著者
川口 洋平
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科
雑誌
総研大文化科学研究 (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.7, pp.123-132[含 日本語文要旨], 2011-03

近年、長崎と大阪においてスペイン産とされる「オリーブ壺」の出土を日本で初めて確認した。この壺は、北米の遺跡や世界各地の沈没船で存在が確認されているが、考古資料として本格的な研究が始まったのは1960年のアメリカのゴギン氏以降のことである。「オリーブ壺」という呼称であるが、文献からは内容物を完全には特定できず、オリーブ油とワインを中心に様々な容器として用いられたと考えられている。しかし、現在では球形で小さな口のつく容器の型式名として広く定着している。ゴギン氏は、基本的な型式分類を行ったが、その後、沈船資料を中心に研究が進み、口縁部の形態変化などの細かい研究がなされている。 長崎では二つの破片が出土した。内外面に黄色の釉がかかり赤褐色の胎土からなる球形の体部、および断面三角形を呈する口縁部である。この形はゴギン氏のB類に相当するが、胎土と釉は、他地域で出土しているものとは異なっており、マーケン氏の指摘するモンバサ沖で沈没したポルトガル船のものと似ていることから、ポルトガル産である可能性がある。出土状況から、それぞれ17世紀初期および17世紀代の年代が想定されるが、17世紀初頭には付近に教会があった記録があり、キリスト教との関連も指摘される。 大阪では、口縁部を欠く楕円形の体部が出土した。ゴギン氏の分類ではA類で19世紀以降とする後期の型式に近い。大阪の資料は1614年の大坂夏の陣に伴う火災層以前と思われ、年代的には一致せず、マーケン氏の指摘する「16世紀タイプ」(バハマ沖沈船など)や1600年にマニラ沖で沈没したサン・ディエゴ号の資料に近い。また付近からは、東南アジアを含む輸入陶磁も出土しており、貿易に関わった商人との関連が指摘される。 これらの本来の中身については、前述のとおり厳密には特定できないが、オリーブ油やワインを運んだものとして搬入経路や運搬者について考えてみたい。搬入経路については、長崎出土のものは、ポルトガル産の可能性があることから、ポルトガル船が運んだと推測される。大阪のものは、マニラにおいて引き揚げ資料があることから、第一にマニラ経由でスペイン船が日本に運んだ可能性が考えられる。第二に、ポルトガル船が、マカオ経由で運んだ可能性がある。岡美穂子の研究によれば、ゴアから中国(マカオ)行きのポルトガル船の貿易品の中にスペイン産のワインとオリーブ油がみられることから、マカオにはこれらが存在したことがうかがわれる。第三に日本人が直接海外から持ち帰った可能性が考えられる。フィリピンに駐在したモルガの記録にもマニラに来航した日本人がワインを買って帰る記録がみられる。 では、日本においてワインやオリーブ油はどのような需要があったのであろうか。長崎と大阪の出土状況は、キリスト教や貿易商との関わりを示唆しているが、ポルトガル国王とゴアのインド副王の往復書簡である「モンスーン文書」には、17世紀初めの段階で日本司教からミサ用のワインやオリーブ油の俸禄を請求している記述があり、この頃にはキリスト教で行われるミサなどに関連して一定の需要があったことがわかる。また、オランダ商館長の日記には、ワインを長崎奉行へ贈った記録がある。さらにオリーブ油については、18世紀初頭の長崎奉行の記録にオランダの産出品として「アセトウナノ油」(スペイン語でオリーブ油の意)と記され、オランダによって間接的に輸入されていた可能性がある。16世紀終わり頃から18世紀にかけての日本において、ワインやオリーブ油に関して様々な需要があったことが、今回の考古学的発見や文献史料から判明する。 さらに、これらに関連してオリーブ壺を実際に描いたと考えられる南蛮屏風を確認した(出光美術館蔵)。この屏風には、黒船から降り立った南蛮人が細長いに棒の両端に壺をつり下げて歩く様子が描かれているが、この壺のひとつが、ゴギン氏分類のA類あるいはC類に酷似している。さらに、竹を編んだと推測される籠によって運搬している様子が描かれている。一説には黒船来航の光景は、長崎を描いたとも言われ、オリーブ壺が南蛮船によって長崎へ運ばれた可能性を示唆している。 本研究は、16世紀から17世紀にかけての歴史研究に対して以下のような学際的な意義を持つ。第一に、我が国におけるオリーブ壺に関する研究の端緒であり、今後考古学の分野でオリーブ壺の出土が確認され、詳細な分布が明らかになることが期待される。第二に、文献史学から検討されていた東西の貿易品の流通が考古学から具体的に実証されたことがあげられる。第三に、今回の検討から南蛮屏風の歴史資料としての可能性が明らかになったことである。今後、そこに描かれた品々についての実証的な研究が期待される。The newly found olive jars in Japan were most likely manufactured in Spain or Portugal from the late 16<sup>th</sup> century to the 17<sup>th</sup> century, based on the earlier studies. According to the documents and "Nanban screen" depicting the arrival of nanban-jin (Portuguese and Spanish) in Japan, it is said that they were brought to Japan by "Black Ship" and used among Christians and so on. They were archaeologically proven to be traded between the East and the West, and more such olive jars are sure to be found. Furthermore, Nanban screens might have the possibility of use as historical sources; empirical study of painted items is expected in the future.
著者
韓 玲玲 Ling Ling HAN ハン リンリン
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科
雑誌
総研大文化科学研究 (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.11, pp.85-95, 2015-03

本論では、北村謙次郎の短篇小説「苦杯」を取り上げる。この作品は北村が1944年に執筆したもので、『満洲公論』に発表されると同時に、「酒頌」というタイトルで中国語に翻訳され、『芸文志』に掲載された。北村は1904年、東京に生まれた。幼少時に家族と共に関東州の大連に渡ったが、大連中学校(のちの大連一中)卒業後、東京に戻り、青山学院、国学院大学に通いながら文学修業を開始した。井伏鱒二、太宰治などと付き合いながら、『文芸プラニング』、『作品』、『日本浪曼派』など多くの雑誌と関わり、日本文壇に確かな足跡を残した。1937年、北村は満洲国の首都・新京に渡った。そこで彼は雑誌『満洲浪曼』を創刊したり、長篇小説『春聯』を執筆したりして、満洲国唯一の職業作家となった。「苦杯」は、北鉄譲渡の影響を受けた白系ロシア人の人間像を描いた物語である。葡萄酒醸造に専念したカズロフスキーは、北鉄譲渡によって商売が不調になり、自分の葡萄酒を愛飲してくれる友人イワンまで失った。しかし、彼は酒への信仰を貫き、妥協せずに憂鬱の日々を送っている。一方、北鉄譲渡によってソ連に帰国したイワンは7、8年の放浪生活の後、カズロフスキー宅に辿り着いたが、すでに酒を鑑賞する能力を失っていた。その再会の場面では、二人は、ただ葡萄酒を飲み続けているだけだった。「苦杯」が創作された1944年当時、満洲国の文化統制によって、文学者はほとんど自由に創作ができなくなっていた。この小説を通して、北村は時代に対する憤懣を語っている。創作意欲があっても小説を書くことができない、その苦しさは直ちに中国人作家たちの共鳴を呼んだ。それまでは対象に距離を置いた観察者の目で創作してきた北村は、この一篇をもって、従来の創作方法を突破した。執筆者という存在をうまく小説の中に溶け込ませ、社会から落ちぶれた白系ロシア人の心理を生き生きと表現することができた。とりわけ、一人の人物の心理動態に焦点を絞っているため、登場人物の人間性に対する観察と、それに対する深い洞察とが、この小説の大きな特質となっている。This paper discusses a short novel by Kitamura Kenjirō entitled "Kuhai" written in the year 1944. It was published in Manchu kōron and simultaneously in a Chinese translated version with the title "Jiu Song" and featured in a Chinese-language journal called Yi wen zhi, attesting the fact that by the time "Kuhai" appeared, it had already drew attention from the Chinese literary world.
Kitamura was born in the year 1904 in Tokyo. When he was a child he moved with his family to Dalian in Kwantung. Soon after completing middle school, he returned to Tokyo, where he started his literary activities while he was still a student at Aoyama Gakuin and later at Kokugakuin University. Together with literary figures like Ibuse Masuji and Dazai Osamu, he got involved with several literary journals such as Bungeipuraningu, Sakuhin, and Nihon roman-ha, and established himself in the field of Japanese literature. In the year 1937, he once again relocated to Changchun (formerly Hsinking, the capital city of Manchukuo) and there he started a journal called Manchuroman and also penned the novel Shunren. With this he became the only professional writer in Manchukuo at that time.
"Kuhai" depicts the life story of a white Russian man whose life was deeply affected by the transfer of the Chinese Eastern Railways (also known as Chinese Far East Railways or Manchurian Railways) from Russian to Japanese ownership. Kozlovck was a vintner who took thirty years to make authentic wine. Nonetheless, due to the business slowdown that resulted from the change in ownership of the Chinese Eastern Railways, his friend Ivan, who was an admirer of his wine, was reassigned back to Russia and with this he lost his good friend. Despite this, Kozlovck never compromised on his love for wine. On the other hand, his lost friend Ivan, after wandering in Russia for seven or eight years, finally made his way back to Kozlovck's house. But, Ivan was not in a position to appreciate Kozlovck's wine any more. When the two old friends met, they could do nothing but continue drinking.
When Kitamura wrote "Kuhai" in 1944, it was a period when there were many cultural restrictions that prevented free literary expression. Hence, it was through this short work that Kitamura expressed his discontent. In other words, he condemned the period when, despite having interest in literary activities, people were not allowed the scope to do so. This resentment was the factor that brought his work so many sympathizers in the Chinese literary world.
Kitamura, who wrote mostly from the perspective of a spectator to that date, broke away from his former writing style and dexterously fused his presence as a writer with the character of his protagonist in this small work. This helped him to express the mental state of the white Russian in the most vivid manner possible. Especially, as his focus was on the psychological state of the characters, hence his critical observations and insights into human nature are the key features of this work.
著者
柏木 善治
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科
雑誌
総研大文化科学研究 (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.7, pp.83-110, 2011-03

相模の6世紀後半~7世紀代に展開する古墳・横穴墓をみていくことから、地域内の状況を整理し、地域の担った役割について理解の一端を提示した。 相模の三ノ宮地域には、登尾山古墳や埒免古墳など豊富な副葬品を持つ古墳が知られており、その豊富さと横穴式石室の様相や墳丘の規模などを鑑みて、いわゆる相武国造の奥津城とも考えられてきた地域である。この古墳や横穴墓の集中する地について、三ノ宮古墳群と呼称し、その地理的な広がりについては延喜式内社である三ノ宮比々多神社を中心におよそ直径2.5km四方の範囲として提示した。また、登尾山古墳の現地表観察などから、前方後円墳としての存在も推察した。 相模の地では近年の調査成果により、当該時期の前方後円墳が多く認められることとなった。それらの抽出とともに、三ノ宮古墳群が展開する相武国造域と隣接する師長国造域について、古墳の立地や群内の構成などを比較した。そこからは一つの古墳群を中心として主要墓域が限られるものと、河川流域に応じて立地を違えていくものの二つのパターンなどが確認された。 副葬品の優劣について、高塚墳と横穴墓が同じ古墳群内に展開する場合は、高塚墳の首長墓から出土する副葬品の優位は顕著で、やや時期が遅れると横穴墓の被葬者がそれら副葬品を採用していく状況をみた。また、横穴墓のみが卓越する地域では、副葬品としての優品採用は高塚墳による首長墓と同時期に行なわれたとし、その役割としては朝鮮半島情勢などを受けた国家の運営にかかる兵站等戦闘物資及び生活物資輸送拠点における中継基地としての、中継中核地域という位置付けをした。 前方後円墳が古墳時代中期の築造中断期間を経て、6世紀後半~7世紀初頭に期間を限定しつつ再度盛行と終焉を迎えることをみて、それは一世代が一基を築造するという様相を示すとした。この現象は地域主導の内在的な要因によるものではなく、外在的な要因に基づくとした。その要因としては、朝鮮半島情勢などのアジア的規模の政変の煽りを受けた事象として捉え、中央としては大和政権の一員であることの確認行為、地方としては前方後円墳という墳形表示により大和政権の後ろ盾という権威表示による地方運営という、両者にとっての国家運営・地方運営の思惑が一致した結果として捉えた。I propose an examination of the role of a local community in medieval Japanese society, from investigating aspects of <i>Kofun</i> and <i>Yokoanabo</i> (cave tombs) spread out in the Sagami region from the late 6<sup>th</sup> to 7<sup>th</sup> century.It is known that there are some <i>Kofun</i> which have many possessions buried together with a dead body, such as the <i>Tonoyama Kofun</i> or the <i>Rachimen Kofun</i> in the <i>Sannomiya</i> area, <i>Sagami</i> region. This area was considered as a graveyard of the <i>Sagami Kokuzo</i> (国造) with respect to the abundance of possessions buried together with a dead body, characteristics of the horizontal stone chamber, and the dimensions of the tomb mounds. I call this area in which many <i>Kofun</i> and <i>Yokoanabo</i> are concentrated the "Sannomiya Kofun group" and I establish that the area encompasses 2.5 km square around <i>Sannomiya-Hibita</i> shrine, which was <i>Shikinaisha</i> (式内社) provided by <i>Engishiki</i> (延喜式) book of laws and regulations. And I interpret the <i>Tonoyama kofun</i> as a keyhole-shaped tomb mound through the observation of the present topography.Recent excavations have revealed that there are many keyhole-shaped tomb mounds in the Sagami region. I compared the <i>Sagami Kokuzo</i> area, including the <i>Sannomiya Kofun</i> group, with the <i>Shinaga Kokuzo</i> area, focusing on the locations of tomb mounds and the structure of tomb types in a group. As a result, I found two phases. One is the case in which the main area of tombs were limited around a kofun group, and in the other case the main area of tombs moved along a river with the passage of time.I also found abundant superior possessions buried with a dead body which were excavated from a tomb mound of the chief, in cases where there are tomb mounds and <i>Yokoanabo</i> in a same <i>Kofun</i> group area. With the passage of time, abundant superior possessions came to be buried with a dead body in <i>Yokoanabo</i>. In the case of the areas which are predominant in <i>Yokoanabo</i>, abundant superior possessions were buried in <i>Yokoanabo</i> the same as in a tomb mound of a chief. I think these areas acted as relay stations for the transportation of arms and other necessities for state control.Many keyhole-shaped tomb mounds were made and then went out of use from the late 6<sup>th</sup> to the early 7<sup>th</sup> century, through the time of an interruption in making keyhole-shaped tomb mounds. I think these facts reflect that a keyhole-shaped tomb mound was made for one person for generations, as influenced by external factors rather than internal factors of the area. From the background of the political change in Asia and the political situation of the Korean Peninsula, the structure of <i>Yamato Seiken</i> (political power) confirms that local chiefs held <i>Yamato Seiken</i>, and local chiefs gained political power and support for local governments through keyhole-shaped tombs. This influenced the consensus of expectations of the central political power and local chiefs.
著者
岡本 貴久子 Kikuko OKAMOTO オカモト キクコ
出版者
総研大文化科学研究
雑誌
総研大文化科学研究 (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.10, pp.69-97, 2014-03

本稿で取り上げるテーマは、東京帝国大学教授本多静六林学博士が取り組んだ明治期の学校教育に関わる記念植樹である。ここでは特に本多が著した『学校樹栽造林法』や大学演習林における諸活動を拠り所に、明治期の学校植林の導入時における社会的背景や米国の学校植林思想、森林に係る法制度を検討することにより、近代日本における学校記念植樹の支柱となったと考えられる自然観について考察することを目的とする。 竹本太郎氏の先行研究の通り、明治28(1895)年、文部次官牧野伸顕は米国で営まれていたArbor Dayと称する植樹日に影響され、小学児童による学校樹栽を奨励する。今日、学校林と呼ばれる植林のさきがけと言える活動だが、当時の目的は第一に不毛な山林を有効活用し、且つ学校基本財産を増築することにあった。同時に皆で樹木を植えることは団体行動における児童の規律性や自然への愛好心、延いては国を愛する心の涵養に効果があるとして小学校教育に導入されたのである。 学校樹栽に係る方法論の構築を牧野より委嘱された新鋭の林学者本多静六は、「木一本首一つ」といわれた時代に行なわれたような厳しい山の労働として植林作業ではなく、「修学の記念」として風景を楽しみながら山に入り、健康づくりを兼ねた一種の運動会の如く、レクレーションの要素を備えた植林活動を推奨した。「百年の長計」という森づくりでは、持続可能であることが肝要であり、経済学博士の肩書きを有する本多は、費用をかけずに誰でも気軽に参加できる方法を論じ、楽しさをその活動の根本に据えたのである。 本多の説く学校樹栽造林法は、日露戦捷の動向やメディアの宣揚効果とともに各地に普及するが、これは本多の方法論が必ずしも西洋的、近代合理的な自然観に傾くものではなく、「不二道」という実践道徳の要素を含む富士山信仰を身に付けた、本多の伝統思想が生かされたところに構築された方法論であったことに基因すると考えられる。明治期の学校樹栽活動においては前近代と近代の、或いは東洋と西洋の自然観が効果的に発揮されたところにその展開を見たといえるのではないだろうか。This article focuses on the primary school memorial forestry activities in the Meiji era that were promoted by Dr. Honda Seiroku, a professor of the Imperial University of Tokyo. By analyzing his text Gakkō jusai zōrinhō (The Method of School Forestry) and his planting operations in the forest for research managed by his university, and by examining the historical and social context of his innovations, as well as the related forestry ordinances, I explore what his view of nature might be based on. As mentioned in a previous study of Dr. Takemoto Tarō (Sanrin, No. 1506), Makino Nobuaki was impressed by the institution of Arbor Day in the United States and in 1895, when he was serving as Vice-Minister of Education, gave an instructional address on school forestry to primary school principals (in what is now called Gakkō Shokurin). The aims of school forestry activities were not simply educational, that is, to cultivate children's discipline, love of nature, and patriotism, but were also administrative—to increase and manage school funds by planting trees. Makino entrusted the promising Dr. Honda with the task of coming up with the method of school forestry and recommended tree planting to memorialize school excursions on which pupils enjoyed going into the hills and mountains and observing the scenery, a healthful recreational activity similar to sports days. The essential condition for any long-term planting is sustainability; therefore Dr. Honda, who also happened to be an economist, lectured on a feasible approach to planting, in which anyone can participate without constraint as a form of enjoyment rather than as hard work. Honda's Gakkō jusai zōrinhō method was disseminated throughout Japan in the Meiji era, at a time of rising spirits in commemoration of victory in the Russo-Japanese War, when national media were contributing reports on school forestry activities. The reason for this was not so much a partiality toward westernization and rationalization, but rather it was that the method of Honda—who venerated practical morality and had also imbibed the folk belief in the divinity of Mt. Fuji—is arguably more of an integration of the thoughts of East and West, or Tradition and Modernity.
著者
窪田 暁 Satoru KUBOTA クボタ サトル
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科
雑誌
総研大文化科学研究 = Sokendai review of cultural and social studies (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.10, 2014-03-31

本稿の目的は、ドミニカ共和国(以下、ドミニカ)の移民送りだし社会としての面、およびトランスナショナルに展開する移民と故郷の人びととの相互交渉に注目し、そのなかから誕生した「ドミニカンヨルク」というイメージにドミニカ社会のどのような価値観が投影されているかについて考察するものである。そのうえで、このような相互交渉にもとづき生みだされた移民イメージが野球選手に移民としての役割を担わせることに結びついたことを明らかにする。 トランスナショナルな現象を扱う先行研究では、故郷の人びとを移民からの影響を一方的にうける(うけない)対象として捉えてきた。そこで描かれるのは、移民からの影響をうけて変容するコミュニティや非移民の姿であった。しかし、多くの人びとは移民からの最低限の送金でなんとか生活を送り、バリオ(共同体としての町、村)内に格差が拡大しないような節度あるふるまいを実践している。それを支えているのが、地域社会の伝統的な規範意識や価値観である。 しかしながら、現在のドミニカをめぐる経済状況は厳しく、より多くの送金を受けとりたいというのがバリオの人びとの本音であることも事実である。そうした状況のなかで、年々増え続ける移民に対して、一時帰国の際に華美で散財のかぎりを尽くす「ドミニカンヨルク」というステレオタイプ・イメージを創りあげ、国際電話やfacebookといったトランスナショナルな相互交渉を通して、移民にも「ドミニカンヨルク」像を演じさせることに成功したのである。さらに、こうした「ドミニカンヨルク」の役割を、野球選手に担わせることによって、今度は「野球移民」を誕生させることに繋がっているのである。 そこで本稿は、こうしたステレオタイプ・イメージの創出を、二国間にまたがるトランスナショナルな相互交渉の過程から明らかにする。そのうえで、伝統的な規範意識や価値観を武器に、新自由主義経済が蔓延する予測不可能で不安定な社会を生きぬくドミニカの人びとの生活戦略の在りようを示したい。Focusing on transnational discursive relations in the Dominican Republic, this article aims to investigate how behavior is symbolized in the process of creating the migrant image of “Dominican York.” I further consider how the process of creating this image produced the figure of the baseball migrant. Dominican emigration has increased substantially since the 1960s, and there are now about two million Dominicans living in the U.S.A. My fieldwork shows that they express a sense of still belonging to their homeland at two levels. The first is by keeping a direct connection through frequent calls to their homeland and sending remittances to their families. The second is reflected in the frequent return trips to their homeland. The existing studies on Dominican emigration dealing with transnationalism have focused on the unidirectional impact of migrants on their native country by their sending of remittances. However, these studies have paid scant attention to an important aspect of everyday cultural practice in the sending society, that is, the effect of this immigration on morale and behavior in the local community back home. Social conditions in the Dominican Republic, however, remain difficult, and it is still true that local people need to receive more remittances. In the transnational discursive relations, nonmigrants have used local knowledge to create a migrant stereotype image of luxury and ostentation in “Dominican York.” In so doing, they have allowed migrants there to perform this role, and this has been a factor in the birth of the baseball migrant. Here I indicate the process of how a stereotype image has been created through the transnational discursive relations of both migrants and nonmigrants. I will show the Dominican life strategy of survival with local knowledge in the face of a spreading, unstable, and unpredictable neo-liberal world.
著者
岡本 貴久子 Kikuko OKAMOTO オカモト キクコ
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科
雑誌
総研大文化科学研究 (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.9, pp.81-97, 2013-03

本研究では近代日本において実施された「記念」に樹を植えるという行為、即ち「記念植樹」に関する文化史の一つとして、明治12(1879)年に国賓として来日した米国第18代大統領U.S.グラント、通称グラント将軍による三ヶ所(長崎公園・芝公園・上野公園)の記念植樹式に焦点をあて、それが行われた公園という空間の歴史的変遷を分析することによって、何故そうした儀式的行為が営まれたかという意図とその根底に備わっていると見られる自然観を考察した。 なぜ記念植樹か。実は近代化が推進される当時の日本において記念碑や記念像が相次いで設置されていく傍らで、今日、公私を問わずあらゆる場面において一般的となった記念樹を植えるという行為もまた同様に、時の政府や当時を代表する林学者らによって国家事業の一環として推進されていたという事実があり、加えてこうした儀式的行為を広く一般に浸透させる為に逐一ニュースとして記事にしていた報道機関の存在から、記念に植樹するという行為もまた日本の近代化の一牽引役として働いていたのではないかと推測され得るからである。 本文では1872年のグラント政権が開国後間もない新政府の近代化政策に与えた諸影響を中心に論じたが、例えばこのグラント政権下において米国で初めて国立公園が設定され、Arbor Dayという樹栽日が創設され、且つ同政権下の農政家ホーレス・ケプロンが開拓使顧問として来日、増上寺の開拓使出張所を基点に北海道開拓を指揮するなど、グラント政権下における殊に「自然」に関わる政策で新政府が手本としたと見られる事柄は少なくない。こうした近代化の指導者ともいうべきグラント将軍による記念植樹式は、いずれも明治6(1873)年の太政官布告によって「公園」という新たな空間に指定された社寺境内において営まれ、米国を代表する巨樹「ジャイアント・セコイア」等が植えられたのだが、新政府にとってそれは単に将軍の訪日記念という意味のみならず、「旧習を打破し知識を世界に求める」という西欧化政策を着実に根付かせる意図を持ってなされた儀式的行為であったと考えられる。しかしながら同時にこの儀式的行為は、「樹木崇拝」という新政府が棄てたはずの原始的な自然崇拝が根底に備わるものであり、新旧の自然思想が混淆している点を見逃してはならない。 従って明治初期の記念植樹という行為は、新旧あるいは西洋と東洋の思想とかたちと融和させるために行われた一種の儀式的行為であり、明治の指導者たちはこのような自然観を応用しながら近代化促進につとめたといえるのではないだろうか。Planting memorial trees is today a common practice. The act of planting such trees indeed contributed to the promotion of Japanese policies of modernization in the Meiji era, no less than erecting monuments or memorial statues. Two facts support this hypothesis. First, there are texts encouraging the planting of memorial trees, some written by Honda Seiroku, professor of the Imperial University of Tokyo, who laid the groundwork for modern forestry, and others issued by such government offices such as the Ministry of Agriculture, Commerce and Forestry. Second, the media came to recognize the news value of memorial planting and reported on it. Under these circumstances, memorial trees were planted widely as rites of national significance in modern Japan. The event that I examine here is the ceremony commemorating General Ulysses S. Grant's visit to Japan as a state guest in 1879. Materials indicate that General Grant planted memorial trees at three different parks, all of which were former landholdings of Buddhist temples and Shinto shrines, transformed now into modern Japan's first public parks by decree in 1873. An analysis of the characteristics and historical changes of these park spaces and the types of memorial trees chosen for planting suggests that the intention was to reflect the policy of Westernization in Japan, with its emphasis on breaking with the past and obtaining new knowledge. At the same time, the root of these ritual practices can be seen in the worship of trees which the government otherwise rejected. There is evidence here that an admixture of old and new ideas regarding nature was one source powering this particular aspect of the promotion of modernization in Japan.
著者
張 培華
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科
雑誌
総研大文化科学研究 (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.8, pp.1-25, 2012-03

長保二(一〇〇〇)年二月二十五日、藤原彰子(九八八~一〇七四)は、新たな中宮となり、元の中宮定子(九七七~一〇〇一)は、皇后に代わった。同年十二月十六日、皇后定子は三番目の皇女を出産の後、まもなく崩御した。わずか二十五歳(『日本紀略』)、あるいは二十四歳(『権記』)であった。 この年、五月五日の端午節の頃、皇女姫宮(五歳)の脩子内親王(長徳二(九九六)年御生誕)、皇子若宮(二歳)の敦康親王(長保元(九九九)年御生誕)のため、菖蒲の輿、薬玉などが贈られたものの中に、「青ざし」という物があり、清少納言はそれを取って艶なる蓋に載せて、皇后定子に献上した。懐妊三ヶ月の皇后定子は、清少納言の心意を受け取って、すばやく一首の和歌「みな人の花や蝶やといそぐ日もわが心をば君ぞ知りける」と詠んだのである。そして清少納言は「いとめでたし」と賛美した。 該当する章段の年次は明確で、重要な章段と認められ、さまざまな視点から論じられてきた。しかし、まだ幾つかの問題が残される。 例えば、清少納言が取った「青ざし」という物については、上代から平安までの作品にはまったく見られないため、いまだに定説を見ず、『食物知新』に関わる語彙との指摘はあるものの、適切であるとはいえない。また、清少納言は「青ざし」を硯の蓋にのせて、皇后定子に献上した。なぜ清少納言は「青ざし」を定子に奉ったのか。いったい「青ざし」という物は、具体的にどのようなものなのか。さらに皇后定子は「青ざし」を受けて、すばやく「花や蝶や」を歌に読み込んでいるが、万葉から平安まで「蝶」を和歌に詠むことは極めて少ない。いったい皇后定子は何の比喩を念頭におかれているのか。 本稿では、これらの二点を中心として、漢語、漢文学の影響を軸に据えて、改めて考えてみたい。Fujiwara Shōshi (988–1074) became the new empress (chūgū) of the Emperor Ichijō (980–1011) on February 25, 1000, and Fujiwara Teishi (977–1001), who had previously been chūgū, was designated kōgō (also translated as empress, but the title indicated a diminution of imperial favor in this instance). Teishi then moved into the Third Ward, where, after giving birth to the third princess, she passed away on December 16, only twenty-five years old (Nihon kiryaku).The section of "When the Empress Was Staying in the Third Ward" is a narration about the festival of the Fifth Day of the year 1000, when the first Princess Shōshi was five years old and the second Prince Atsuyasu was two years old. On this day there were some festive things such as herbal balls which were presents from the Palace. Notably, there was something called an aozashi. Sei Shōnagon picked it up, placed an elegant cover on it, and presented it to Empress (kōgō) Teishi. Teishi, who was three months pregnant, perceived what Shōnagon meant to convey, received the aozashi and quickly composed a splendid poem in response, using the phrase "hana ya chō ya": "Even on this festive day, when all are seeking butterflies and flowers, you and you alone can see what feelings hide within my heart."This clearly dated passage is regarded as quite important, and it has been discussed by many scholars. However, some problems of interpretation remain unresolved. Firstly, what is the meaning of the word aozashi? Secondly, from the Nara period to the Heian period, there were only a few waka which used the word butterfly, so what feelings were hidden by Empress Teishi between the "flowers and butterflies"? This essay suggests that the answers to these questions can be discovered in the influence of ancient Chinese expressions.
著者
プラダン ゴウランガ チャラン Gouranga Charan PRADHAN
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科
雑誌
総研大文化科学研究 = Sokendai review of cultural and social studies (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.13, pp.99-111, 2017-03-31

『方丈記』は成立して間もないころから、様々な視点から多くの作品の中に受容され、連綿と関心が注がれ続けてきたのみならず、外国の人々からも多くの注目を集めてきた。夏目漱石が帝国大学在学中、英文学科の教授であったディクソン(James Main Dixon)の依頼により『方丈記』の最初の外国語訳として英訳を行ったことはよく知られている。また、ディクソンは、漱石の英訳を下敷きにして長明とワーズワースを対比した論文を執筆し、独自に『方丈記』の英訳も試みた。この二人の取り組みをきっかけとして、この作品は海外においても認識されるようになった。従って、『方丈記』に対する漱石とディクソンの持ったイメージは、国内外におけるこの作品の受容史を検討する上で重要な意味をもつと考えられる。本稿ではこの二人の執筆した論文を中心に、国内外の英語文献から『方丈記』に関する言説の分析を行い、その受容に関する理解を深めることを目的とする。そこから漱石の英訳以前において既に英語をはじめ外国語の文献の中でこの作品が言及されていることが判明した。漱石に英訳を依頼したディクソンは、西洋の人々の中で初めてこの作品に強い関心を持ったと言えるが、より具体的に彼は『方丈記』に描写された隠者ないし孤独さといった主題に注目したと思われる。また、ディクソンの研究発表や当時の学会議事録から、西洋の人々はキリスト教の道徳的価値観の視点から鴨長明の行動を理解しようとしたものと考えられる。さらに漱石のエッセイとディクソンの書いた論文の関係についても検討をすると、ディクソンは漱石のエッセイから多くの内容を自身の論文に取り入れたこともわかった。Kamo no Chōmei’s Hōjōki (1212) has a long history of readership. Throughout the history of Japanese literature, it continuously invited attention, not only from readers in Japan, but also from abroad. It is well known that Natsume Sōseki translated Hōjōki into English while he was a student at the request of James Main Dixon, his English literature professor at Tokyo Imperial University. Dixon, building upon Sōseki’s translation, further authored an article comparing Kamo no Chōmei with English poet William Wordsworth, and also produced his own English translation. It is owing to the endeavours of these two that Hōjōki became available to readers in the West for the first time. Hence, in order to study the history of Hōjōki’s reception, especially its circulation in the West, the insights offered by Sōseki and Dixon are particularly crucial. With this in mind, the focus in this paper is to deepen our understanding of Hōjoki’s reception through a close analysis of relevant English language resources that mention this work. We have found, from our study of late nineteenth century resources, that Hōjōki had already appeared, albeit in fragments, in English-language literature before Sōseki’s translation. Dixon was perhaps the first Westerner to show a keen interest in Hōjōki, and his primary thematic interest was the issue of reclusion and solitude. Also, the contents of Dixon’s talk on Chōmei show that the Western audience appreciated Hojoki and its author from the perspectives of the Christian cultural ethos. This paper also discusses the intertextual affinity between Sōseki’s essay and Dixon’s article. It demonstrates how the latter built his arguments based on the former’s ideas.
著者
小野 光絵 ONO Mitsue
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科 / 葉山町(神奈川県)
雑誌
総研大文化科学研究 = SOKENDAI Review of Cultural and Social Studies (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.18, pp.73-91, 2022-03-31

尾崎翠(一八九六―一九七一)のテクストでは、小説やエッセイ、詩や座談録といったジャンルを横断する形で、「チヤアリイ」ことチャールズ・チャップリンへの思慕というテーマが繰り返し表象されている。しかし、これらは従来の研究ではほとんど看過されており、充分な掘り下げがなされてこなかった。本稿は、短篇小説「木犀」(一九二九年)を中心に、その重要性に光を当てるものである。映画をめぐる尾崎の複数のエッセイの中で、「影」というキーワードが繰り返し登場する。「影」という言葉を用いて表象されているのは、映画などの媒体を通すことによって生じる一種の異世界の魅力であり、なおかつ、その中で生身の人間とは異なる異世界の存在として見えてくる人物像への強い関心である。「影の世界」に触れ、没入することによって自身の「心のはたらき方までも」が根本から影響を受けるという、単なる娯楽としての消費に留まらない映画鑑賞のあり方が語られる。また、チャップリンについても生身の俳優としてではなく、映画の幕の上の「影の男性」としての魅力が見出されている。以上を踏まえた上で、「木犀」の「私」の恋のあり方について考察を加えた。「木犀」の語り手である「私」は、学生時代の友人「N氏」からのプロポーズを退けたことで「淋しさ」を感じるが、映画館で観た「ゴオルドラツシユ」の「チヤアリイ」に対する好意を語る時にはじめて「恋してゐる」「愛してゐる」という言葉が用いられる。さらに、「私」が強く関心を示しているのは、億万長者となり恋人を得るハッピーエンドを迎えた成功者としての「チヤアリイ」ではなく、むしろその途上における「孤独な彷徨者」に対してである。その上で、彼の姿に「淋しさ」を見出して共鳴を示す「私」自身もまた、「孤独な彷徨者」の性質をそなえた人物であることを指摘した。また、映画が上映終了となった後、「私」は眼前にありありと「チヤアリイ」を思い描き、幻想上の会話を交わしている。ここに表象されるイメージは、映画「ゴオルドラツシユ」のチャップリンのイメージを借用・変形することによって表現された「私」の分身であり、「私」の〈内なる男性像〉の具現化であると、後続の尾崎翠テクストとのテーマの連続性に言及しつつ結論づける。In the texts of Midori Osaki (1896–1971), the recurrent theme of her admiration for Charles Chaplin or “Charlie” appears across her works such as in novels, essays, poetry and records of dialogues. However, this theme has been largely overlooked in previous studies and has not been explored in depth. This article focuses on the theme by making reference to one of her short stories titled Mokusei (Osmanthus fragrans) (1929) and sheds light on its importance.In some of Osaki’s essays on films, the word “shadow” appears repeatedly. This word suggests a sort of otherworldly fascination that emerges from a medium such as film, and her strong interest in the characters who appear in films as otherworldly beings different from actual human beings. She says movie watching is more than mere entertainment. When watching a film, she touches and is absorbed into the “world of shadow”, and even her way of thinking is influenced. Osaki finds Chaplin attractive as a “man of shadow” in a film rather than an actual human being. In light of the above, the author discusses what “I” is and what “my” love is in Mokusei.While “I”, the narrator of Mokusei, feels “loneliness” after declining a marriage proposal from N, a friend from her school days, she says “I am in love” and “I love you” for the first time when she talks about her fondness for Charlie in The Gold Rush, which she saw in the theater.The narrator is more interested in Charlie as a lonely wanderer than Charlie as a successful man who becomes a millionaire and has a happy ending with his lover in the film. The author points that “I”, the narrator, who finds “loneliness” in him and has sympathy for him, is also a person who may be characterized as a “lonely wanderer”.After the film, the narrator has an imaginary conversation with Charlie with a vivid image of Charlie in herself. The author, based on the thematic continuity in Osaki’s subsequent texts, concludes that the image represented in this novel is an alter ego of the narrator, borrowed and transformed from Chaplin’s image in the film The Gold Rush, and is an embodied “male model” in her mind.
著者
韓 玲玲 Ling Ling HAN ハン リンリン
出版者
総研大文化科学研究
雑誌
総研大文化科学研究 = Sokendai review of cultural and social studies (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.10, 2014-03-31

満洲国の日本人作家を代表する北村謙次郎は、在満中、綜合文芸雑誌『満洲浪曼』を創刊、主宰した。この雑誌において、彼は「満洲ロマン」という文学理念を提唱した。この理念は、北村が満洲で追い求めた文学の本質を示すものであり、彼の文学の全体像を解明する鍵となるものでもある。本稿では、雑誌『満洲浪曼』の編輯内容を通して、この作家の「満洲ロマン」理念を検討する。 『満洲浪曼』は1938年に創刊された。当時の満洲国では、日本人文学者の創作発表の場が足りないばかりか、一般の文芸作品が日本人の目に触れる機会も少なかった。北村は、そのような現状を打破したいと痛感し、雑誌を作ることを決意した。『満洲浪曼』は満日文化協会の財政的協力のもと、首都の新京において、北村謙次郎の努力によって誕生した。 『満洲浪曼』は全六輯からなり、ほとんど北村の編輯によるものである。寄稿者には、吉野治夫、緑川貢、横田文子、檀一雄、木崎龍、逸見猶吉、長谷川濬、大内隆雄などがいた。誌面は小説、詩、随筆、評論などを中心に構成され、その他、音楽、映画、演劇といったジャンルにも目配りがなされ、綜合文芸雑誌としての多様性を窺わせるものとなった。特に第四輯の「満洲作家選集」と第五輯の「満洲文学研究」は、同誌を満洲国を代表する文芸雑誌として不動の地位につけた。 この雑誌を通して、北村は自分の文学理念を模索しつづけた。彼にとって文学とは、自己表現の手段であり、自分の人生体験の存在証明でもあった。彼は文学の純粋さを強調し、文学の功利性を根本的に否定している。その文学は苦心の結晶であり、生活に深く沈潜しないと出来るものではなかった。 その考えに基づいて、北村は「大陸日本人の生きかたの規範としてのロマン」を「満洲ロマン」(「大陸ロマン」)であると定義した。彼は日本文化の優越感などを一切捨てて、肌から満洲の風土を感じることを強調し、自分の「死」によって膚肉から満洲風土を吸収するというふうに主張した。そして、それによって、他民族と一体化することを望んでいた。 しかし、創刊から僅か3年のうちに、満洲国の文化状況は大きく変わった。『満洲浪曼』も、北村謙次郎の求めた「大陸ロマン」も、満洲国政府の「文化統制」によって息の根を止められた。それはつまり、北村謙次郎の満洲に託した夢の挫折でもあった。Kitamura Kenjirō was one of the representative writers in Manchukuo. He founded the literary journal Manshū Rōman and advocated a concept of literature he called “Manshū romance.” The concept points to the essence of the literature pursued by Kitamura and is an important key to understanding his writing. This study takes up the contents of Manshū Rōman to examine the concept of the “Manchurian romance.” Manshū Rōman was started in 1938. At that time there were few opportunities for continental Japanese writers to publish their works, nor was there a literary journal that published on behalf of Manchukuo. Kitamura Kenjirō recognized this condition and decided to create a magazine. Thus, Manshū Rōman was born. Manshū Rōman consists of six issues, five of which were edited by Kitamura Kenjirō himself. Most of the Japanese writers who were living in Manchukuo published their works in the magazine. Included among them are Yoshino Haruo, Midorikawa Mitsugu, Yokota Fumiko, Dan Kazuo, Kizaki Ryū, Henmi Yukichi, Hasegawa Shun, and Ōuchi Takao. The magazine primarily published short stories, novels, poetry, essays, and criticism, but also included writing about music, film, and theater to show its cultural comprehensiveness. For Kitamura Kenjirō, literature was self-expression and the evidentiary record of his life. He carried out his concept of literature in this magazine. He emphasized literary purity and denied literary utility fundamentally. On this basis, Kitamura Kenjirō proposed “the romance as a norm of a continental Japanese’s way of life,” calling it “Manchurian romance” (“continental romance”). He cast aside the sense of superiority of Japanese culture, and emphasized experiencing the climate of Manchuria through one’s own skin, so that when one died one would be assimilated into that climate. In this way, he tried to promote the unification of Manchukuo with the other races. However, the magazine did not last more than three years, as change came about in the cultural situation of Manchukuo. The “great romance” which Kitamura Kenjirō asked for was ended by “cultural control” and his dream of the “Manchurian romance” was likewise frustrated.
著者
藤原 哲
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科
雑誌
総研大文化科学研究 (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.7, pp.59-81, 2011-03

1980年代までの研究において、環濠集落は弥生時代の代表的な集落であり、かつ防御的な機能を有しているという認識が強かった。近年では環濠集落像の見直しが進み、防御説に立脚しない論旨を展開する研究者も多く、集落ではない環濠の存在も指摘されるなど、新たな環濠像が数多く提示されるようになってきている。 従来のように「環濠集落=標準的な弥生集落」という見方は正しいのであろうか、小論では日本列島や弥生集落全体の中で、環濠集落がどのように位置づけられるのかの検討を試みた。 研究方法としては、近年、数多く調査されるようになった環濠集落のうち、ある程度構造が明らかな約300遺跡を集成し、時系列と分布とを中心として再整理する。また、集落規模や立地条件をもとに環濠集落の分類を行った。 上記の分析を通じて、環濠集落は源流となる韓国においても、日本列島での弥生時代を通じてみても、標準的な集落ではなく、むしろ極めて希少な集落形態であることを明らかにした。また、集落ではない環濠遺跡が多数あることも改めて認めることができた。 環濠集落の分類結果では、農耕文化が本格的に定着した時期に成立するような中・小規模の農耕集落が大多数であった。しかし、農耕文化成立期の全ての弥生集落に環濠が巡っていたわけではないため、環濠集落とはある特定の農耕集団の所産によるものと推察した。大規模な環濠集落や高地性の環濠集落などについては、更に数が少ない特殊な集落であることを指摘した。 これらの分析から、これまで標準的な弥生集落と思われがちな環濠集落が極めて希少な例であり、日本列島の弥生社会では農耕文化そのものを受け入れない地域、農耕文化と環濠集落の両方を受け入れる地域、農耕文化は受け入れても環濠集落を受け入れない地域など、様々な地域差が想定できた。This paper presents research on moat encircling settlements of the Yayoi period in Japan.Until the 1980s, many archaelologists thought the moat encircling settlements of at the Yayoi period were standard Defense settlements for warfare. Recently, however, many researchers have not adopted the defense theory.In this paper I review and consider Yayoi moat encircling settlements based on the research results so far. I have studied the research on over 250 moat encircling settlements in Japan and Korea. It is thought that, moat encircling settlements were not standard large settlements of the Yayoi period, rather, they were very rare settlements and only particular farming groups lived at such moat encircling settlements.With the establishment of agricultural culture, encircled settlements declined and eventually disappeared in Yayoi Culture. Most moat encircling sites were not settlements; however, some moat encircling settlements in the middle stage of the Yayoi period were large settlements.The examination and understanding of the moat encircling settlements of the Japanese islands can illuminate various regional differences.
著者
辺 清音 Qingyin BIAN ビアン チンイン
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科 / 葉山町(神奈川県)
雑誌
総研大文化科学研究 = Sokendai review of cultural and social studies (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.14, pp.87-108, 2018-03-31

華僑・華人研究において、近年のチャイナタウンの変貌が大きな問題の一つとなっている。本稿は日本の神戸市にあるチャイナタウン――南京町でおこった再開発とそこから生み出された店舗の変容について、人々の現場での実践をもとに論じる。1970年代から再開発されてきた南京町は、現在では観光地化され、主に飲食店や雑貨店が集中する商店街になっている。本稿は、南京町を研究対象に、店主や従業員がチャイナタウンで商売することに応じて店舗の独自性をいかに作り上げるのかを明らかにすることを目的とする。本稿で、事例とした三つの店舗は、華僑が経営する香港式茶餐庁と台湾式小籠包店、日本人夫婦が経営する中華らしい要素のある土産を扱う雑貨店である。事例1の茶餐庁は店主が両親の時代から血縁、業縁などに結ばれたネットワークを活かし、祖先の故郷である香港の庶民的な食文化を南京町で再現している。事例2の小籠包店は、業縁のある食品工場を通して、台湾から最新の小籠包量産技術を取り入れてフランチャイズの形で商売活動を展開している。さらに、華僑のように香港や台湾、中国大陸との天然な紐帯がない事例3の雑貨店の日本人店主は、日本の商社を通して中国産の中華らしい要素のある土産の仕入れと中国人従業員の採用によって商売関係を作り出してチャイナタウンでの生き残りの道を模索している。本稿は、店主と従業員たちが店舗の独自性を作り上げる日常の商売活動の中で、日本の地域社会、香港や台湾、中国大陸とのつながりを生かし、モノや情報を戦略的に選択する過程を検討する。それによってチャイナタウンの抽象的な「中華らしさ」を店舗の中に具体化して店舗を変容させたと主張し、店舗における多元的・多変的・共時的な「中華表象」が構築されてきたと結論付けた。本稿は華僑や日本人を含む地元の人々が経営している店舗――食をはじめ、雑貨などのモノによる「中華らしさ」を演じる場、に注目することによって、日常的なチャイナタウンを考察する一つのアプローチを模索したい。
著者
西山 文愛 Fumie NISHIYAMA ニシヤマ フミエ
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科 / 葉山町(神奈川県)
雑誌
総研大文化科学研究 = Sokendai Review of Cultural and Social Studies (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.17, pp.33-57, 2021-03-31

本稿は、ボルネオ島サバ州の都市近郊に暮らす先住民ドゥスンの人たちの自然利用の場で観察された「月」とのかかわりを主題として扱う。それにより、都市化が進むドゥスン社会で今もなお実践されている自然活動の外観を描き出すことを本稿の目的としている。ドゥスンの人びとは焼畑・水田耕作を中心に、熱帯林や川を利用した狩猟採集や漁労活動を実践することで、身近な自然資源を生活に利用してきた。このような自然資源を利用した生活は、熱帯雨林の環境改変、生業の変化、信仰の変化にともない変化が起きている。本稿が対象としているKD集落は、ペナンパンの市街から車で約15分と都市への移動が容易な立地でありながら、集落はクロッカー山脈から流れる川の麓に位置し、その周囲は熱帯林に囲まれている。そのため、集落においても環境改変や生業、宗教の変化が起きている一方で、周囲の熱帯林や集落の周囲にある林一帯、川、畑において自然を利用した活動を今も積極的におこなっている。さらに、筆者が2018年に実施した調査で、人々が自然を利用した活動の場において、月の満ち欠けを指針にしていたことが明らかになった。ドゥスンと月の関係についてはすでに1940年代にコタ・ブル地方のドゥスン社会を調査したイバンズの報告がある。そこで、本稿では筆者の調査結果とエバンスによるドゥスンと月の報告を比較検討することで、2000年代の当該社会における月の役割を検討する。それにより、近代的な営みと自然資源を利用した活動が絡み合う、現代ドゥスン社会の自然とのかかわりの一端を明らかにしたい。The main subject of this paper is the relationship between the moon and the indigenous people who live in Dusun near the urban area of Sabah State in Borneo. Through observation of their practices using nature, this paper aims to represent the outward appearance of activities that are still practiced in the increasingly urbanized Dusun society.The people of Dusun have continued to live a self-sufficient lifestyle by hunting. gathering and fishing, making use of the tropical forests and rivers, using primarily the slash-and burn method and paddy cultivation. Their lifestyle of making use of nature is undergoing rapid changes because of changes in the environment of tropical rainforests; people's livelihoods; and their religious beliefs as a result of the political and economic changes at the national level.The KD village where the Dusun people live, which is the focus of this paper, is located at the foot of a river flowing from the Crocker Range. While the village has easy accessibility to an urban area—approximately 15 minutes by car to the city of Penampang—it is surrounded by a tropical forest and as a result, the environment of the village, their livelihood, and their religious beliefs have changed, but their activities that make use of nature are still actively practiced. A survey conducted in 2018 revealed that they use the waxing and waning of the moon as a guide for their activities in nature.The relationship between the Dusun people and the moon was already reported by Evans, who investigated Dusun society in the Kota Belud region in the 1940s. Therefore, in this paper, an attempt is made to examine the changes in the relationship with nature in Dusun society by comparing the results of the author's research with the reports of the Dusun and the moon by Evans.
著者
高 燕文 Yanwen GAO ガオ ヤンウェン
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科 / 葉山町(神奈川県)
雑誌
総研大文化科学研究 = Sokendai review of cultural and social studies (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.15, pp.87-111, 2019-03

戦時下、農民文学懇話会(1938年11月発足)や大陸開拓文芸懇話会(1939年2月発足)という官民提携の文学団体が結成されたことにより、日本内地の多くの文学者たちによる積極的な満洲開拓地の視察・見学がなされた。彼らは、満洲農業移民の諸事情を題材として、大陸開拓文学と呼ばれる文学創作ブームを生み出し、満洲農業移民の宣伝及び記録の一役を担うこととなった。その代表作の一つとして、農民文学作家の重鎮である和田傳の小説で、当時の大ベストセラーとなった『大日向村』が挙げられる。この作品においては、分村移民の模範村であった長野県・大日向村の分村移民が題材にとられている。戦時下の日本語文学における満蒙開拓に関する言説空間などの問題を考える時、この小説は無視できない役割を担っていると思われる。だが、これまでの研究の多くは『大日向村』の国策宣伝小説というような位置づけへの関心に偏りすぎていて、作中の人物像、分村移民の宣伝・動員のストーリー、満洲イメージなどの具体的な作品内容に関する分析が足りない。本稿では、『大日向村』という小説に注目し、主に作品のテキスト分析を中心として、満洲農業移民に関わる社会学、歴史学などの研究成果を取り入れながら、この作品から作家が描いた満洲分村移民の諸相の抽出・提示を試みる。まず第1章で小説『大日向村』が出版された後の影響を指摘し、この小説に関する先行研究の問題点を提起し、本稿の問題意識と研究動機を説明する。続く第2章では、『大日向村』の創作背景を解明する。当時の和田傳の恐慌下の農村への関心、朝日新聞社の友人からの要請、農相・有馬頼寧との接近、農民文学懇話会への参加、日本内地と満洲の二つの大日向村への調査などの事実を指摘し、『大日向村』の成立までの経緯を追跡する。その後第3章では具体的な作品分析を展開する。主に、作品中に宣伝された分村移民の論理、登場した各層の人物、嵌め込まれた満洲イメージ、文学表象と歴史現実との対照という四方面から、この小説に反映された満洲分村移民の実像と虚像を考察する。最終章では、まとめとして、前述した分析に基づき、この小説の「国策宣伝」と「国策記録」の両方面の性格を論じる。議論を通じてこの小説が国策順応の開拓文学作品としての一面だけではなく、農民文学の代表作として、再評価されるべきだと主張する。After the establishment of Japanese writers' societies such as the Peasant Literature Conference Party (founded in November 1938) and the Continental Pioneering Literature Conference Party (founded in February 1939), many members of these groups started visiting Japanese peasants' villages in Manchuria. They reflected various aspects of Japanese emigration to Manchuria in their works. While promoting the emigration campaign and recording the historical circumstances of the era, they contributed to the popularization of the literary genre known as Tairiku kaitaku bungaku.One such representative work is Ōhinata-mura (1939), the best-selling documentary novel by Wada Tsutō, a prominent writer of peasant literature. This novel concerns the village-division (bunson) of Ōhinata village in Nagano prefecture, which came to be regarded as a showcase as well as a role model for the bunson emigration campaign. The author considers the novel to be a significant work for studying issues such as representations of emigration to Manchuria in Japanese literature during the war. Previous studies, however, focused on the aspect of the novel as propaganda for national policy and lack analysis in terms of personal profiles of the characters, the story plots related to propaganda and promotion of the bunson emigration campaign, and the representation of Manchuria. This paper attempts to investigate various aspects of bunson emigration represented in Ōhinata-mura while referring and adopting sociological and historical research results on agricultural emigration to Manchuria.The first section reviews the influence of the novel on society, points out aspects which have not been covered in previous studies, raises research questions, and states the objectives of this study. The following section examines the background when the novel was written. The author traces how the novel was created while considering Wada's interests in villages during the Great Depression, a request from his friend who worked at the Asahi Shimbun, his close relationship with the Ministry of Agriculture, his involvement in the Peasant Literature Conference Party, and his visits to the two Ōhinata villages in Nagano and Manchuria. The third section analyzes the text in further detail to discuss the real-life and fiction of bunson emigration to Manchuria through examination of the four aspects: the ideology of the bunson emigration campaign promoted in the novel, characters from different backgrounds and social status, the representation of Manchuria, and a comparison of the literary representation and historical facts.In the last section, the two characteristics of the novel as propaganda of national policy and as a record of national policy, are discussed based on the analysis stated above. The author argues that this novel should be evaluated not only as a work of Tairiku kaitaku bungaku to promote national policy, but also as a representative work of peasant literature.