著者
宮川 康子
出版者
京都産業大学日本文化研究所
雑誌
京都産業大学日本文化研究所紀要 = THE BULLETIN OF THE INSTITUTE OF JAPANESE CULTURE KYOTO SANGYO UNIVERSITY (ISSN:13417207)
巻号頁・発行日
vol.25, pp.1-26, 2020-03-31

伊藤仁斎は東アジアの思想基盤であった朱子学を真っ向から批判し、その形而上学的思考の枠組みを解体することで日本思想史に大きな画期をもたらした。しかし従来の研究史においては、仁愛にもとづく人倫世界の道徳を説くヒューマニストとしての側面が強調され、仁斎思想を一つの完結したものとして、その成立過程や思想の特質を論ずる研究が多かった。 本稿は仁斎思想を近世思想史の画期として位置づけ、そこから生まれた啓蒙的合理主義が、一方では一八世紀大坂の懐徳堂へと受け継がれ、また一方では仁斎思想の批判によって徂徠の制度的社会論が成立していく経緯を、主に徂徠学との対比のなかで明らかにした。私はここから無鬼論的社会論と有鬼論的社会論の二つの流れが生まれ、それが近代にまで流れ込んでいると考えている。近代思想史研究が、徂徠学の中に近代的社会統合論を見出しながら、それが仁斎の人倫社会の思想のアンチテーゼとして成立したものであることを見逃してきたのは、端的にいえば近代日本の国民国家の形成が徂徠を源とする有鬼論の系譜につながるものであるからだろう。仁斎思想の歴史的意味を今見直すことはその意味で重要であると考える。
著者
並松 信久
出版者
京都産業大学日本文化研究所
雑誌
京都産業大学日本文化研究所紀要 = THE BULLETIN OF THE INSTITUTE OF JAPANESE CULTURE KYOTO SANGYO UNIVERSITY (ISSN:13417207)
巻号頁・発行日
vol.25, pp.236-200, 2020-03-31

2013(平成25)年12 月に「和食:日本人の伝統的な食文化」がユネスコの無形文化遺産に登録された。当初、「会席料理を中心とした伝統をもつ特色ある独特の日本料理」を登録申請するはずであったが、その代わりに「和食」が申請された。和食は会席料理を含む広い概念とされるが、抽象的な概念であるので、具体性に乏しく、曖昧なものである。しかし、多くの研究では、和食と京料理、あるいは和食と日本食の区別が曖昧なまま論じられていることが多い。 そこで本稿は、まず京料理の展開の背景となった京都市域の農業の特徴を明らかにし、食文化との関連性を考えた。京都の独特な食文化の形成は、都市農業の特性が発揮された結果である。現在に至る京料理に影響を与えたのは、会席料理である。無形文化遺産「和食」は会席料理を含み、自然の尊重や年中行事などの日本文化との関連性や、栄養バランスなどの日本型食生活を意識した食文化であるとされている。 しかし、この和食の特徴は歴史的にも地域的にも、全国一律にみられるものではない。日本各地の郷土料理が全国的に普及しているわけではない。このことは、無形文化遺産の登録要件である「国民の間に広く定着している」に抵触する。つまり、和食は具体性をもたせようとすれば、特定できない曖昧な料理になってしまう。あえて和食のイメージを京料理に求めるとすれば、生産地と消費地が同一の都市で生まれた日本型食文化となる。具体的には、長きにわたって育まれてきた「見立て」ないし「もどき」料理、あるいは年中行事の「因み」料理になるであろう。
著者
並松 信久
出版者
京都産業大学日本文化研究所
雑誌
京都産業大学日本文化研究所紀要 = THE BULLETIN OF THE INSTITUTE OF JAPANESE CULTURE KYOTO SANGYO UNIVERSITY (ISSN:13417207)
巻号頁・発行日
no.24, pp.117-163, 2019-03-25

柳田国男(1875-1962)の民俗学は、著書『海南小記』(1925年刊)をきっかけのひとつとして、最晩年の著書『海上の道』(1961年刊)で終わる。この二つの著書は、いずれも沖縄文化を対象にしていた。さらにこれらの著書の刊行は、第二次世界大戦をはさんでいるので、二つの比較によって柳田の沖縄観や民俗学の変容を明らかにできると考えられる。柳田と沖縄に関する先行研究は数多くあるが、二つの著書の比較、沖縄に関する情報蒐集や研究交流などに言及した研究はほとんどない。 本稿は、柳田が沖縄に関心をもった経緯、沖縄をはじめとする南島研究の展開、研究者の交流、戦後の「日本」と沖縄を意識した柳田の論考、について考察した。『海南小記』の問題意識の多くが『海上の道』に受け継がれたが、その中心を占めるのは「日本民族起源説」をめぐるものであった。しかし、伊波普猷(1876-1947)をはじめとして多くの研究者が唱える南進説に対して、柳田は北進説を貫いた。この問題は現在でも決着をみていない。 『海上の道』では、実証を旨とする柳田には珍しく、多くの仮説を述べている。例証や事実だけを述べる『海南小記』とまったく異なっていたといえる。柳田は「海上の道」研究を民俗学の成果とは位置づけなかった。柳田は、あえてそれまでの民俗学の手法をとらずに、断定的な仮説を述べることによって、他の多くの隣接科学を巻き込んだ南島研究の発展を願ったようである。1 はじめに2 沖縄文化への関心3 南島と研究交流4 沖縄民俗と日本5 結びにかえて