著者
山田 彩起子
出版者
明治大学大学院文学研究科
雑誌
文化継承学論集
巻号頁・発行日
vol.3, pp.(57)-(66), 2007-03-23

中世前期の王家をめぐる研究の進展に伴い、当該期の不婚内親王の存在が、これまでは主に女院領及びこれに付随する追善仏事に関する研究(1)や八条院暲子内親王という個別女院に関する研究(2)の中でクローズアップされてきた。さらに最近では、中世前期における女帝の存在の可能性をめぐる研究(3)においても、不婚内親王の存在が注目されている。 当該期には、前後の時代においては天皇の配偶者(又はその経験者)や生母に付与された后や女院という身位が、不婚内親王にも付与されている。その契機は、不婚内親王が近親の天皇の母に擬されたこと(以下、天皇のかような擬制的な母を「准母」と表記する)であった。すなわち、十一世紀末の白河院政期初頭に、白河の娘で当今堀河の同母姉堤子内親王(後の郁芳門院)が堀河の母に擬され、国母という理由で后ついで女院となったことを嚆矢として、度々准母が出現し、后や女院の身位を得てゆくのである。
著者
久水 俊和
出版者
明治大学大学院文学研究科
雑誌
文化継承学論集
巻号頁・発行日
no.5, pp.96-83, 2008

本稿では、後世にマニュアルとして機能する「凶事記」の蓄積状況と作成過程を室町後期の例を用い考察した。その素材として、中世を通して内容が豊富である東坊城和長の『明応凶事記』を用いた。『明応凶事記』は、明応九年(一五〇〇)に行われた後土御門天皇の葬儀を記録したものであり、近臣であった和長が一連の葬送儀礼に関わったこともあり、残存している室町期の天皇葬儀の史料と比し、巨細に記録されている。しかし、近臣といえども中世の天皇葬儀において、すべての葬送儀礼を見分することは極めて難しかった。それは、天皇家の菩提寺である泉涌寺を筆頭とした僧衆や宮中の内々な儀礼を取り仕切る女房衆による密儀が多いためである。