著者
森田 喜久男
出版者
九州大学基幹教育院
雑誌
鷹・鷹場・環境研究 = The journal of hawks, hawking grounds, and environment studies (ISSN:24328502)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.1-16, 2018-03

小稿は、日本古代の王権が主宰する鷹狩について概観したものである。王権の鷹狩を支えた養鷹・放鷹官司の変遷について、ヤマト王権の段階の鷹甘部や律令制下の主鷹司・放鷹司を中心に論じた。そのことに関連して鷹狩に従事した鷹飼についても言及し、「尋常の鷹飼」と「猟道を知る親王公卿の鷹飼」の二類型の鷹飼の実態を明らかにしようと試みた。また、鷹狩が行われた猟場である禁野の実態についても触れ、平安時代前期に増加しつつ民業と対立している点を問題とした。さらに『新議式』を素材に、野行幸と呼ばれる犠式としての鷹狩の次第について考察し、鷹狩とセットで実施される出野河海支配を確認する儀礼の重要性を指摘した。その上で、昌泰元年(898) 10月に実施された宇多太上天皇主催の競狩の実態についても考察し、この競狩について醍醐に譲位した後も自身が国政を仕切るという決意の現れであることを指摘した。最後に天皇や上皇の代理で諸国に派遣される狩使についても考察した。The purpose of this study is to give an overview of the history of falconry presided over by the ancient Japanese royalty. First, I analyze the Falconry Office (鷹甘部 taka-kai-be) and falconers (養鷹 shuyoushi, 放鷹宮司 hoyoushi) that kept hawks during the Yamato period. Second, I attempt to distinguish two types of falconers, one, the ordinary falconer and the other a specialist who had good knowledge on which royal society could rely. But, the expansion of royal hunting grounds (禁野 shimeno) during the Heian period caused conflicts with the people who lived in these areas. Third, relying on the book New Ceremonies (新儀式 Shingishiki) I point out that the "going to the fields for falconry" ceremony (野行幸 Nogyoukou) continued as a confirmation of Imperial rule of fields, mountains, and rivers .Furthermore, I investigate falconry games held by the retired Emperor Uda in 898.As a result, I suggest that this ceremony constituted a declaration that Uda was the real political leader in the realm. Last, I consider the hunters (狩使 karishi) who the Emperor dispatched nation-wide to hunt on his behalf.
著者
山﨑 久登
出版者
九州大学基幹教育院
雑誌
鷹・鷹場・環境研究 = The journal of hawks, hawking grounds, and environment studies (ISSN:24328502)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.45-56, 2020-03

本論文は、尾張藩の重臣である横井家の鷹場を対象とし、鷹場領主とはいかなる存在であるのか、また家の由緒と鷹場支配がどのように関わっているのかを検討したものである。その結果、明らかになったのは以下の三点である。第一に、知行権を有さない地域において、鷹場によって領民と支配・被支配の関係を結び、御救行為を行う主体として鷹場領主を位置づけた。第二に、「鷹の家」としての由緒を有する横井家が、かつての知行地において鷹場支配を復活させ、輪中という地域環境に応じた支配を行おうとしていたことを明らかにした。第三に、鷹場領主の限界性を指摘した。鷹場の復活によって鳥の生息環境が保護されたことにより、横井家の鷹場村々では深刻な鳥害が生じることになった。この環境の変化は鷹場内領民の生活・生存を脅かすことになる。そうした中で、村々は「御救」の論理を逆手にとって、鷹場の返上を求めていくことになるのである。This paper discusses the hawking grounds of Yokoi clan, senior vassals in the Owari Domain, and investigates the post of "lord of the hawking grounds" and the relationship between the clan lineage and control of the grounds. Three points were clarified. First, in a region where a clan had no fief rights (chigyo-ken), depending on hawking grounds, the user would join in the control or controlled relationship with the domain's people and the lord of the grounds was appointed as an "act of public welfare" (osukui kōi). Second, the Yokoi clan, with its lineage right to serve as "the hawkiug clan," revived hawking grounds on what was previously fief territory and controlled with adaptation to the local environment (waju). Third, limitations on the lord of the hawking ground were indicated. The revival of hawking grounds meant protection of habitat for birds, while hawking caused serious damage to birds of villages within hawking grounds. These environmental changes came to threaten livelihoods of domain people living within villages of Yokoi clan's hawking grounds. This was an unexpected reversal of the original theory that grounds would serve for "public welfare" (osukui), and led to calls to revoke rights of hawking grounds.
著者
東 昇
出版者
九州大学基幹教育院
雑誌
鷹・鷹場・環境研究 = The journal of hawks, hawking grounds, and environment studies (ISSN:24328502)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.35-44, 2020-03

大洲藩主の狩は、17世紀後期、2代藩主加藤泰輿の代には、城下近隣の御鷹野で小規模な狩が行われ、藩主と藩士・領民が出会い交流する場であった。18世紀には、狩をしない藩主も登場するが、軍事演習、獣害対策、武の象徴としての狩と変化し、領民の見物の対象、まだ怪異と遭遇する場でもあった。18世紀末の10代藩主加藤泰済の代に、柳瀬山における御代始の狩に約4000人の大規模動員が行われる一方で、老人・奇特者の褒賞、難渋者の御救が実施された。この狩を支える漑匠は、下級藩士の世襲、巧者などを養子とし、屋敷に鳥を飼う設備を整えていた。また狩の場は、御鷹野場など鉄砲停止場として、鳥見方や鳥目付が監視し鳥獣を保護した。一方で、獣害対策として踏出、威筒願が各村から出され、領民の生業とせめぎあっていた。
著者
渡部 浩二
出版者
九州大学基幹教育院
雑誌
鷹・鷹場・環境研究 = The journal of hawks, hawking grounds, and environment studies (ISSN:24328502)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.71-82, 2020-03

17世紀後期の越後国村上藩主松平直矩(1642~95) の日記(『松平大和守日記』)から直矩の鷹・鷹狩について素描した。直矩所有の鷹は20居前後にもおよび、購入したものや贈答されたものもあったが、村上産のハイタカが中心で、頷内で捕獲する体制が確立していた。直矩は自ら頻繁に鷹狩を行うとともに、鷹を鷹師(鷹匠)に預け、領内各所で頻繁に鷹狩・訓練させ、捕獲した獲物を詳細に注進させていた。江戸藩邸で飼育していた鷹は、縁類の大名が将軍から下賜された鷹場や幕府鷹匠の預り鷹場に鷹師とともに遣わし、鷹狩・訓練させていた。また、直矩は鷹以外にも馬・犬・小鳥などの動物の贈答・購入を頻繁に行っていたことを示し、当時の武家の動物に対する関心の一端を指摘した。また、村上および江戸藩邸でも多様な動物を捕獲していたことなどを示し、当時の動物生息環境の一端を紹介した。
著者
東 幸代
出版者
九州大学基幹教育院
雑誌
鷹・鷹場・環境研究 = The journal of hawks, hawking grounds, and environment studies (ISSN:24328502)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.83-94, 2020-03

本稿は、彦根藩の御鷹場研究の進展のために、近江国における鳥猟の支配について検討するものである。彦根藩は、近江一国を御鷹場と認識してきた。しかし、彦根藩が鳥猟を許可できた範囲は、自領内にとどまっており、他領内の鳥猟には関与できない状態であった。また、彦根藩は留場の設定などを進めるが、その範囲はあくまでも自領内の一円知行地的な空間であり、他領に及ぶものではなかった。彦根藩が御鷹場の実質化を試みようとした際、いずれの領主もその主張に異を唱えた一因は、このような鳥猟支配のあり方が実際に展開していたためであった。18世紀半ばになると、彦根藩は、幕府との交渉を通して、「京都守護」の拝命を理由に御鷹場の実質化を進める。その結果、彦根藩が、他領猟師に対しても鳥札を発給するようになる。しかし、全ての領主が納得していたわけではなかった。
著者
福田 千鶴
出版者
九州大学基幹教育院
雑誌
鷹・鷹場・環境研究 = The journal of hawks, hawking grounds, and environment studies (ISSN:24328502)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.79-98, 2019-03

本研究では、16世紀後半の東アジアにおける日本の鷹狩文化の特質を解明する。日本では古代以来、鷹狩が行われたが、16世紀に大きく変容する。すなわち、鶴取の鷹が珍重され、以後は鶴取が日本の鷹狩として伝統化していくことになる。その大きな画期となるのが豊臣政権期であり、これはひとと自然との関係を大きく変えていくことにもなった。第1章では豊臣秀吉の嗜好が、はじめは茶の湯にあったことを示し、第2章では日本全国統一の過程で鷹を掌握するルートを確立し、朝鮮鷹をも入手するようになったことを位置づける。第3章では実際に秀吉が鷹狩を開始すると、鶴取の大鷹が求められたこと、また秀吉が1591年11月から12月にかけて実施した大鷹狩は、東海から畿内にかけての地域の生態系に甚大なダメージを与えたことを明らかにする。これを前提に、第4章では、諸国鉄砲打払令が全国に発令され、豊臣家鷹場の回復および維持が図られた因果関係を解明する。最後に、従来の研究ではほとんど検討されてこなかった鷹狩文化の諸相を解明した本研究の成果に基づき、今後は豊臣政権期における鷹狩文化の変容が、社会文化、政治、環境に与えた影響を踏まえ、歴史像を再構築する必要を提起したい。