著者
金 木斗 哲 Yoon Hong-key
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2002年 人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
pp.000003, 2002 (Released:2002-11-15)

1991年にニュージーランド政府がユーロピアン以外にも移民の門戸を開いてから新たな生活スタイルを求める多くのアジアの人々が当地に渡っている。特に韓国人移民の増加は目を見張るところがある。現在韓国はニュージーランドの5番目の輸出国であり、イギリスを追い越す勢いで両国の経済関係は緊密になってきた。これに伴って韓国人移民も急速に増加し、1996年のセンサスでは総人口の0.35%に当たる12,657人もの韓国出身の住民が報告された。これは10年前の426人に比べ約30倍の増加であり、彼らはニュージーランドの多文化傾向に十分貢献できるまで成長している。また、ニュージーランドにおける最大の都市であるオークランドには約1万人以上の韓国人が住んでおり、オークランド総人口の約1%に上っている。彼らの居住地域を見ると、約6割がオークランド大都市圏のNorthshore地域に居住していると推定され、アジアからの移民グループの中でも最も地理的集中度が高い。 Yoon(1997)によると、韓国人移民の職業の種類は1992年の20から1997年の55と韓国人移民の増加に伴って多様化している。また、韓国人移民が経営する事業体の数も1992年の37から1997年の636へと1600%の増加を見せている。しかしながら、韓国人が経営する事業のほとんどは、ホスト社会の経済ネットワークに浸透できず、典型的なエスニック・ビジネスの段階に止まっている。つまり、韓国人の資本と経営スタイルで韓国人の従業員を雇い、主に韓国人を客にするものである。 では、ニュージーランドへ移民する韓国人はどのような人々で、なぜニュージーランドを移民先として選んだのか。ニュージーランドにおける韓国人移民はほぼ例外なく高学歴で中産階級のホワイト・カラー出身である。また、韓国経済が好況のピークに向かっていたときに祖国を離れた彼らは、子供の教育環境ときれいでゆとりある生活環境をもっとも重要な移住動機として挙げている。このような社会経済的属性や移民の動機は、低い社会経済的ステータスと経済的理由といった従来の韓国人移民とは明らかに異なっており、新しい韓国人ディアスポラを象徴するものと言える。このように異なる社会経済的背景と移住動機をもつニュージーランドにおける韓国人移民は、移住前に描いていたパラダイスとしてのニュージーランドのイメージと現実としてのニュージーランドでの生活の間でどのように妥協し生活を営んでいるのか。本報告ではニュージーランドにおける韓国人移民の動向を1996年度センサスの分析と現地での深層インタビューより明らかにする。 ニュージーランドにおける移民政策の転換はニュージーランドの実験と評される新自由主義改革の一環として1986年に行われた。それまでニュージーランドでは社会の安定(social fabric)という名分のもとに白人特にイギリスとアイランド出身を優遇する差別的な移民政策が厳格に維持されてきたが、1986年の移民法改正によって伝統的な特定出身国選好システムを廃止された。しかし、この改正では移民者に高い英語能力を要求するなど依然として差別的な要素が多く残され、期待された投資移民の増加はほとんど現れなかった。1986年の移民法改正が批判を浴びる中、ニュージーランド移民省は1991年に‘新しい移民者の個人的な貢献により多文化社会としてのニュージーランドを促す’ため、‘ポイント・システム’と呼ばれるより進んだ移民法改正に踏み出した。このポイント・システムの導入はアジアからの移民の増加に特に効果的であった。ニュージーランドの移民法は移民の数だけでなく、移民者の年齢、学歴、技術や経済状況をも巧みにコントロールしてきた。現在、ニュージーランドにおける韓国人移民の典型は3、40代で大学教育を受けた中産階級出身である。しかし、ニュージーランドにおける彼らの就業状況をみると、65%が失業ないし非就業人口であり、就業者のほとんども記念品店、レストラン、旅行代理店などのエスニック・ビジネスに従事している。これは移民社会の初期においては共通する現象であるが、韓国人移民の場合は言葉の壁以外にも文化的な違いによって主流社会への同化にほかの移民グループより困難を極めている。 ニュージーランド移民省長官は1998年に“移民政策の失敗は数万の高級労働力が彼らの専門分野で働く展望をなくす結果を招いた”と認めた。確かに数千の高級技術を持つ韓国人移民が失業或いは非就業状態にある。しかし、ニュージーランドにおける韓国人移民社会の歴史は浅く、主流社会に適応する十分な時間がなかったことを考慮すると、彼らのアイデンティティつまり、Koreanか, New Zealanderかあるいは Korean New Zealanderかは今まさに形成中であると考えられる。また、それは移民社会に存在する3つの力、同化、隔離, そしてディアスポラの相互作用にかかっている。
著者
金 木斗 哲
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2004, pp.18, 2004

セマンゴム干拓事業をめぐる賛否両論は、従来の'開発か環境か'という対立の地域的な展開を越えて、直接的な利害関係をもたない人々をも巻き込んで全国的な展開を見せている。これを空間スケールでみると、'干拓事業の直接的な利害関係住民=生活基盤をなくすことなので反対だが,補償との関係で消極的;補償対象外の地元住民=地域振興への期待と環境悪化への不安;広域の地元(全羅北道)=地域振興への期待で賛成;全国=環境面への配慮からおおむね反対'という構図といえよう。実際に、広域の地元(全羅北道)のマスコミの論調は事業の早期完工を促すものばかりで,テレビの討論番組で反対を表明した地元大学の教員(とその所属大学)は地元住民の抗議電話で職務が中止されるほどであった。また、知事選挙を含む地方選挙では常に「複合産業団地」への用途変更を視野に入れた公約が表明されており,推進派、反対派を問わずセマングム干拓事業によって造成される土地が農地として利用されると考えている人はほとんどいない。(無論、このような図式は、理解のために単純化したものである。)このようにセマングム干拓事業をめぐる論争が全国的に拡大した背景には、セマングム干拓事業そのもののが従来の干拓事業とは桁外れに大規模であること以外にも、'地域感情'称される負の遺産を残している韓国の国土開発の展開と1980年代の民主化運動の過程で培養された市民の政治的交渉能力の向上が大きくかかわっている。したがって、セマングム干拓事業をめぐる対立構図を理解するためには、韓国における国土開発や1980年代の民主化運動に関する理解が不可欠となる。ここでは、セマングム干拓事業との関連のもとに韓国の国土開発の特徴と1980年代の民主化運動の経験を紹介し、それらがセマングム干拓事業をめぐる論争(または運動)とどのようにかかわっているかについて報告者の見解を述べたい。1.国土開発政策の展開とセマングム問題1962年に始まった第1次経済開発5ケ年計画(1962_から_1966)を契機に韓国は高度経済成長期に入り、1980年代まで華々しい経済成長と国土全体にわたる地域変動が続いた。第6次経済開発5ケ年計画(1987_から_1991)に至る過去30年間、その国土開発戦略は拠点開発(1960・70年代)、広域開発(1980年代)、地方分散型開発(1990年代)、均衡開発(2000年以降)と、地域間格差を縮小する方向へ変わりつつあると言われているが、1960年代から始まった国土空間の両極集中(ソウルを中心とする首都圏と釜山を中心とする東南臨海地域)は依然として解決に向かわず、国土面積の約25%に過ぎないソウル_から_釜山軸上に総人口の70%以上が住んでいる。このような過程で開発の恩恵から最も遠ざかっていたのが湖南地方と呼ばれる全羅南道と全羅北道であり、この地域における開発からの疎外感は、当地域出身の政治家である金大中氏への迫害への憤慨とも相まって,「抵抗的地域主義」を生み出した。セマングム干拓事業に対する地元(全羅北道)の執着には、このような国土開発からの疎外に対する補償心理も大いに働いており,複合産業団地のような地域経済への波及効果の大きい産業部門への用途変更がその前提となっている。2.1980年代の民主化運動の経験とセマングムセマングム問題の社会的な表様態が諫早のそれとと大きく異なる原因の一つは、1980年代の民主化運動の経験から蓄積された市民運動団体の組織力と高い政治的交渉能力から求められよう。韓国の民主化運動に参加した個人や組織は、リベラルな市場主義から社会主義までの多様な理念的なスペクトラムをもっていたが,「反独裁民主化」という共通の目標(戦術的であれ戦略的であれ)のもとで戦った。1990年代に文民政府(金永三政権)が誕生して以来、反独裁民主化戦線はほぼ消滅し,運動はそれぞれの専門領域ごとに細分化していった。こうした中で本格化したセマングム保存運動では、1980年代の民主化運動の過程で蓄積された連帯、連携、戦線の経験が存分に発揮され、環境運動団体のみならず宗教界、労働界など市民運動団体のほとんどが参加する国民的な運動へ発展しつつあり、「生命」という哲学的な概念で結ばれている。その結果,セマングム干拓事業をめぐる論争は、初期の「科学的なデータ」の解釈をめぐる部分的なものから、哲学的かつ全国的なものへと拡大しつつある。
著者
金 木斗哲
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2006, pp.110, 2006

1.はじめに<BR> 近年の韓国農村部にはどこかで活気を感じさせるところが多い。都市との生活水準の格差は依然としてあるものの、社会基盤整備も進んでおり、毎年のような変わっている韓国農村部の変貌ぶりには目を見張るものがある。本報告では、韓国農村部における近年の劇的な変化の要因を、1990年代以降の韓国農村部をめぐる社会経済的な環境変化から明らかにするとともに、変化の渦中にある韓国農村部の中でひときわ注目を集めている全羅南道咸平郡を事例として取り上げ、韓国農村部自治体の新たな地域開発戦略である「場所マーケティング」ついて検討し、場所マーケティング戦略が韓国農村部に新たな活路を見出す可能性について検討する。<BR>2.韓国農村部をめぐる社会経済的な環境変化<BR> 韓国において1990年代はあらゆる面で大きな変化があり、韓国の現代史の中で一つの分水嶺になるに違いない。何よりも30年間続いてきた軍部独裁による強権統治が終焉を告げ、社会全般に重くのしかかっていた権威主義的な雰囲気が晴れてなくなった。このような変化の具体的な内容は次の5つにまとめることができる。第一に、民主化と伴ういわゆる「文民政府」の登場と、それによる農業農村政策基調の変化である。この時期に至って農業農村部門への財政投資が本格的に行われるようになるが、その物的基盤になったのは地方譲與金制度の創設や各種補助金の拡充である。第二に、1995年の地方自治制の復活と民選郡守(郡長)による地域活性化への取り組みである。韓国農村部は、韓国社会全般の植民地支配と朝鮮戦争による伝統との「断絶」の上、画一性や均一性を重んじる軍事文化が社会全般に横行し、「没地域文化」を強いられていたが、地方自治制の復活後は民選郡守による地域活性化への取り組みが本格化し、伝統文化の発掘や特産品の開発など様々な試みがなされている。実に、2005年には600を超える「地域祝祭」が全国各地で行われている。第三に、金融危機以降の金融界の貸付先の変化である。金融危機後に新たに登場した融資先が土地などの担保能力のある自営業であり、与信禁止業種の緩和もそれに拍車をかけた。その結果、レストランやホテルなどの消費部門の過剰競争が起こり、それらの自営業が農村部にまで乱立するようになった。第四に、農村部における交通網の整備とIT化の進展である。1990年代以降農村部への財政投資の多くは道路整備に投じられ、農村部へのアクセスを飛躍的に向上させた。また、高速インターネット通信網の整備も進み、農村部にも高速インターネットが広く普及した。インターネットの普及に伴う農村部からの情報発信は新たな農村観光の需要を引き起こし、網道路整備による時間距離の短縮はそれらの需要を現実のものとした。最後に、観光パターンと意識の変化である。観光パターンの変化は農村を「立ち去るべき」空間から「訪れる価値のある」余暇空間へと変えていった。2002年からは週休二日制が導入され、農村観光の需要は大幅に増えている。<BR>3.場所マーケティングよる地域戦略<BR> 咸平郡の事例咸平郡は全羅南道に属する韓国の代表的な後進地域で、過去35年間に2/3以上の人口が減少し現在は約4万人で高齢化率は約21%、専業農家率は約80%である。最寄りの中心都市は東に約50_km_離れている光州市であり、ソウルまでの距離は約440_km_で高速道路を利用した場合約4時間30分で結ばれる。場所マーケティングとは、新しい地域のイメージを創り出し、場所資産としてマーケティングすることによって、地域経済の活性化を図るというものであるが、咸平郡では1999年から「チョウまつり」をはじめ、150万人以上の観光客で賑わっている。すなわち、地域のイメージを創造や清浄を連想させる「チョウ」に代表させ、地域ブランドとして「Nareda」(韓国語で'飛ぶ'という意味の造語)を登録し、すべての地元特産品に「Nareda」の商標を付け、付加価値の高い販売戦略を取っている。ここで注目すべき点は、咸平郡という場所性とチョウとの関連性であるが、実は「チョウまつり」以前の咸平郡はチョウとはまったく無縁であった。にもかかわらず、生態観光や体験型観光を求める需要に合わせて当該地域を「商品」として開発し、新しい地域性を創り出したのである。従来の地域づくりや地域ブランド化戦略では地域固有の資源、すなわち場所性に基づいて行わなければならないと主張されてきた。しかし、すべての地域が競争力のある地域資源を持っているとは限らない。それ故、場所性を場所に対して認知された特性と定義し、需要に合わせて修正ないし形成可能であるという場所マーケティング戦略は注目に値する。