著者
中山 絵美子
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2008年度日本地理学会秋季学術大会・2008年度東北地理学会秋季学術大会
巻号頁・発行日
pp.137, 2008 (Released:2008-11-14)

はじめに 身の丈にあまる積雪がある地域では、どのように雪に対処しているのだろうか。長野県飯山市において、市街地では流雪溝を設置しているが、郊外では除雪機と併せて融雪池“タネ”を活用している家庭がある。“タネ”とよばれる池は、農具や野菜の洗浄用、観賞魚の養殖用、防火用など、多様に使用され、さらに冬季には“冬ダネ”も併設して除雪用に利用されている。“冬ダネ”は、秋の農作業が一段落すると、家の周りに掘って作られ、春の農作業始めには埋め戻される、深さ30cmほどの池である(第1図)。現在では、“タネ”をコンクリート張りにし、冬になる度に“冬ダネ”を設ける家庭は減少しているが、“タネ”そのものは除雪機の補助的な役割として、現在でも消雪に活用されている。 “タネ”の機能とシステム 多雪環境のもとに暮すには、とりわけ屋根雪の処理が重要である。第2図は飯山市小字柄山(からやま)の、“タネ”を活用していない家屋周辺の積雪深変化の様子を示したものである。家屋の周りに雪が堆積すると、採光量が減り、また、屋根上の雪と地面の積雪がつながってしまうと、融雪時の沈降力で庇が破損するなど、家屋に被害のでる恐れがある。また、屋根から落下した雪は硬く締まり、それらを移送させる事は困難を極める。このため、“タネ”は、日当たりの悪い家の北側や、屋根からの雪がちょうど落下する位置、出入り口付近などに、施設されている。 “タネ”の水は、滞っていると融雪能力が低下するため、取り入れ口に落差を設けたり、取水口に障害物を置いたりするなどして、取り入れた水を発散させ、水を「動」の状態にするための工夫が凝らされている。 各家庭には、集落共同の用水から“タネ”に水を引き入れる。頚城丘陵沿い南向き斜面に位置する小字顔戸(ごうと)の事例では、丘陵中に湧出する清水を3箇所から集落に取り入れ、集落内を標高の高いところから低いところへ枝分かれさせ、82世帯の家屋に対する大小144個の“タネ”に通水している。 本報告では、日常の除雪作業において、限られた時間で効率良く消雪を行うために、“タネ”を活用している事例について、参与観察の結果をまじえて紹介し、多雪環境への人々の対応に関して考察する。 本研究は(財)なべくら高原森の家の協力を得て調査を行った。
著者
守屋 以智雄
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2008年度日本地理学会秋季学術大会・2008年度東北地理学会秋季学術大会
巻号頁・発行日
pp.75, 2008 (Released:2008-11-14)

複成火山は溶岩原・楯状火山・成層火山・カルデラ火山に分けられるが,大量の玄武岩質溶岩流が繰り返し流出することで生じた溶岩原の地形発達について,アメリカ合衆国(USA)西南部,アラビア半島,アフリカ東部,アイスランドなどの溶岩原などを例に比較検討した結果をのべる.日本列島に溶岩原は存在しないが,世界的に見てその分布は広い.インド・デカン高原,USA北西部Columbia 川などの第三紀溶岩台地は浸食作用で溶岩原が台地化したものである.主としてアリゾナ・ニューメキシコ州を中心に,平均層厚100-500m, 面積50-100km平方,体積100-1000km3,寿命100-1000万年前の時空規模をもつ溶岩原が活動を継続している.この規模は日本列島の成層火山と比較して,いずれも10―数10倍に達し,1桁以上大きい.これは本地域と日本列島下のマグマ形成・上昇・噴出機構・過程・環境の違いを示唆する.同格の複成火山として一括分類することに問題がある.個々の溶岩原には多様性がある.Banderier, Geronimoなどの溶岩原は単成火山であるスコリア丘・小型楯状火山から流出した玄武岩質溶岩流が集合して広大な溶岩原を形成している.San Francisco, Taos, Raton-Clayton溶岩原は,Banderier, Geronimoなどの溶岩原に似た土台の中心に流紋岩質溶岩ドーム・安山岩質成層火山が形成されている.流紋岩質火砕流・溶岩ドームを噴出したVallesカルデラ火山の周囲に溶岩原の一部が散在し,土台に溶岩原が存在したことを示すが,さらに,堆積物から成層火山が存在したことも報告されている(Smith and Bailey, 1968).これらをまとめるとUSA西南部の溶岩原はBanderier, Geronimo型→San Francisco, Taos, Raton-Clayton型→Valles型へと変化しているように見える(守屋,1985).ただRaton-Clayton溶岩原は初期にデイサイト質溶岩ドームが噴出,その後断続的溶岩原成長と平行して流紋岩質溶岩ドーム,安山岩質成層火山が形成されたという発達史をもち,守屋 (1985)の溶岩原発達図式ですべてが説明できるとは限らないことを示す. アラビア半島の溶岩原は約3000万年前に始まった割れ目拡大によって紅海が形成される際に,大量の玄武岩質溶岩流出が周辺に起こったが,その余燼は現在も残り,紅海沿岸・アデン湾沿岸に27個のアルカリ玄武岩質溶岩原・小型単成火山群が形成されている.シリア・ヨルダンにまたがるJabel ruse, Ha’il, Jawfなどの溶岩原はアルカリ玄武岩質スコリア丘・小型楯状火山とそれらから流出した溶岩流の集合体で,USA西南部の溶岩原はBanderier, Geronimo溶岩原とほぼ同じと考えられる.メッカ・メディナ市に近いE Harat 溶岩原北部には黒色アルカリ玄武岩質溶岩流の間に,白色のフォノライト質火砕流を噴出した径3kmのカルデラが存在する.より南のイエーメン・サナア市東方には白色フォノライト質溶岩ドーム,火砕流堆積物が広がる.エチオピアAfar三角帯に多く分布するErta Aleなどの溶岩原はBanderier, Geronimo型が多いが,成長とともに楯状火山が形成されることもある.数は少ないが成層火山をもつ溶岩原も存在する.Barberi and Carey (1977) は溶岩原→楯状火山→成層火山という発達図式を提案している.ケニア・タンザニア付近の地溝帯にはNgorongoroなどフォノライト・トラカイト質溶岩流・火砕流を噴出したカルデラがあり,多様性に富む.プレート拡大軸上にあるため,玄武岩質マグマがもっとも盛んに噴出する世界でも有数の地域で,割れ目の両側に溶岩流が広大な溶岩原を形成する.溶岩が流出する割れ目上には玄武岩質のスコリア丘・スパター丘列が30-40kmにわたってのびる.このような割れ目火山が多いアイスランドでは,個々の火山の境界を地形的に認定することが非常に難しい.Askya, Heklaなど特定割れ目からの繰り返し噴火によりマグマ溜まりが形成され,流紋岩質マグマを放出ようになると楯状火山として認定可能になる.溶岩原は次のような別種の単成火山・複成火山をもつ4つのタイプに細分されるー_丸1_玄武岩質小型単成火山のみ _丸2_小型単成火山+玄武岩質楯状火山 _丸3_小型単成火山+楯状火山+安山岩質成層火山 _丸4_小型単成火山+成層火山+流紋岩質カルデラ火山.これらは時系列的に発達した一連のグループと見なせると考えたい._丸2_-_丸4_の溶岩原は複数の複成火山から構成されることから,単成火山より2つ,複成火山より1つ格上の重複成火山と呼びたい.
著者
米地 文夫
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2008年度日本地理学会秋季学術大会・2008年度東北地理学会秋季学術大会
巻号頁・発行日
pp.71, 2008 (Released:2008-11-14)

宮沢賢治は「銀河鉄道の夜」と「インドラの網」との二編の童話に天の野原に行った夢の場面を描いた。 前者はジョバンニが夢の中で銀河鉄道に乗って天の野原を旅し, 後者では「私」はツェラ高原から天の空間にまぎれ込む。 ツェラ高原についてはチベットやパミールの高原を基にした架空の地といわれてきたが, 演者はその地形や湖の描写がヘディンの『トランスヒマラヤ』の中のチベット北部, 現阿里地区北東の塩湖の記載と類似点が多いことを見いだした。 ただし植生は詩「早池峰山巓」とその先駆形の山頂の描写と共通したコケモモや灰色の苔や草穂の原などがあり,「インドラの網」の天の野原は早池峰山頂緩斜面の記憶にチベット北部の塩湖を銀河として重ねたのである。なお,チベットにはツェラ(頂きの峠~山道の意味)という地名が複数存在し,音に則拉や孜拉という漢字を当てている。 一方,「銀河鉄道の夜」の沿線の記述は一見,多様であるが,演者はこれを景観から二分することにより,そのモデルを絞り込んだ。すなわち, 岩手軽便鉄道(現JR釜石線)をモデルとする東西線と,東北本線(現JR在来線)のイメージを持つ南北線とである。 東西線は最も初期に書かれた第一次稿の前半部(演者の0次稿)に当たり,地形に大きな起伏がある。車窓のコロラド高原に擬した高原にはトウモロコシ畑があり,白い鳥の羽根を頭につけ弓を持つインディアンが登場する。当時,種山ヶ原に飼料用のトウモロコシ畑もあり(詩「軍馬補充部主事」),また詩「種山と種山ヶ原」に「じつにわたくしはけさコロラドの高原の/白羽を装ふ原始の射手のやうに/検土杖や図板をもって…」とあるので,インディアンは賢治自身の投影,高原は種山ヶ原である。高原から列車は激しく揺れつつ下るのも,同日付の詩「岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)」(異稿に銀河軽便鉄道の名あり)の猿ヶ石川の谷を下る際の描写と同じである。 南北線部分の地形はほとんど平坦で,三角標や十字架が星と星座を示している。これは,東西線では,インディアン,いるか,鶴など星座名にちなむ人や動物が登場しているのとは対照的である。南北線沿線にはススキやリンドウなど岩手の二次草原の植生がみられる。ジョバンニには,カムパネルラの捜索現場の河原で「川はゞ一ぱい銀河が巨きく写ってまるで水のないそのまゝのそらのやうに見え」たとある。この河原は花巻の北上川の旧瀬川合流点の州をモデルにしており,したがって南北線は北上川をモデルとした銀河に沿って走り,そらの野原は北上低地をモデルとしたことになる。「プリオシン海岸」の挿話は北上河畔のイギリス海岸がモデルであるから,本来は岩手軽便鉄道に近いが,北上川に沿うため南北線に移して組み込まれている。 このように宮沢賢治の描く銀河に沿う景観は,実際に観察している岩手の景観に,本や映画で知った海外のイメージを重ね,さらにそれを天上の景観の幻想を重ねるという,三重の幻想空間構造になっているのである。したがって宮沢賢治の銀河沿岸の│景観描写のモデルは表のようになる。
著者
浅田 晴久
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2008年度日本地理学会秋季学術大会・2008年度東北地理学会秋季学術大会
巻号頁・発行日
pp.52, 2008 (Released:2008-11-14)

1.はじめに インド東北地方は国内でも最も開発が遅れている地域の1つである。バングラデシュ、ミャンマー、ブータン、チベット(中国)に囲まれたこの地域は多数の少数民族が暮らしており、現在も独自の文化を守り続けている。1980年代以降、政情が不安定であったため外部の研究者が立ち入ることは難しかったが、近年、治安が落ち着いてきたこともあり調査が可能となっている。京都大学東南アジア研究所・大学院アジア・アフリカ地域研究研究科はアッサム州のゴウハティ大学地理学科と学術協定を締結し、インド東北地方の農業・生態・気象・疫病を対象とした学際的なプロジェクトを開始している。 本研究はインド東北地方の中でも面積・人口ともに最大のアッサム州において、州の主要産業である稲作の動態を明らかにすることである。アッサム州には東西を横切る形でブラマプトラ川が流れており、雨季になると毎年のように洪水が発生し稲作に被害を及ぼす。またヒマラヤ山脈の南縁に位置し、将来の環境変化による影響が危惧される。 2.調査地の概要 調査地として選ばれたR村はアッサム州東部(上アッサム)、ブラマプトラ川の北岸(右岸)に位置する。本村はチベットを源流としヒマラヤ山脈を越えて流れてくるスバンシリ川に近接しており、過去には堤防が決壊して大洪水が起こったこともあった。また、年間降水量は3000mmに達し、6~9月の雨季には降雨のため田に植えられた稲が被害に遭うこともある。 R村の世帯数は約110、人口は約600人になる。住民はタイ系のアホム(タイ=アホム)である。アホムは現在の中国雲南省から移動を開始しミャンマーを抜けて、13世紀にブラマプトラ渓谷に定住したとされている。ヒンドゥー教徒でアッサム語を話す。R村は1910年代から開墾が始まり、現在は開拓世代の子・孫の世代が村の中心となっている。 3.調査方法 発表者は2007年7月 ~ 11月、2008年1月 ~ 7月の期間中、のべ260日間調査村に滞在し現地調査を行った。村びとの家に下宿しながら、質問表を用いた全戸調査、観察、聞き取りを実施した。全戸調査の際には助手として村人に同行してもらい、聞き取りにはアッサム語が使用された。 4.結果 結論から述べると、R村の稲作はよくいえば伝統的な、近代的稲作からかけ離れたものである。村には灌漑設備がないため、雨季の期間しか稲作がおこなわれず、稲刈り後の乾季は牛が田に放牧されている。調査地周辺を見回しても同じような景観が続いていることから、上アッサムには未だにR村のような未開発の村が多く残されていることが推測される。これは乾季作(ボロ稲)・灌漑・機械化など近代技術が進んでいるアッサム州西部(下アッサム)とは対照的である。 村内で栽培されている稲はアフ(3 ~ 6月)、バオ(3 ~ 11月)、ハリ(7 ~ 11月)の3種類である。このうちハリ稲はすべての世帯で栽培されるが、アフ稲は屋敷付近の高位田で、バオ稲は低位田で比較的小規模に栽培されている。 稲の品種を調べたところ、村全体で50種類以上の品種が植えられていることが確認された。各世帯で植える品種数は5種類が最も多く、なかには10種類以上の稲を植える世帯もある。田の比高の差によって品種を植え分ける必要があるほかに、コメの利用法の観点からも品種数が多くなっている。 田の土地所有をみると、各世帯の田は高位田と低位田を含む細長い長方形になっている。低位田は水と肥沃度が高く高収量が見込め、高位田は洪水のリスクが少ない。しかし土地は均等に相続されるため、水田所有の細分化が問題となっている。
著者
大貫 礼史
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2008年度日本地理学会秋季学術大会・2008年度東北地理学会秋季学術大会
巻号頁・発行日
pp.40, 2008 (Released:2008-11-14)

_I_ はじめに 日本列島,とりわけ関東平野の内陸部では,1990年代半ばから盛夏期に著しい高温が頻繁に観測されるようになった.その要因として,高温をもたらしやすい総観場の状況になることが多くなり,太平洋高気圧から吹き出す南西風が関東山地越えのフェーンとなることと,東京都心周辺の排熱によって暖められた海風が内陸部まで到達することの2つが考えられている.しかし,これらには矛盾点もあり,まだ正確に要因は特定されていない. 本研究は,とくに南高北低型気圧配置下の高温観測日に注目し,関東山地を吹き下ろす南西風と,東京湾から関東平野内陸部に侵入する海風を中心に解析して,夏季の関東平野内陸部で著しい高温が観測される要因を明らかにすることを目的とする. _II_ 使用資料・解析方法 AMeDAS日別値,時別値および10分値(気温,風),気象官署観測資料(湿度),高層気象観測資料(地上,850hPa面,500hPa面),地上天気図,大気汚染常時監視測定局データ(気温,風)を使用した. 対象地点は関東平野のAMeDAS観測点45地点,関東平野内陸部の南西方向に位置する気象官署3地点,大気汚染常時監視測定局6地点の計54地点である.対象期間は1996~2005年の7,8月,全620日である. 対象日選出にあたり,南高北低型気圧配置日の抽出,著しい高温観測日の抽出,当日に関東平野のAMeDAS対象地点で降水の観測がない日の抽出を行った.その結果選出された計7日を研究対象日とした. _III_ 結果 気温と風の分布,関東山地風下フェーンと関東平野内陸部の高温の関係,海風と関東平野内陸部の高温の関係についてそれぞれ解析をした結果,おもに以下のことが明らかになった. _丸1_気温と風の分布に注目すると,午前中には八王子~練馬~越谷にかけて高温域が形成されるが,午後にかけて高温域の中心は館林,熊谷などの内陸部となる. _丸2_関東山地風下のフェーンに注目すると,関東平野内陸部における著しい高温の発現にフェーンが影響していることもあるが,フェーン現象が生じているとはいえない高温日も多く,現時点ではフェーン現象は内陸部で高温が発現する際の絶対条件ではないと考えられる. _丸3_東京湾からの海風に注目すると,東京都心周辺の排熱は,海風によって内陸方向へ移動し,越谷や練馬付近に高温をもたらす一因となっている可能性が高い.一方で関東平野内陸部の館林,熊谷,伊勢崎などは,暖まった海風が越谷や練馬付近で上昇流が生じるため,東京都心周辺の排熱が直接的に高温化の原因になるのではなく,海風による冷涼な大気が内陸部まで届かなくなったことと,内陸部の都市化による土地被覆の変化や排熱の増加が高温化の一因になっていると考えられる.
著者
茗荷 傑
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2008年度日本地理学会秋季学術大会・2008年度東北地理学会秋季学術大会
巻号頁・発行日
pp.134, 2008 (Released:2008-11-14)

はじめに 茗荷・渡邊(2008)では有田郡広川町と函館市椴法華地区の事例から両者を比較しつつ災害と土地機能の回復について考察した。土地の機能とは土地の有用性である。そして有用性は有為転変するという特徴を持つ。全滅に近い状態となった土地のその後の過程がその地域の持つポテンシャルを推し量る便となるのではないかと考えられる。今回は絶海の孤島である青ヶ島のたどった状況から考察していきたい。 青ヶ島事情 八丈島から60km、都心から360km離れた青ヶ島は古来流刑地として知られ、東京最後の秘境と呼ばれる絶海の火山島である。本土から青ヶ島への直行便は無く八丈島からの連絡となる。八丈島までは東京から12時間の船旅、あるいは航空便を利用する。青ヶ島に入る方法は2つある。八丈島からの連絡船「還住丸」(111t、所要3時間、1日1往復)か、または八丈島からのヘリコミューター(所要20分・1日1往復)を利用する。しかし環住丸は欠航率5割とも6割とも言われ、安定した便とは言いがたい。一方ヘリは9人乗りで重量物を搭載する余裕があまり無い。さらに周囲を絶壁に囲まれた青ヶ島には港が無い。桟橋が外海に直接に突き出ているだけである。したがって外海のうねりの影響をまともに受け、接岸が極めて困難である。(写真)少しでも海が荒れると欠航になる理由がここにある。桟橋を目の前に見ながら接岸する事ができず、八丈島に戻ることも珍しいことではない。 島には産業がなく物資のほとんどを島外に頼っているため、島の生活はしばしば天候に左右されているのである。 青ヶ島の災難 天明3年3月10日(1783年4月11日)この島の運命を変えることになる大爆発が起こった。池の沢より噴火し、その噴火口は直径300mを越す巨大なものであったともいわれている。ここから50年にわたる青ヶ島の苦難の歴史が始まった。 天明3年2月24日、突然の地鳴りとともに島の北端、神子の浦の断崖が崩壊を始めた。このときおびただしい量の赤砂が吹き上がり島中に降り注いだと言われる。 同年3月9日未明より地震が8回起こり、池の沢に噴火口が出来てそこから火石が噴出した。当時池の沢は温泉があり14名が湯治に来ていたが、たちまち焼死したと言う。 このときの噴火の様子は八丈島からも観測され、記録が残されている。それによると、困窮する青ヶ島の島民を少しでも八丈島に移すよう便宜を図ったとの記述があり、すでに天明3年の噴火で島民の八丈島脱出が始まっていたことがうかがえる。 家屋は大半が焼失し農地は荒れ放題、更に池の沢は青ヶ島の水源であったためいよいよ生活は困窮し、飢饉が発生しつつあった。 天明5年3月10日(1785年4月18日)、再び未曾有の噴火が始まり青ヶ島は完全に息の根を止められた。 同年4月27日、八丈島からの救助船が青ヶ島の船着場である御子の浦に到着したが、驚いたことに島民全部を収容するにはとても足りない3艘の小舟だけであった。舟に乗り込めなかった130~140名の島民の最期は悲惨なもので、その多くは飢えで体力を消耗した老人と幼児であったと言う。彼らは救助船に取りすがって乗船を懇願したが、舟縁にかけた腕を鉈で切断され、頭を割られ海に沈んで行った。 なぜ八丈島は充分な数の救助船を派遣しなかったのか記録は残っていないが、八丈島も慢性的に食糧事情が悪く、青ヶ島島民を全て引き受ける余力がなかったためではないかと思われる。 こうして青ヶ島は島の3分の2が焼き尽くされ無人島となった。 以後還往と称える帰島までの半世紀は生き残った者にも言語を絶する苦難の道程であったと伝えられる。その後青ヶ島に噴火は発生していない。 このように青ヶ島はきわめて生活に困難な環境である。 しかし逆に言えば青ヶ島の唯一のメリットといえばその孤立性にある。つまり外部からの人口の流入が少なく、島民全員が顔見知りで家族同然というわけなのである。 青ヶ島は無人化の後、半世紀の時を経ても住民が帰島して復興の過程を進むことになり、現在に至っている。この島の復興を可能にした要因は何なのか、多様な項目にわたって青が島全体の環境を俯瞰できるよう、文献や現地調査等に基づき考察する。