- 著者
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上杉 和央
浜井 和史
- 出版者
- 公益社団法人 日本地理学会
- 雑誌
- 日本地理学会発表要旨集
- 巻号頁・発行日
- vol.2005, pp.74, 2005
1.「墓標の島」 戦後,沖縄は「墓標の島」と例えられることがあった。「墓標」もさることながら,20万人とも推計される沖縄戦戦没者の慰霊碑が各地に建立された状況に由来するこの比喩は,戦後沖縄を象徴する1つの「モニュメント」である。2005年は戦後60年目にあたるが,この期間における沖縄の歴史地理を見る際,「墓標の島」への着目,言い換えるならば,遺骨の収集から納骨,納骨堂や慰霊碑の建立,慰霊祭の挙行といった「戦没者」(過去)に対する「生(存)者」(現在)の営みやその変容過程に対する着目は,ひとつの有益な立脚点となる。 しかし,この視角を支える沖縄戦戦没者の慰霊碑・慰霊祭に関する研究自体が,これまで決定的に欠けていた。基礎的研究すらないのが実情である。そこで,本発表では,戦後沖縄の慰霊碑・慰霊祭の多様性や変遷についての基礎的報告を行いたい。現地調査は2002年12月から2005年6月までに6回,沖縄本島で行っている。2.慰霊碑の建立時期と建立主体 沖縄県は1995年に慰霊碑一覧を掲載した書物を作成した(沖縄県生活福祉部援護課,1995)。そこには約350基の慰霊碑が計上されている(表1)。しかし,そこに記載されていない慰霊碑も数多く存在しているか,もしくは存在したことが,現地調査により明らかとなっている。また2002年建立の「慰霊之碑」(読谷村古堅区)など,95年以降に建立されたものもある。 建立主体は,国(日・米・韓),琉球政府,都道府県,市町村といった行政組織のほか,同窓会などの社会組織,退役軍人組織,遺族会などがある。なかでも,もっとも多くの慰霊碑を建立しているのは,市町村下の自治会組織であり,50年代を中心に建立が進んだ。また,「本土」の都道府県や遺族会が積極的に慰霊碑を建立したのは,60年代である。3.激戦地の慰霊空間 _-_慰霊碑・慰霊祭の地域差_-_ 沖縄本島のなかで,もっとも戦没者を出した地域は現糸満市周辺である。この地域では,「納骨堂」の機能を有した慰霊碑が作られ,戦没者の遺骨が納められた。その多くは無名戦没者であった。60年代以降,識名の中央納骨所(1957年),そして摩文仁の国立沖縄戦没者墓苑(1979年)への転骨が進み,「納骨堂」としての役割を終え,撤去された。慰霊祭もその時点で終了した場所が多い。現在,沖縄県下でもっとも慰霊碑数の多い糸満市域において,各自治会組織による慰霊祭は,意外に行われていない。激戦地の慰霊(追悼)は,沖縄県によって国の要人を来賓に迎えて挙行されるのである(沖縄全戦没者追悼式)。 一方,沖縄戦において,主戦場とならなかった地域では,遺骨の存在といった物理的な意味ではなく,精神的理由で慰霊空間が形成されたため,慰霊碑の建立には地域の中の「適切」な場所が選定された。転骨を理由とした慰霊碑の撤去はなく,道路整備やより「適切」な場所への指向により,慰霊碑(慰霊空間)が移された。4.「慰霊」祭の変容 慰霊祭という名称は,政府機関では(周到に)用いられない。ただ,県内の市区町村,自治会組織といったレベル,また社会組織などにおいては,ごく自然に用いられている。ただし,「33年忌」を期に,沖縄本島北部地域のなかには,「慰霊」祭から「平和祈願祭」へと名称を変更させた例もある。 慰霊祭の内容で,大きな変化としては,90年代以降顕著となった「平和学習」との関わりが挙げられる。慰霊祭参加者の高齢化と少数化に伴い,いくつかの自治会組織では,小中学校や子供会活動と連携し,地域の歴史を後世に伝えることを目指している。このような動きは,一方で戦争を「歴史化」することにもつながっている。 また,慰霊碑が建立されている地域住民とのつながりが希薄で,組織構成員自体の高齢化に悩む同窓会や退役軍人会といった組織では,将来的な慰霊祭開催や慰霊碑管理についての不安が顕在化している。実際,60年を節目として,慰霊祭が終焉した慰霊碑もある。文献:沖縄県生活福祉部援護課(1995),『沖縄の慰霊塔・碑』沖縄県生活福祉部援護課