapy. In previous studies that treat this book, neither books nor scholarly articles focusing on Medicina Musica in its entirety have been found. This article investigates Browne's music therapy by analyzing Medicina Musica itself. Making reference also to a work that Browne wrote anonymously two years before the publication of Medicina Musica called A Mechanical Essay on Singing, Musick and Dancing (1727), this article includes (1) a bibliographical review, (2) an account of Browne's life and times, (3) a description of the content of Medicina Musica, (4) a description of the mechanistic view observed in Medicina Musica, and (5) a summary of the therapeutic principles found in Medicina Musica. Finally, I have tried to position Medicina Musica in the history of music therapy. Browne's approach to music therapy was significantly influenced by Pitcairn and his students. Furthermore, Browne emphasized two concepts which constitute his therapeutic principles: "animal spirits" and "non-natural things." Even though Medicina Musica is not a practical book but a theoretical one, like modern music therapy it highlights the theme that singing, music, and dancing can aid in the recovery of physical and mental health.
著者
光平 有希 Yuuki MITSUHIRA ミツヒラ ユウキ
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科
雑誌
総研大文化科学研究 = Sokendai review of cultural and social studies (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.10, 2014-03-31

太古から現代に至るまで、人間は心身の治療や健康促進、維持する手段として音楽を用いてきた。私はそうした音楽療法の奥深い歴史の中で生み出された大いなる遺産を紐解くことが、現代の音楽療法理解にも繋がると考えており、その1例として、本論文ではリチャード・ブラウンの『医療音楽』(1729)を取り上げた。というのも、薬剤師であるブラウンは、これまでは主として哲学者や聖職者が取り上げてきた音楽療法について、初めて医療の立場から『医療音楽』という1冊を割いて、音楽の持つ治療的作用について言及しており、このことは、音楽療法の歴史を考える上で先駆的なものであると考えられるからである。 しかし、同書についての先行研究に関しては、『医療音楽』全体に焦点を当てた著作や本格的な論文は未だ見当たらない現状にある。そこで本論文は『医療音楽』について、ブラウンによって匿名でその2年前に書かれた『歌唱・音楽・舞踊機械論』も参考にしながら、1.書誌学的考察、2.ブラウンの人物像、3.『医療音楽』の内容、4.『医療音楽』に見られる機械論的身体観、5.『医療音楽』で重視された治療原理、と稿をすすめながら、ブラウンの音楽療法を解明することを研究目的とし、それと共に音楽療法の歴史における『医療音楽』の位置づけも試みた。 その結果、ブラウンの音楽療法には、ピトケアン学派の影響が顕著に見られ、その中で治療原理として「アニマル・スピリッツ」と「非自然的事物」という2つの概念を重視していたことが明らかとなった。『医療音楽』は理論書であり、実践書ではないものの、現代の音楽療法と同様に、「歌唱」、「音楽」、「舞踊」を通じてもたらされる生理的、心理的、社会的な効果を応用して、心身の健康の回復、向上を図ることを目的として書かれている。その点で、『医療音楽』はやはり、音楽療法史上、現代音楽療法の萌芽とも言うべく、重要な著作であると考えられる。Since primeval times, people have used music as a component of physical and mental therapy and as a means of promoting and maintaining good health. To fully understand music therapy in its contemporary form, it is crucial to reveal the rich heritage of music therapy in the course of history. This study analyzes Medicina Musica (1729) by Richard Browne. Browne was an apothecary who worked on music therapy, a subject historically taken up primarily by philosophers and clergymen. His contribution in Medicina Musica made him the first to offer insight into music therapy from a medical perspective. Browne’s description of the therapeutic effects of music is believed to be a pioneering work in the history of music therapy. In previous studies that treat this book, neither books nor scholarly articles focusing on Medicina Musica in its entirety have been found. This article investigates Browne’s music therapy by analyzing Medicina Musica itself. Making reference also to a work that Browne wrote anonymously two years before the publication of Medicina Musica called A Mechanical Essay on Singing, Musick and Dancing (1727), this article includes (1) a bibliographical review, (2) an account of Browne’s life and times, (3) a description of the content of Medicina Musica, (4) a description of the mechanistic view observed in Medicina Musica, and (5) a summary of the therapeutic principles found in Medicina Musica. Finally, I have tried to position Medicina Musica in the history of music therapy. Browne’s approach to music therapy was significantly influenced by Pitcairn and his students. Furthermore, Browne emphasized two concepts which constitute his therapeutic principles: “animal spirits” and “non-natural things.” Even though Medicina Musica is not a practical book but a theoretical one, like modern music therapy it highlights the theme that singing, music, and dancing can aid in the recovery of physical and mental health.