著者
茗荷 傑
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2008, pp.134, 2008

<B>はじめに</B><BR><BR>茗荷・渡邊(2008)では有田郡広川町と函館市椴法華地区の事例から両者を比較しつつ災害と土地機能の回復について考察した。土地の機能とは土地の有用性である。そして有用性は有為転変するという特徴を持つ。全滅に近い状態となった土地のその後の過程がその地域の持つポテンシャルを推し量る便となるのではないかと考えられる。今回は絶海の孤島である青ヶ島のたどった状況から考察していきたい。<BR><BR><B>青ヶ島事情</B><BR><BR>八丈島から60km、都心から360km離れた青ヶ島は古来流刑地として知られ、東京最後の秘境と呼ばれる絶海の火山島である。本土から青ヶ島への直行便は無く八丈島からの連絡となる。八丈島までは東京から12時間の船旅、あるいは航空便を利用する。青ヶ島に入る方法は2つある。八丈島からの連絡船「還住丸」(111t、所要3時間、1日1往復)か、または八丈島からのヘリコミューター(所要20分・1日1往復)を利用する。しかし環住丸は欠航率5割とも6割とも言われ、安定した便とは言いがたい。一方ヘリは9人乗りで重量物を搭載する余裕があまり無い。さらに周囲を絶壁に囲まれた青ヶ島には港が無い。桟橋が外海に直接に突き出ているだけである。したがって外海のうねりの影響をまともに受け、接岸が極めて困難である。(写真)少しでも海が荒れると欠航になる理由がここにある。桟橋を目の前に見ながら接岸する事ができず、八丈島に戻ることも珍しいことではない。<BR>島には産業がなく物資のほとんどを島外に頼っているため、島の生活はしばしば天候に左右されているのである。<BR><BR><B>青ヶ島の災難</B><BR><BR>天明3年3月10日(1783年4月11日)この島の運命を変えることになる大爆発が起こった。池の沢より噴火し、その噴火口は直径300mを越す巨大なものであったともいわれている。ここから50年にわたる青ヶ島の苦難の歴史が始まった。<BR>天明3年2月24日、突然の地鳴りとともに島の北端、神子の浦の断崖が崩壊を始めた。このときおびただしい量の赤砂が吹き上がり島中に降り注いだと言われる。<BR>同年3月9日未明より地震が8回起こり、池の沢に噴火口が出来てそこから火石が噴出した。当時池の沢は温泉があり14名が湯治に来ていたが、たちまち焼死したと言う。<BR>このときの噴火の様子は八丈島からも観測され、記録が残されている。それによると、困窮する青ヶ島の島民を少しでも八丈島に移すよう便宜を図ったとの記述があり、すでに天明3年の噴火で島民の八丈島脱出が始まっていたことがうかがえる。<BR>家屋は大半が焼失し農地は荒れ放題、更に池の沢は青ヶ島の水源であったためいよいよ生活は困窮し、飢饉が発生しつつあった。天明5年3月10日(1785年4月18日)、再び未曾有の噴火が始まり青ヶ島は完全に息の根を止められた。<BR>同年4月27日、八丈島からの救助船が青ヶ島の船着場である御子の浦に到着したが、驚いたことに島民全部を収容するにはとても足りない3艘の小舟だけであった。舟に乗り込めなかった130~140名の島民の最期は悲惨なもので、その多くは飢えで体力を消耗した老人と幼児であったと言う。彼らは救助船に取りすがって乗船を懇願したが、舟縁にかけた腕を鉈で切断され、頭を割られ海に沈んで行った。<BR>なぜ八丈島は充分な数の救助船を派遣しなかったのか記録は残っていないが、八丈島も慢性的に食糧事情が悪く、青ヶ島島民を全て引き受ける余力がなかったためではないかと思われる。<BR>こうして青ヶ島は島の3分の2が焼き尽くされ無人島となった。以後還往と称える帰島までの半世紀は生き残った者にも言語を絶する苦難の道程であったと伝えられる。その後青ヶ島に噴火は発生していない。<BR><BR>このように青ヶ島はきわめて生活に困難な環境である。<BR>しかし逆に言えば青ヶ島の唯一のメリットといえばその孤立性にある。つまり外部からの人口の流入が少なく、島民全員が顔見知りで家族同然というわけなのである。<BR>青ヶ島は無人化の後、半世紀の時を経ても住民が帰島して復興の過程を進むことになり、現在に至っている。この島の復興を可能にした要因は何なのか、多様な項目にわたって青が島全体の環境を俯瞰できるよう、文献や現地調査等に基づき考察する。
著者
茗荷 傑
出版者
公益社団法人 日本地理学会
巻号頁・発行日
pp.134-134, 2008 (Released:2008-11-14)

はじめに 茗荷・渡邊(2008)では有田郡広川町と函館市椴法華地区の事例から両者を比較しつつ災害と土地機能の回復について考察した。土地の機能とは土地の有用性である。そして有用性は有為転変するという特徴を持つ。全滅に近い状態となった土地のその後の過程がその地域の持つポテンシャルを推し量る便となるのではないかと考えられる。今回は絶海の孤島である青ヶ島のたどった状況から考察していきたい。 青ヶ島事情 八丈島から60km、都心から360km離れた青ヶ島は古来流刑地として知られ、東京最後の秘境と呼ばれる絶海の火山島である。本土から青ヶ島への直行便は無く八丈島からの連絡となる。八丈島までは東京から12時間の船旅、あるいは航空便を利用する。青ヶ島に入る方法は2つある。八丈島からの連絡船「還住丸」(111t、所要3時間、1日1往復)か、または八丈島からのヘリコミューター(所要20分・1日1往復)を利用する。しかし環住丸は欠航率5割とも6割とも言われ、安定した便とは言いがたい。一方ヘリは9人乗りで重量物を搭載する余裕があまり無い。さらに周囲を絶壁に囲まれた青ヶ島には港が無い。桟橋が外海に直接に突き出ているだけである。したがって外海のうねりの影響をまともに受け、接岸が極めて困難である。(写真)少しでも海が荒れると欠航になる理由がここにある。桟橋を目の前に見ながら接岸する事ができず、八丈島に戻ることも珍しいことではない。 島には産業がなく物資のほとんどを島外に頼っているため、島の生活はしばしば天候に左右されているのである。 青ヶ島の災難 天明3年3月10日(1783年4月11日)この島の運命を変えることになる大爆発が起こった。池の沢より噴火し、その噴火口は直径300mを越す巨大なものであったともいわれている。ここから50年にわたる青ヶ島の苦難の歴史が始まった。 天明3年2月24日、突然の地鳴りとともに島の北端、神子の浦の断崖が崩壊を始めた。このときおびただしい量の赤砂が吹き上がり島中に降り注いだと言われる。 同年3月9日未明より地震が8回起こり、池の沢に噴火口が出来てそこから火石が噴出した。当時池の沢は温泉があり14名が湯治に来ていたが、たちまち焼死したと言う。 このときの噴火の様子は八丈島からも観測され、記録が残されている。それによると、困窮する青ヶ島の島民を少しでも八丈島に移すよう便宜を図ったとの記述があり、すでに天明3年の噴火で島民の八丈島脱出が始まっていたことがうかがえる。 家屋は大半が焼失し農地は荒れ放題、更に池の沢は青ヶ島の水源であったためいよいよ生活は困窮し、飢饉が発生しつつあった。 天明5年3月10日(1785年4月18日)、再び未曾有の噴火が始まり青ヶ島は完全に息の根を止められた。 同年4月27日、八丈島からの救助船が青ヶ島の船着場である御子の浦に到着したが、驚いたことに島民全部を収容するにはとても足りない3艘の小舟だけであった。舟に乗り込めなかった130~140名の島民の最期は悲惨なもので、その多くは飢えで体力を消耗した老人と幼児であったと言う。彼らは救助船に取りすがって乗船を懇願したが、舟縁にかけた腕を鉈で切断され、頭を割られ海に沈んで行った。 なぜ八丈島は充分な数の救助船を派遣しなかったのか記録は残っていないが、八丈島も慢性的に食糧事情が悪く、青ヶ島島民を全て引き受ける余力がなかったためではないかと思われる。 こうして青ヶ島は島の3分の2が焼き尽くされ無人島となった。 以後還往と称える帰島までの半世紀は生き残った者にも言語を絶する苦難の道程であったと伝えられる。その後青ヶ島に噴火は発生していない。 このように青ヶ島はきわめて生活に困難な環境である。 しかし逆に言えば青ヶ島の唯一のメリットといえばその孤立性にある。つまり外部からの人口の流入が少なく、島民全員が顔見知りで家族同然というわけなのである。 青ヶ島は無人化の後、半世紀の時を経ても住民が帰島して復興の過程を進むことになり、現在に至っている。この島の復興を可能にした要因は何なのか、多様な項目にわたって青が島全体の環境を俯瞰できるよう、文献や現地調査等に基づき考察する。