- 著者
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冨原 眞弓
- 出版者
- 上智大学
- 雑誌
- Les Lettres francaises (ISSN:02851547)
- 巻号頁・発行日
- vol.1, pp.34-58, 1981-05
本論は,序論,結論を含めて全五章より成る。序論では,三世紀半ばに没し,聖書の極端な寓意的解釈が,プラトン哲学を始めとするギリシア思想の影響によるものとされて,再度,公会議に於て断罪されたアレクサンドリアの神学者の命題が,十三世紀半ばに編纂された,ロンバルディア地方のカタリ派の書物『二原理の書』に,直接,間接の影響を及し得たか否かについて,両者の文献の比較研究に基づいた批判,検討を試みる.序論で得られた肯定的な結論に則って,本論を構成する三章では,オリゲネスの『魂の前存在説』とカタリ派の『原初的諸原素の前存在説』との比較を,以下に述べる三段階に分けて行う.オリゲネスが,創造に先立って存在していた,純粋な霊的実体=魂なるものを想定していたことは,彼の著作『諸原理について』,『ヨハネ福音書注解』からも明らかである.彼は,これらの霊的実体が,神の創造のわざを通じて,前世に於ける功徳の度合に応じて,天使,人間,悪魔の三種の範鴫に振り分けられたとする.一方,『二元理の書』の編纂者は,《無からの創造》というカトリックの概念に真向から対立し,神の創造のわざとは,既に原初から存在していた《基本諸原素》に,新らたな要素を附加して,三種の質的に異なる現実を生み出すことであると考えた.カタリ派はこれらを,純粋に善の原理からのみ成る第一の創造,完全に悪の原理からのみ成る第三の創造,そして,両者の中間に位置する,善悪二原理の混淆より成る第二の創造と呼んだ.カタリ派の《原初的諸原素の前存在説》は,アラビア哲学を仲介とした古代ギリシア哲学の遥かな反映であることは疑い得ない.従って,本論の目的は,オリゲネス,カタリ派の両者が,如何なる意図と視座に基づいて,魂,或いは,原初的諸原素の前存在説という,すぐれてギリシア哲学的概念を,自らの神学休系の中に吸収していったかを解明することにある.独特の用語法,聖書の寓意的解釈,霊肉二元論の強調,仮現説と御子従属説を想起させなくもないキリスト論など,オリゲネスとカタリ派の思想的類縁性を示唆する要素は多い.一方,両者の前存在説が,同一のコスモロジーに基くものでもなければ,同一の論理的必然性に支えられているものでもないことは確かである.悪の存在と,自由意志の問題が,それぞれの前存在説に,全く異なった論証への道を開く.絶対的唯神論者であるオリゲネスは,悪の導入が善そのものである神の直接的介入によるものとは考えず,創造以前に既に存在していた《霊魂》の過ちによるものと考える.天使,人間,悪魔という範疇も,神の任意の選びに基くものではなく,それぞれの魂の前世の行いに照応した賞罰の論理的帰結に他ならない.オリゲネスの前存在説は,かくして,悪の存在に関しての神の無罪証明と,神の公平さと理性的被造物の自主性の確信の上に成り立っている.然るに,善悪二元論を標榜するカタリ派にとっては,善の神は全能でもなければ,生成生起するものすべての直接原因でもない.善の神の権能は,純粋に霊的な分野に限られており,霊肉混淆の現世は悪の原理の支配下にあると見倣される.悪が存在するのは,原初から存在する悪の原理の働きによるもので,理性的存在の自由意志は完全に否定され,すべては一種の救霊予定説によって予め決定されている.結論として,幾つか認められる教義上,用語上の類似にも拘らず,オリゲネスとカタリ派の前存在説は,自由意志と悪の原因に関する限り,それぞれの神学体系内に於て全く異質の射程を持つものであると言えよう.