著者
川内 教彰
出版者
佛教大学仏教学部
雑誌
仏教学部論集 = Journal of School of Buddhism (ISSN:2185419X)
巻号頁・発行日
no.100, pp.15-36, 2016-03

「血の池地獄」の典拠である『血盆経』は、十世紀以降、中国で作られた「偽経」である。室町時代(十五世紀)には日本へも伝来し、亡母追善の善根功徳として書写されだし、近年まで広く受容されてきた経典である。本論の骨子は、本来、仏教的罪業ではない生理的出血によって「地神を穢す」ことが、なぜ罪業と見なされていったのかという点について、仏典に説く「女性劣機観」と、業報輪廻思想に基づく「女性罪業観」とを明確に区別し、「女性劣機観」が、「女性罪業観」へ変容していった点を明らかにすることによって、『血盆経』受容の思想的背景を見極めようとした点にある。女性と仏教をめぐる従来の研究では、九世紀後半以降、仏教の女性劣機観の影響を受けて、女性不浄観や女性罪業観が平安貴族社会に浸透していったとされていた。しかしながら、「五障」「三従」は、仏教的な罪業ではなく、女人禁制の霊場があるとしても、それは女性の往生や成仏を否定するものではない。従って、この時期に女性罪業観が浸透していたとは考えにくいのである。鎌倉時代、一切衆生を「罪悪生死の凡夫」と捉える法然教学が発展していくなかで、「五障」「三従」や「女人禁制」が、「女性劣機観」に組み込まれ、とくに「五障」「三従」は来世での堕獄につながる罪業(「順次生受業」)であるという「女性罪業観」へと変容していったことにより、室町時代には五障・三従を女性固有の罪業とする観念が広がりをみせ、社会通念となっていったといえよう。一方、出産や月の障りに伴う生理的出血(=血の穢れ)は、平安貴族社会において、神事や仏事の場でとくに「月の障り」が忌避されていくが、法然や日蓮などが明示しているように、仏教では穢れを忌むことはなく、ましてそれは罪業でもなかった。しかしながら、室町時代における女性罪業観の広がりの中で『血盆経』が伝来し、異本を含めたいくつかのバリエーションを生み出し、自身ではどうすることもできない生理的出血(月の障り)が仏教的罪業の故であると意味づけられた結果、「血の池地獄」という女性のみが堕ちる地獄が、熊野比丘尼の絵解きなどを通して広く浸透していくことになったのである。『血盆経』血の池地獄『無量寿経釈』『女人往生聞書』女人禁制
著者
田山 令史
出版者
佛教大学仏教学部
雑誌
仏教学部論集 = Journal of School of Buddhism (ISSN:2185419X)
巻号頁・発行日
no.97, pp.21-35, 2013-03

本居宣長の言語学は彼の三十代のころ、完成している。宣長はこの研究を四十代から本格化する『古事記伝』著述の基礎に置く。この論文では、宣長の語学を係り結び研究と語音研究の二分野に分け、『天尓遠波飛毛鏡』(明和八年)と『漢字三音考』(天明五年)を分析する。宣長の係り結びと語音についての思想は、ともにその一般性において際立つ。この一般性の性質、そして宣長の主張する言語の自然性との関連を探る。国語学は係り結びや音韻について、充実した研究史を持つ。重要な研究を顧慮しながら、この自然性の強調を考察する。『古事記伝』『天尓遠波飛毛鏡』五十音図テニヲハ契沖
著者
伊藤 茂樹
出版者
佛教大学仏教学部
雑誌
仏教学部論集 = Journal of School of Buddhism (ISSN:2185419X)
巻号頁・発行日
no.100, pp.51-70, 2016-03

法然と同時代に生きた僧として明遍がいる。明遍は南都の学僧であったが、光明山寺また高野山に遁世し、やがて蓮華谷聖の祖とされる。法然と明遍は、散心問答という念仏法語があり、双方での交渉が確認される。しかし、『今物語』にみえる説話や、法語類を丹念にみていくと、法然系の浄土教と一致しない側面が多い。一方で重源との関係は、明遍が空阿弥陀仏という阿弥陀仏号をもつことからも、その関係は浅くない。高野聖や光明山寺系の聖の活動や思想的な側面は、祈祷念仏という要素は含みつつも、臨終に執着を起こさず正念にして来迎に預かるという平安浄土教。すなわち『往生要集』を規範とした価値観にあった。唱導、勧進で活躍する浄土聖の活動は『往生要集』を理想としたものである。本稿ではそのような聖の活動を分析しつつ、明遍と蓮華谷聖の活動を解明することに主眼をおいている。明遍浄土聖『往生要集』勧進臨終行儀