著者
太田 茂徳
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2002年 人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
pp.000016, 2002 (Released:2002-11-15)

○発表内容I はじめに 本発表では,明治20年代以降の兼六園の歴史過程を捉え返し,兼六園の「保勝」の問題が戦前期にどのように論じられ,どのような問題点が議論されてきたのかを概観したいと考えている。 明治維新により金沢城の前庭としての兼六園は1つの役割を終えたことになるが,景観・事物の保護・保存という流れ,また都市内の「公園」という流れから,兼六園はこの2つの流れから論じることが可能なように思われる。II 公園としての兼六園の歴史 このうち「公園」としての兼六園の辿ってきた流れについては,太田[2000]において明治初期の状況について論じた。そこでは,明治初期の兼六園が,国家の目的をもってを造られた上野公園と同様に,新時代の到来を演出する「新しさ」の集積地であることが確認された。 明治初期には,兼六園において幾度も博覧会が開かれ,様々な西欧の文物が紹介されている。明治4年に園内には新しくできた鉱山学所の講師として招かれたデッケンの居宅も兼六園内に建てられ,後には勧業博物館として利用されている。兼六園は,最新の技術や知識のもたらされる場として,いわば「西洋への窓」のような場所であったと言えるだろう。兼六園には勧業博物館・図書館・工業学校などの時代の先端をいくような施設が集中的に立地し,そこに多くの人々を集めることによって新しい知識・見識を人々に与えるような場になるのである。このことは,吉見[1987]や橋爪[1990]のいうような意味での博覧会の歴史とも符合している。兼六園も博覧会の開催される場として,博覧会と意味を共有してきたのである。 明治30年頃からは,新しい施設が兼六園内に設置されることは少なくなるが,様々な集会が兼六園内で行われるようになる。旅順陥落祝賀会などの日清・日露戦争の戦勝祝賀会,そして明治天皇の大葬に伴う行事が園内で行われている。こうしたことは,公園と天皇・国家との結びつきを示すような出来事であり,兼六園と国家的な儀礼との結びつきを強調しているように思われる。これ以外にも,戸水寛人の野外演説会が開かれ,昭和4年以降はメーデーの会場として利用されるなど,市民的な行事の場としての位置づけも持っている。III 兼六園保存論の流れ 近年の町並み保存を取り扱った研究として,沖縄県竹富島の「赤瓦の町並み」の保存運動を伝統文化の創造という観点から考察した福田[1996],そして千葉県佐原市の町並みについて,景観の形成過程を商業活動の変遷過程を通して考察した小堀[1999]が挙げられる。これらは,主として1975(昭和50)年の文化財保護法改正による「伝統的建造物群」概念導入以降の過程を扱ったもので,本発表で対象とする明治期の兼六園とは時代背景に差異があるが,こうした町並み保存の問題の前史として兼六園など名勝の辿った歴史的過程を位置付けることも可能であろう。また戦前期の景勝地の保存を扱った研究としては,荒山[1995]が日本の国立公園の成立を「文化のオーセンティシティを創り出す近代的なシステム」として捉えて,文化財や史蹟名勝天然紀念物との関連にも触れながら概観している。 本発表では,これらの研究成果も踏まえ,兼六園の美観を守ろうという議論の流れを把握したいと考えている。