著者
樫村 愛子
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.55, no.3, pp.189-208, 2004-12-31 (Released:2009-10-19)
参考文献数
42

グローバル資本主義が社会を脱領土化していく中で, 構築主義理論は, 科学やテクノロジーと結合している資本主義を加速するイデオロギーとなっている.というのも科学は現在構築主義的・自己組織的になっており, これまでは手つかずであった人間の生殖や遺伝子, 環境などを操作し始め影響を与え, その影響の効果を考慮しえないまま人間の生きられる条件を破壊しつつあるからである.構築主義理論は, 人間や社会の構築性を記述したが, 他方でこれまで維持されてきた人間の生きられる条件や構造が実際何であるのかは論じられず, それゆえ現在起こっている人間と社会の解体に対し, 必要とされる社会の再構築を考察できない.構築主義のこの困難は言語至上主義にあり, すでにできあがった言語の共時体系から出発しているため, 再構築可能性と関わる, 言語構造の生成や言語と主体の結合の条件を論じられない.理論的に見れば, 言語の内部からのみ記述するため「自己言及のパラドクス」という難点を抱え, これを脱パラドクス化している身体や主体等を論じられず, 言語化できない身体や主体を唯物化・本質主義化することとなる.バトラーは「唯名論化した精神分析理論」を流用して身体や主体を脱構築し言語化作用を論じたが, そこでも構造の生成は結局のところ論じえない.唯名論的ではない臨床現場から立ち上がった精神分析理論によって, 身体と言語の接合関係を, 自閉症者を参照しながらみていくと, 主体が他者への同化と他者との相互行為から生まれ, それが世界と自己の同一性を生み出し, それによって自律した言語構造が可能となっていることが示され, ここに再構築の理論的可能性があることがわかる.
著者
片桐 雅隆 樫村 愛子
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.61, no.4, pp.366-385, 2011-03-31 (Released:2013-03-01)
参考文献数
71

本稿の前半では,心理学化する社会論の前史として,社会学の歴史の中で,社会学と心理学/精神分析との関連を跡づけた.1.1の「創設期の社会学と心理学」では,創設期の社会学の方法の中で,心理学がどのような位置にあったかを明らかにする.1.2の「大衆社会論と心理学/精神分析との接点」では,媒介的な関係の解体による心理的な不安の成立が,社会学における心理学や精神分析の視点の導入の契機となったことを指摘する.1.3の「『心理学化』社会論の登場――戦後のアメリカ社会学」では,自己の構築の自己言及化という観点から,アメリカにおける心理学化社会のさまざまな動向を明らかにする.1.4の「ギデンズとベックの個人化論と自己論」では,高次近代や第2の近代における自己のあり方や,その論点と心理学社会論との差異などを指摘する.後半では,第2の近代が始まり出す1970年代以降について,個人化の契機における社会(「社会的なもの」)の再編成の技術として心理学化を分析した.その起点は「68年」にあり,古い秩序を解体して新しい社会を構成しようとした「68年」イデオロギーが「資本主義の新しい精神」(ボルタンスキ,シアペロ)となって共同性を意図せず解体しネオリベラリズムを生み出すもととなったこと,この社会の解体にあたって社会の再編技術として心理学/精神分析が利用されたことを見る.それはアメリカ社会で顕著であるとともに,アメリカ社会では建国の早い段階から心理学/精神分析が統治技術として導入され精神分析が変形された.日本においては,福祉国家化の遅れに連動する個人の自立の遅れのため,心理学化は周辺現象としてしか起こらず,90年代の個人化の契機は「欠如の個人主義」(カステル)のような過酷なかたちで現れ,心理学化は十分構成されないままポスト心理学化へと移行している.
著者
樫村 愛子
出版者
関西社会学会
雑誌
フォーラム現代社会学 (ISSN:13474057)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.10-17, 2005-05-28 (Released:2017-09-22)

本論は、現在グローバル化に伴って、起こっている「脱制度化」を考察するとき、制度の成立を考察してきたこれまでの社会学理論が重要な示唆を与えうることを指摘する。「脱制度化」とは、ギデンズのいう「脱埋め込み化」であり、ローカルからの自律と時空の拡大の運動である。現在は「第二の近代」化の中で、近代的社会制度が解体して、「再帰的個人化」および「心理学化」が帰結している。しかし、そこで社会的なものは解体しているのではなく、個人の中にビルトインされており、この様式を考察する上で、社会学の近代についての、議論は示唆的である。本論では、パーソンズが指摘した「感情中立性」、ゴフマンの指摘した「儀礼」等々が、「心理学化」において、心理の中にビルトインされた社会性であることを確認する。
著者
樫村 愛子
出版者
学術雑誌目次速報データベース由来
雑誌
ソシオロジ (ISSN:05841380)
巻号頁・発行日
vol.42, no.3, pp.3-18,184, 1998

The discussions about the "common knowledge" which criticize the code model haven't ever explained with the real process of the communication. So I want to explain it by examining the game theory's approach which tries to explain the connection between the micro and macro phase and elaborating this approach by the Lacanian analytical logic.<br> Lacan presents that the real communication depends on the emergent knowledges which others give. This idea presupposes that the subject is ambiguous with his knowledges and that he doesn't know himself (his unconsciousness). So he should depend on the other and accept the emergent knowledges. Lacan points out that this process is governed by "the logic of precipitousness", which is discovered by the treatments of the neurotics. The neurotics can't accept the ambiguousness of their knowledges and they adhere to the determinable. For example, ordinary man is convinced that he loves somebody in the ambiguousness, but the neurotics can't do it and so they can't love anybody.<br> This phenomenon also makes clear the universal condition of the knowledge. The knowledges are always based on this process through which we accept emergent knowledges in the ambiguousness. The axiom about the "common knowledge" by the game theory has the possibility that describes this process mathematically and the connection with the micro and macro phase, though in fact at the actual level of the mathematics it is difficult.
著者
樫村 愛子
出版者
社会学研究会
雑誌
ソシオロジ (ISSN:05841380)
巻号頁・発行日
vol.42, no.3, pp.3-18,184, 1998-02-28 (Released:2016-11-02)

The discussions about the "common knowledge" which criticize the code model haven't ever explained with the real process of the communication. So I want to explain it by examining the game theory's approach which tries to explain the connection between the micro and macro phase and elaborating this approach by the Lacanian analytical logic. Lacan presents that the real communication depends on the emergent knowledges which others give. This idea presupposes that the subject is ambiguous with his knowledges and that he doesn't know himself (his unconsciousness). So he should depend on the other and accept the emergent knowledges. Lacan points out that this process is governed by "the logic of precipitousness", which is discovered by the treatments of the neurotics. The neurotics can't accept the ambiguousness of their knowledges and they adhere to the determinable. For example, ordinary man is convinced that he loves somebody in the ambiguousness, but the neurotics can't do it and so they can't love anybody. This phenomenon also makes clear the universal condition of the knowledge. The knowledges are always based on this process through which we accept emergent knowledges in the ambiguousness. The axiom about the "common knowledge" by the game theory has the possibility that describes this process mathematically and the connection with the micro and macro phase, though in fact at the actual level of the mathematics it is difficult.
著者
樫村 愛子
出版者
愛知大学文学会
雑誌
愛知大学文学論叢 (ISSN:02870835)
巻号頁・発行日
vol.138, pp.288-266, 2008-08