12 0 0 0 OA 想像された都市

著者
上杉 和央
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2002年 人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
pp.000012, 2002 (Released:2002-11-15)

本居宣長(1730年から1801年)は国学者として著名である.彼は,まだ学問世界に身を置く23歳よりも以前から,多くの書物を読んでいるが,同じ頃,地図とも戯れていたことはほとんど知られていない.宣長は,15歳から23歳にかけて,6枚の地図を作製しているが,それらは既存図の単なる模写ではなく,彼独自の地理認識が表現されたものとなっている.その中でも,特に異彩を放っているのが「端原氏城下絵図」(本居宣長記念館蔵)と称される作品である. この図には端原氏の治める城下町が描かれている.端原氏とは何者か.実は本居宣長が創りあげた架空の氏族である.地図とは別に,宣長は (架空の)神代に端を発する端原氏の系図,および端原氏15代当主宣政時代の家臣256氏の略系図が記載された「端原氏系図」(本居宣長記念館蔵)と呼ばれている系図も作成しており,この宣政の治める城下町が描かれているのが「端原氏城下絵図」である.法量は51.7cm×72.0cm.裏面に「延享五ノ三ノ廿七書ハジム」とあり,19歳の頃,作製されたことが分かる.彩色は全体には施されていないが,端原氏に関する建造物の一部には朱が用いられている.街路や屋敷割,周辺部に至るまで精緻に描かれ,また系図中の人物がその住所どおりにほぼ矛盾なく記載されるといった芸の細かさである.部分的に空白もあり,もしかすると未完成であったのかもしれないが,全体としてこの地図の凝った趣向には圧倒させられるものがある. 構図をみてみると,一見して「京都図」に似ていることがわかる.当時,すでに京都図は林吉永を始めとする諸版元から売り出されていたが,その構図ははほぼ一定であった.これらの刊行図は北が上として描かれているが,東を上にして見た場合,「端原氏城下絵図」と京都図の構図は非常に類似したものとなる.系図についても王朝時代が意識されたものとなっており,京都という舞台が意識されていたことは明らかである.この頃の宣長は,京都に関する記事をあちこちから抜書した書物や,洛外図などを作成/作製しており,京都に対して強い憧憬の念を抱いていた.実際,京都に赴いたこともあり,これらを勘案すると京都図を見ていた可能性は極めて高い. 次に,「端原氏城下絵図」の都市と近世の実際の都市とを比較するため,矢守氏の提示された「城下町プラン」をもとに検討していく.矢守氏がパターンの析出に用いた,城内・侍屋敷地区・下士の組屋敷地区・町屋敷地区・囲郭といった指標をもとに,「端原氏城下絵図」を分析すると,この都市は「郭内専士型」に分類することができる.ここから,宣長の都市形態の理解のひとつに,このような「郭内専士型」という形態があったことが理解される.近世城下町は,それぞれの城主の意図にもとづいて都市が形成されたものである.その意味で,矢守らの分析する「城下町プラン」は支配者側の都市理念ないし都市認識の抽出であろう.しかし,それが市井の町人にどのように認識されていたのかは,あまり明確ではない.この意味で,町人である宣長が空想の都市を「郭内専士型」に描いたことは興味深い. 「郭内専士型」は近世城下町に広く見られる形態のひとつとされるが,当時の宣長がそのような一般的状況を理解して描いたとは考えにくい(第一,この分類は近代の所産である).それでは,宣長は何をもとに,この形態を思いついたのか.京都や江戸の旅行中に赴いた都市である可能性もあるが,やはり,矢守が「郭内専士型」の代表として挙げた都市,そして宣長が生活していた都市,松坂の影響であろう.宣長は日常生活を営む中で,武士と町人の住居地が区別されていることを,自然に受け止めていた.架空の都市を描く際,この日常経験にもとづく都市形態の認識が反映したと考えられる.「端原氏城下絵図」に描かれているのは,架空の都市である.しかし,宣長がまったくのゼロから創りあげたわけではない.彼の京都への憧れ,そして日常生活における都市空間の認識といったものが基礎となっている.さらに,宣長は「郭内専士型」といった支配者側の理念を(おそらく無意識のうちに)受け止めていることも重要であり,個人的な体験や志向性とともに,近世という時代的なコンテクスト,そして空間的なコンテクストの中で,「端原氏城下絵図」は想像/創造されたのである.
著者
金 木斗 哲 Yoon Hong-key
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2002年 人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
pp.000003, 2002 (Released:2002-11-15)

1991年にニュージーランド政府がユーロピアン以外にも移民の門戸を開いてから新たな生活スタイルを求める多くのアジアの人々が当地に渡っている。特に韓国人移民の増加は目を見張るところがある。現在韓国はニュージーランドの5番目の輸出国であり、イギリスを追い越す勢いで両国の経済関係は緊密になってきた。これに伴って韓国人移民も急速に増加し、1996年のセンサスでは総人口の0.35%に当たる12,657人もの韓国出身の住民が報告された。これは10年前の426人に比べ約30倍の増加であり、彼らはニュージーランドの多文化傾向に十分貢献できるまで成長している。また、ニュージーランドにおける最大の都市であるオークランドには約1万人以上の韓国人が住んでおり、オークランド総人口の約1%に上っている。彼らの居住地域を見ると、約6割がオークランド大都市圏のNorthshore地域に居住していると推定され、アジアからの移民グループの中でも最も地理的集中度が高い。 Yoon(1997)によると、韓国人移民の職業の種類は1992年の20から1997年の55と韓国人移民の増加に伴って多様化している。また、韓国人移民が経営する事業体の数も1992年の37から1997年の636へと1600%の増加を見せている。しかしながら、韓国人が経営する事業のほとんどは、ホスト社会の経済ネットワークに浸透できず、典型的なエスニック・ビジネスの段階に止まっている。つまり、韓国人の資本と経営スタイルで韓国人の従業員を雇い、主に韓国人を客にするものである。 では、ニュージーランドへ移民する韓国人はどのような人々で、なぜニュージーランドを移民先として選んだのか。ニュージーランドにおける韓国人移民はほぼ例外なく高学歴で中産階級のホワイト・カラー出身である。また、韓国経済が好況のピークに向かっていたときに祖国を離れた彼らは、子供の教育環境ときれいでゆとりある生活環境をもっとも重要な移住動機として挙げている。このような社会経済的属性や移民の動機は、低い社会経済的ステータスと経済的理由といった従来の韓国人移民とは明らかに異なっており、新しい韓国人ディアスポラを象徴するものと言える。このように異なる社会経済的背景と移住動機をもつニュージーランドにおける韓国人移民は、移住前に描いていたパラダイスとしてのニュージーランドのイメージと現実としてのニュージーランドでの生活の間でどのように妥協し生活を営んでいるのか。本報告ではニュージーランドにおける韓国人移民の動向を1996年度センサスの分析と現地での深層インタビューより明らかにする。 ニュージーランドにおける移民政策の転換はニュージーランドの実験と評される新自由主義改革の一環として1986年に行われた。それまでニュージーランドでは社会の安定(social fabric)という名分のもとに白人特にイギリスとアイランド出身を優遇する差別的な移民政策が厳格に維持されてきたが、1986年の移民法改正によって伝統的な特定出身国選好システムを廃止された。しかし、この改正では移民者に高い英語能力を要求するなど依然として差別的な要素が多く残され、期待された投資移民の増加はほとんど現れなかった。1986年の移民法改正が批判を浴びる中、ニュージーランド移民省は1991年に‘新しい移民者の個人的な貢献により多文化社会としてのニュージーランドを促す’ため、‘ポイント・システム’と呼ばれるより進んだ移民法改正に踏み出した。このポイント・システムの導入はアジアからの移民の増加に特に効果的であった。ニュージーランドの移民法は移民の数だけでなく、移民者の年齢、学歴、技術や経済状況をも巧みにコントロールしてきた。現在、ニュージーランドにおける韓国人移民の典型は3、40代で大学教育を受けた中産階級出身である。しかし、ニュージーランドにおける彼らの就業状況をみると、65%が失業ないし非就業人口であり、就業者のほとんども記念品店、レストラン、旅行代理店などのエスニック・ビジネスに従事している。これは移民社会の初期においては共通する現象であるが、韓国人移民の場合は言葉の壁以外にも文化的な違いによって主流社会への同化にほかの移民グループより困難を極めている。 ニュージーランド移民省長官は1998年に“移民政策の失敗は数万の高級労働力が彼らの専門分野で働く展望をなくす結果を招いた”と認めた。確かに数千の高級技術を持つ韓国人移民が失業或いは非就業状態にある。しかし、ニュージーランドにおける韓国人移民社会の歴史は浅く、主流社会に適応する十分な時間がなかったことを考慮すると、彼らのアイデンティティつまり、Koreanか, New Zealanderかあるいは Korean New Zealanderかは今まさに形成中であると考えられる。また、それは移民社会に存在する3つの力、同化、隔離, そしてディアスポラの相互作用にかかっている。
著者
太田 茂徳
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2002年 人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
pp.000016, 2002 (Released:2002-11-15)

○発表内容I はじめに 本発表では,明治20年代以降の兼六園の歴史過程を捉え返し,兼六園の「保勝」の問題が戦前期にどのように論じられ,どのような問題点が議論されてきたのかを概観したいと考えている。 明治維新により金沢城の前庭としての兼六園は1つの役割を終えたことになるが,景観・事物の保護・保存という流れ,また都市内の「公園」という流れから,兼六園はこの2つの流れから論じることが可能なように思われる。II 公園としての兼六園の歴史 このうち「公園」としての兼六園の辿ってきた流れについては,太田[2000]において明治初期の状況について論じた。そこでは,明治初期の兼六園が,国家の目的をもってを造られた上野公園と同様に,新時代の到来を演出する「新しさ」の集積地であることが確認された。 明治初期には,兼六園において幾度も博覧会が開かれ,様々な西欧の文物が紹介されている。明治4年に園内には新しくできた鉱山学所の講師として招かれたデッケンの居宅も兼六園内に建てられ,後には勧業博物館として利用されている。兼六園は,最新の技術や知識のもたらされる場として,いわば「西洋への窓」のような場所であったと言えるだろう。兼六園には勧業博物館・図書館・工業学校などの時代の先端をいくような施設が集中的に立地し,そこに多くの人々を集めることによって新しい知識・見識を人々に与えるような場になるのである。このことは,吉見[1987]や橋爪[1990]のいうような意味での博覧会の歴史とも符合している。兼六園も博覧会の開催される場として,博覧会と意味を共有してきたのである。 明治30年頃からは,新しい施設が兼六園内に設置されることは少なくなるが,様々な集会が兼六園内で行われるようになる。旅順陥落祝賀会などの日清・日露戦争の戦勝祝賀会,そして明治天皇の大葬に伴う行事が園内で行われている。こうしたことは,公園と天皇・国家との結びつきを示すような出来事であり,兼六園と国家的な儀礼との結びつきを強調しているように思われる。これ以外にも,戸水寛人の野外演説会が開かれ,昭和4年以降はメーデーの会場として利用されるなど,市民的な行事の場としての位置づけも持っている。III 兼六園保存論の流れ 近年の町並み保存を取り扱った研究として,沖縄県竹富島の「赤瓦の町並み」の保存運動を伝統文化の創造という観点から考察した福田[1996],そして千葉県佐原市の町並みについて,景観の形成過程を商業活動の変遷過程を通して考察した小堀[1999]が挙げられる。これらは,主として1975(昭和50)年の文化財保護法改正による「伝統的建造物群」概念導入以降の過程を扱ったもので,本発表で対象とする明治期の兼六園とは時代背景に差異があるが,こうした町並み保存の問題の前史として兼六園など名勝の辿った歴史的過程を位置付けることも可能であろう。また戦前期の景勝地の保存を扱った研究としては,荒山[1995]が日本の国立公園の成立を「文化のオーセンティシティを創り出す近代的なシステム」として捉えて,文化財や史蹟名勝天然紀念物との関連にも触れながら概観している。 本発表では,これらの研究成果も踏まえ,兼六園の美観を守ろうという議論の流れを把握したいと考えている。