著者
大坪 舞
出版者
九州大学基幹教育院
雑誌
鷹・鷹場・環境研究 (ISSN:24328502)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.116-126, 2018-03-20

本稿は、鷹狩りが盛んに行われ、多くの鷹書が編纂・書写された戦国時代から江戸初期にかけて、鷹狩り文化の中心にいた近衞前久の鷹書『鷹百首』と『皇鷹記』の引用書目の検討を通じて、前久が継承した鷹書を明らかにし、室町時代後期から江戸初期にいたる鷹の言説を探ったものである。豊臣秀吉・徳川家康のために書写された『鷹百首』にたびたび引用される書が、『諸木抄』である。これは鷹書ではなく、細川高国による武家故実書でありながら、「当流」の説とされるほど重んじられている。対して、『皇鷹記』には、『持明院宰相殿旧記』が引用されている。『持明院宰相殿旧記』は「鷹の家」である西園寺家の言説を継承したものである。前久は武家故実の鷹の言説、公家の「鷹の家」の鷹の言説を継承し、武家を享受者とした『鷹百首』、天皇の鷹狩りを伝える書『皇鷹記』の典拠として使い分けていたのである。In this thesis, we consider the titles of books quoted "Takahyakushu' and "Koyoki' written by Konoe Sakihisa, who had authority of the culture of falconry from Sengoku era to the beginning of Edo era, during these eras falconry was very popular and a lot of Takasho were written. We also characterize the Takasho inherited by Sakihisa and explore the discourse of falconry from the latter period of Muromachi era to the beginning of Edo era. The book often quoted in "Takahyakushu," which was written for Toyotomi Hideyoshi and Tokugawa Ieyasu, is "Shobokusho." This is not a Takasho, but a Bukekojitsusho by Hosokawa Takakuni, and is very important as the main stream of that period. On the other hand, "Jimyoinsaishodonokyuki" is quoted in "Koyoki." "Jimyoinsaishodonokyuki" is the book inheriting the discourse of Saionji-ke whose family business is falconry.
著者
大坪 舞
出版者
九州大学基幹教育院
雑誌
鷹・鷹場・環境研究 (ISSN:24328502)
巻号頁・発行日
no.5, pp.17-30, 2021-03-20

本稿は、戦国期における鷹狩の様相について、足利将軍家・細川京兆家・公家を中心とした鷹狩の事例と、鷹狩の獲物である「鷹の鳥」進上例をもとに検討した。15世紀末~16世紀初頭の細川政元の鷹狩・鹿狩は軍事的色彩が濃かったのに対して、16世紀前半の11代将軍義澄・12代将軍義晴・13代義輝は、近臣と親交を深める鷹狩を行い、将軍の側近であった公家も漑狩をするようになった。また、漑の鳥が禁裏へ進上されることが定着し、平安時代以来衰退した天皇を中心とした鷹狩の構造が再構築されたことを明らかにした。
著者
藤實 久美子
出版者
九州大学基幹教育院
雑誌
鷹・鷹場・環境研究 (ISSN:24328502)
巻号頁・発行日
no.3, pp.1-24, 2019-03-22

河鍋洞郁(暁斎)『絵本鷹かゝみ』はその筆勢の美しさから人びとを魅了してきた。本論文の目的は、この板本『絵本鷹かゝみ』を史料学の立場から分析することにある。本論文ではまず暁斎の生涯を追う。ここでは幕臣の家および狩野派「御絵師」集団のなかの暁斎の位置に留意して述べる。つぎに『絵本鷹かゝみ』諸本の書誌を比較する。その結果、現在、広く利用される河鍋暁斎記念美術館発行の影印本と、早稲田大学図書館所蔵本は類似しており、ともに金花堂中村佐助版の後印本であるD 対して国立国会図書館所蔵本・もりおか歴史文化館所蔵本は初印本(明治12年6月出版)であるとの結論を導く。第3に、「文久或年壬戊三月十六日改之」と墨書がある校合摺「鷹鏡」(早稲田大学図書館所蔵)を紹介し、この時期に『絵本鷹かゝみ』初編の出版準備が進められていたことを明らかにする。第4に、板元である金花堂須原屋(中村)佐助に関する情報を整理する。第5に、江戸時代の出版手続きを確認して、そのなかでの校合摺の位置づけを行う。第6に、幕末の書籍統制と『絵本鷹かゝみ』出版の関係を素描する。最後に、明治中後期に松山堂藤井利八から出版された求板の後印本(スミソニアン協会フリーア美術館所蔵)を紹介する。
著者
水野 裕史
出版者
九州大学基幹教育院
雑誌
鷹・鷹場・環境研究 (ISSN:24328502)
巻号頁・発行日
vol.1, pp.43-56, 2017-03-25

本稿は、日本における鷹図と鷹狩図について、先行研究を基に紹介するものである。また中国絵画の研究成果を参考としながら、日本における鷹の絵画の特徴についても少し考えてみたい。日本の鷹図研究は、個々の作例紹介とその考察によって展開してきた。そのため総括的な研究成果はあまり報告されていないのが現状である。一方で、日本絵画に多大な影響を与えた中国絵画では、大きな研究成果が提示されており、注目できる。このような中国絵画の成果を援用しながら、日本の鷹図について、図像の成立や展開を解釈することが可能となっている。またモチーフやパトロンとの関係から政治的意図を見出そうとする論考もあり、そのような成果は日本だけではなく、海外の研究者からも報告されている。鷹図研究が、大幅に進捗する一方で、風俗画の一画題である鷹狩図の研究はあまり多くはない。その中でも、今橋理子氏による研究は先駆的なものとして重要であり、今橋氏の研究を引用する論文が幾つか提出されている。また近年、扉風や絵巻の新出作例が相次いでいるものの、展覧会による紹介に留まっているのが現状である。そのため鷹狩図の包括的な研究が待たれる。This report introduces Japanese paintings of hawks and falconry, based on previous studies. Furthermore, in this report, hypotheses will be suggested regarding the features of Japanese hawk paintings with respect to the studies on the Chinese paintings. Since most studies on the paintings of hawks in Japan have developed through introduction and discussions of each individual work, much less comprehensive research results have been presented in the present circumstances. On the other hand, studies related to the Chinese paintings that significantly influenced the Japanese paintings, have achieved notable results. Thus, referring to the results of research into Chinese paintings of hawks, the formation and development of paintings, pictures and sculptures of hawks can be understood. In addition, some studies have endeavored to find the political intentions of works from the relationships between motifs and patrons, and these results have been reported by not only Japanese researchers, but by those overseas. In contrast to the significant progress of the research/studies on paintings of hawks, there are few studies investigating falconry paintings, which is one subject within the category of genre paintings. Among such studies, however, those of Riko IMAHASHI are important pioneering works; and, papers have been written citing IMAHASHl's studies. In recent years, moreover, previously unknown paintings of folding screens and picture scrolls are surfacing successively. In many cases, however, they are still being exhibited without discussion or analysis; hence, further comprehensive studies on hawking paintings are anticipated.
著者
中野渡 一耕
出版者
九州大学基幹教育院
雑誌
鷹・鷹場・環境研究 (ISSN:24328502)
巻号頁・発行日
no.4, pp.17-34, 2020-03-20

小稿は、盛岡藩三戸代官所(現青森県三戸町)の役人の留書から、同藩における巣鷹捕獲の実態について分析するものである。巣鷹とは、巣立ち前のタカ類の幼鳥のことで、鷹狩り用に調教するため捕獲された。盛岡藩では巣鷹を捕獲する専門の役職「巣鷹御用懸」が、藩内4か所の代官所に置かれた。巣鷹の見回りや捕獲は、巣鷹御用懸や実際に捕獲する専門の百姓のほか、肝入(村の責任者)・山守など多くの村人が動員される一大作業だった。また藩庁の指示により、捕獲の要・不要ががけ判断され、また営巣(巣懸)・孵化(貝割)・巣下げの度に代官や用人に報告させるなど、厳格な管理体制が敷かれていた。藩の権力を背最にした鷹の権威の大きさが見て取れるとともに、藩の方針に振り回される現場の様子も垣間見え、藩政と地域の結節点にあった代官所役人の業務の特性が現れている。また、巣鷹御用懸の職制と関連して、これまであまり分析されていなかった、盛岡藩の鷹匠組織や鷹の捕獲体制についても触れる。
著者
森田 喜久男
出版者
九州大学基幹教育院
雑誌
鷹・鷹場・環境研究 = The journal of hawks, hawking grounds, and environment studies (ISSN:24328502)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.1-16, 2018-03

小稿は、日本古代の王権が主宰する鷹狩について概観したものである。王権の鷹狩を支えた養鷹・放鷹官司の変遷について、ヤマト王権の段階の鷹甘部や律令制下の主鷹司・放鷹司を中心に論じた。そのことに関連して鷹狩に従事した鷹飼についても言及し、「尋常の鷹飼」と「猟道を知る親王公卿の鷹飼」の二類型の鷹飼の実態を明らかにしようと試みた。また、鷹狩が行われた猟場である禁野の実態についても触れ、平安時代前期に増加しつつ民業と対立している点を問題とした。さらに『新議式』を素材に、野行幸と呼ばれる犠式としての鷹狩の次第について考察し、鷹狩とセットで実施される出野河海支配を確認する儀礼の重要性を指摘した。その上で、昌泰元年(898) 10月に実施された宇多太上天皇主催の競狩の実態についても考察し、この競狩について醍醐に譲位した後も自身が国政を仕切るという決意の現れであることを指摘した。最後に天皇や上皇の代理で諸国に派遣される狩使についても考察した。The purpose of this study is to give an overview of the history of falconry presided over by the ancient Japanese royalty. First, I analyze the Falconry Office (鷹甘部 taka-kai-be) and falconers (養鷹 shuyoushi, 放鷹宮司 hoyoushi) that kept hawks during the Yamato period. Second, I attempt to distinguish two types of falconers, one, the ordinary falconer and the other a specialist who had good knowledge on which royal society could rely. But, the expansion of royal hunting grounds (禁野 shimeno) during the Heian period caused conflicts with the people who lived in these areas. Third, relying on the book New Ceremonies (新儀式 Shingishiki) I point out that the "going to the fields for falconry" ceremony (野行幸 Nogyoukou) continued as a confirmation of Imperial rule of fields, mountains, and rivers .Furthermore, I investigate falconry games held by the retired Emperor Uda in 898.As a result, I suggest that this ceremony constituted a declaration that Uda was the real political leader in the realm. Last, I consider the hunters (狩使 karishi) who the Emperor dispatched nation-wide to hunt on his behalf.
著者
武井 弘一
出版者
九州大学基幹教育院
雑誌
鷹・鷹場・環境研究 (ISSN:24328502)
巻号頁・発行日
vol.1, pp.3-17, 2017-03-25

小稿の目的は、絵画資料を分析しながら、江戸時代の水田と、それを取り巻く自然環境を明らかにすることである。江戸時代の17 世紀は、新田開発の時代である。平野部には水田が広がり、生産されたコメが社会を支えた。国全体の財政システムも、コメが基準とされた。その結果、人口が急激に増加し、社会は経済成長を成し遂げた。ところで、水田は、人間の視点に立てば、コメを生産する場である。だが、生き物の視点に立てば、水田は水辺でもある。水辺には、動物や鳥、魚などの多様な生き物が生息する。たとえば、イノシシ、シカ、タカ、ツル、コイ、へピ、カエノレなどの名があげられよう。江戸時代には、現代のような生き物を殺す農薬が使われていなかった。したがって、水田が広がったということは、水辺の生き物も増えたことを意味しよう。はたして、水田は生き物を増やしたのか。これを検証するために、江戸中期の農村の風景が描かれた絵農書『農業図絵』をとりあげる。この絵に描かれている生き物に注目し、水田の生態系を復原し、江戸時代の自然環境を明らかにする。The purpose of this study is to show ways in which paddy fields transformed the natural environment during the Edo period by analyzing pictures drawn in that period in cultivators' agricultural manuals. The 17th century was a time of extensive reclaiming of land and construction of paddy fields in Japan. There was an enormous expansion of paddy fields on the plain with a corresponding increase in rice and other crop output, sufficient to contribute to increased commercial sale of crops. As a result, the population increased rapidly, but also experienced considerable economic growth. While the paddy field is a place to produce rice from the human viewpoint, from the viewpoint of the creatures and naturally growing plants, the paddy field is a waterside environment, too. Various creatures such as large and small animals, birds or fishes inhabit this environment, e.g., wild boars, deer, hawks, cranes, carp, snakes, frogs, and more. In the cultivated area, no pesticide was applied which might have poisoned such creatures. Therefore, the creation of paddy generated a new environment in which waterside creatures increased along with the construction of paddies in the Edo period. Did the number and variety of such creatures associated with paddy field really increase? I will investigate this question by analyzing Nōgyō-zue that depicted the scenery of the farm villages of the middle in the Edo period. I will pay attention to creatures drawn in these pictures to clarify the relationship between rural animal life in the Edo period and the ecosystem of the paddy field.
著者
山﨑 久登
出版者
九州大学基幹教育院
雑誌
鷹・鷹場・環境研究 = The journal of hawks, hawking grounds, and environment studies (ISSN:24328502)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.45-56, 2020-03

本論文は、尾張藩の重臣である横井家の鷹場を対象とし、鷹場領主とはいかなる存在であるのか、また家の由緒と鷹場支配がどのように関わっているのかを検討したものである。その結果、明らかになったのは以下の三点である。第一に、知行権を有さない地域において、鷹場によって領民と支配・被支配の関係を結び、御救行為を行う主体として鷹場領主を位置づけた。第二に、「鷹の家」としての由緒を有する横井家が、かつての知行地において鷹場支配を復活させ、輪中という地域環境に応じた支配を行おうとしていたことを明らかにした。第三に、鷹場領主の限界性を指摘した。鷹場の復活によって鳥の生息環境が保護されたことにより、横井家の鷹場村々では深刻な鳥害が生じることになった。この環境の変化は鷹場内領民の生活・生存を脅かすことになる。そうした中で、村々は「御救」の論理を逆手にとって、鷹場の返上を求めていくことになるのである。This paper discusses the hawking grounds of Yokoi clan, senior vassals in the Owari Domain, and investigates the post of "lord of the hawking grounds" and the relationship between the clan lineage and control of the grounds. Three points were clarified. First, in a region where a clan had no fief rights (chigyo-ken), depending on hawking grounds, the user would join in the control or controlled relationship with the domain's people and the lord of the grounds was appointed as an "act of public welfare" (osukui kōi). Second, the Yokoi clan, with its lineage right to serve as "the hawkiug clan," revived hawking grounds on what was previously fief territory and controlled with adaptation to the local environment (waju). Third, limitations on the lord of the hawking ground were indicated. The revival of hawking grounds meant protection of habitat for birds, while hawking caused serious damage to birds of villages within hawking grounds. These environmental changes came to threaten livelihoods of domain people living within villages of Yokoi clan's hawking grounds. This was an unexpected reversal of the original theory that grounds would serve for "public welfare" (osukui), and led to calls to revoke rights of hawking grounds.
著者
東 昇
出版者
九州大学基幹教育院
雑誌
鷹・鷹場・環境研究 = The journal of hawks, hawking grounds, and environment studies (ISSN:24328502)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.35-44, 2020-03

大洲藩主の狩は、17世紀後期、2代藩主加藤泰輿の代には、城下近隣の御鷹野で小規模な狩が行われ、藩主と藩士・領民が出会い交流する場であった。18世紀には、狩をしない藩主も登場するが、軍事演習、獣害対策、武の象徴としての狩と変化し、領民の見物の対象、まだ怪異と遭遇する場でもあった。18世紀末の10代藩主加藤泰済の代に、柳瀬山における御代始の狩に約4000人の大規模動員が行われる一方で、老人・奇特者の褒賞、難渋者の御救が実施された。この狩を支える漑匠は、下級藩士の世襲、巧者などを養子とし、屋敷に鳥を飼う設備を整えていた。また狩の場は、御鷹野場など鉄砲停止場として、鳥見方や鳥目付が監視し鳥獣を保護した。一方で、獣害対策として踏出、威筒願が各村から出され、領民の生業とせめぎあっていた。
著者
渡部 浩二
出版者
九州大学基幹教育院
雑誌
鷹・鷹場・環境研究 = The journal of hawks, hawking grounds, and environment studies (ISSN:24328502)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.71-82, 2020-03

17世紀後期の越後国村上藩主松平直矩(1642~95) の日記(『松平大和守日記』)から直矩の鷹・鷹狩について素描した。直矩所有の鷹は20居前後にもおよび、購入したものや贈答されたものもあったが、村上産のハイタカが中心で、頷内で捕獲する体制が確立していた。直矩は自ら頻繁に鷹狩を行うとともに、鷹を鷹師(鷹匠)に預け、領内各所で頻繁に鷹狩・訓練させ、捕獲した獲物を詳細に注進させていた。江戸藩邸で飼育していた鷹は、縁類の大名が将軍から下賜された鷹場や幕府鷹匠の預り鷹場に鷹師とともに遣わし、鷹狩・訓練させていた。また、直矩は鷹以外にも馬・犬・小鳥などの動物の贈答・購入を頻繁に行っていたことを示し、当時の武家の動物に対する関心の一端を指摘した。また、村上および江戸藩邸でも多様な動物を捕獲していたことなどを示し、当時の動物生息環境の一端を紹介した。
著者
東 幸代
出版者
九州大学基幹教育院
雑誌
鷹・鷹場・環境研究 = The journal of hawks, hawking grounds, and environment studies (ISSN:24328502)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.83-94, 2020-03

本稿は、彦根藩の御鷹場研究の進展のために、近江国における鳥猟の支配について検討するものである。彦根藩は、近江一国を御鷹場と認識してきた。しかし、彦根藩が鳥猟を許可できた範囲は、自領内にとどまっており、他領内の鳥猟には関与できない状態であった。また、彦根藩は留場の設定などを進めるが、その範囲はあくまでも自領内の一円知行地的な空間であり、他領に及ぶものではなかった。彦根藩が御鷹場の実質化を試みようとした際、いずれの領主もその主張に異を唱えた一因は、このような鳥猟支配のあり方が実際に展開していたためであった。18世紀半ばになると、彦根藩は、幕府との交渉を通して、「京都守護」の拝命を理由に御鷹場の実質化を進める。その結果、彦根藩が、他領猟師に対しても鳥札を発給するようになる。しかし、全ての領主が納得していたわけではなかった。
著者
福田 千鶴
出版者
九州大学基幹教育院
雑誌
鷹・鷹場・環境研究 = The journal of hawks, hawking grounds, and environment studies (ISSN:24328502)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.79-98, 2019-03

本研究では、16世紀後半の東アジアにおける日本の鷹狩文化の特質を解明する。日本では古代以来、鷹狩が行われたが、16世紀に大きく変容する。すなわち、鶴取の鷹が珍重され、以後は鶴取が日本の鷹狩として伝統化していくことになる。その大きな画期となるのが豊臣政権期であり、これはひとと自然との関係を大きく変えていくことにもなった。第1章では豊臣秀吉の嗜好が、はじめは茶の湯にあったことを示し、第2章では日本全国統一の過程で鷹を掌握するルートを確立し、朝鮮鷹をも入手するようになったことを位置づける。第3章では実際に秀吉が鷹狩を開始すると、鶴取の大鷹が求められたこと、また秀吉が1591年11月から12月にかけて実施した大鷹狩は、東海から畿内にかけての地域の生態系に甚大なダメージを与えたことを明らかにする。これを前提に、第4章では、諸国鉄砲打払令が全国に発令され、豊臣家鷹場の回復および維持が図られた因果関係を解明する。最後に、従来の研究ではほとんど検討されてこなかった鷹狩文化の諸相を解明した本研究の成果に基づき、今後は豊臣政権期における鷹狩文化の変容が、社会文化、政治、環境に与えた影響を踏まえ、歴史像を再構築する必要を提起したい。