著者
藤永 壯
出版者
大阪産業大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2002

本研究では「帝国」日本の直轄植民地であった台湾と朝鮮において、公娼制度が成立する過程を検討した。両者の制度成立に至る事情は大きく異なっているし、また内容においてもさまざまな違いが見られる。しかし日本の公娼制度を祖型とし、性病検診制度や集娼政策の実施など、基本的性格を貫徹させている点は共通していた。植民地期台湾への公娼制度の導入は、日本の領有直後の1896年からはじまり、1900年前後には自由廃業運動の影響を受けた制度の手直しが実施された。当初、貸座敷・娼妓に対する取締法令は地域ごとに違っていたが、1906年に全島的に統一された。一方、植民地化以前の朝鮮においては、日本人居留民を対象とする公娼制度・密売春取締政策が日本領事館により実施されていた。朝鮮保護国化後には、「貸座敷」「娼妓」などの語の使用をさけつつ、実質的に公娼を許容する制度が実施された。台湾と同様、朝鮮の公娼制度も各地域で違っていたが、「併合」後の1916年に統一された。公娼制度の確立にともない、朝鮮人接客女性は日本警察当局の定める「芸妓」「娼妓」「酌婦」という分類にあわせて再編成された。朝鮮において公娼制度が確立した第1次世界大戦の時期に、朝鮮人接客業者が朝鮮外に移動する現象が起こっていた。1920年代初めから、朝鮮人娼妓は台湾へも渡航をはじめ、台湾の朝鮮人娼妓数は1930年には台湾人を上回り、40年前後には台湾全体の娼妓数の約4分の1を占めるに至った。娼妓許可の最低年齢が16歳と最も低年齢であった台湾に、日本人だけでなく朝鮮人の女性たちも渡航していったのである。そして台湾における朝鮮人接客業の存在は、やがて日中戦争期に、大量の朝鮮人「慰安婦」が台湾を経由して華南地方の戦地に送り込まれる状況を生み出すことになる。

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