著者
撫尾 清明
出版者
九州龍谷短期大学
雑誌
九州龍谷短期大学紀要 (ISSN:09116583)
巻号頁・発行日
vol.39, pp.A349-A385, 1993-03-20
著者
築山 信昭
出版者
九州龍谷短期大学
雑誌
九州龍谷短期大学紀要 (ISSN:09116583)
巻号頁・発行日
vol.39, pp.A333-A348, 1993-03-20
著者
北島 茂樹
出版者
九州龍谷短期大学
雑誌
佐賀龍谷短期大学紀要 (ISSN:02863766)
巻号頁・発行日
vol.31, pp.A291-A311, 1985-03-20

現代っ子の遊びの実態について調査研究を実施した。子ども時代の遊び経験に関する世代間比較および現代っ子の遊び現場の観察記録という二つの方法が用いられた。結果は,大旨,次の通りであった。1.時代とともに遊び経験に変化がみられた。ある種の遊びは風化し,あるものは発展・増加していた。また,変化の少ないものもあった。2.遊びの内容的変化については,一定の傾向がみとめられた。たとえば、゛集団での遊び″が減る傾向がややみられるのに対して,゛一人での遊び″が増えていた。このことからは,子どもの心理能力の発達面,とくに、我慢する心,思いやりの心,結びあい協調する心,要求を通すテクニックなどの社会的能力の発達面に影響を及ぼすことが予想される。また,自然を素材とした遊びの減少が目立った。これは,子どもたちから自然が達ざかり,既製品の遊具が氾監した結果として解釈される。これは、工夫や創造する心,発見を喜ぶ心などの心理的能力の成長に少なからずネガティブな影響を与えていかしている。水に入りたい気持ちは十分だが,うまく入れない様子だった。場面VIII ; N団地の公園 N団地の中にある公園の片隅。3歳の男の子が二人で砂場遊びをしている。同じ公園内で遊んでいた小学校の高学年と召しき男の子が,そこへやってきて,砂で作ったものを一方的に壊してゆく。3歳の子らは口をとがらせて抗議するが,壊した子は無表情で公園内の別の場所へ移動する。この公園での年長者は遊びを組織したり教えたりする,つまり,リーダー的役割を果たすのではなく,むしろ下への抑圧者として振舞っていた。また,公園内の他の場所を見渡しても,多くても3人ぐらいの小人数での遊びが多く,大きな集団遊びへの発展への気配は全くみられなかった。場面IX ; 県営住宅内の道路 県営住宅内のアスファルト道路で,女の子たちがローラースケートをしている。同じ筋力を使った遊びでも,時代とともに,道具を用いてよりスマートになってきていることがわかる。また,こうした遊びは従来,男の子たちが好んだものであったが,現在,女の子たちがこうした遊びに興じているのが面白いことでもあった。子どもの遊びについてのこうしたビデオによる観察研究から気づくことは,遊び揚が少ないといわれているにもかかわらず,決っして公園だけで遊んでいるといった様子は見られず,想像していたよりは川や路地裏などで子どもだちなりに,遊び揚を見つけて遊んでいるということである。しかし,それぞれ遊びの時間や空間的移動は少なく,遊びの内容も団地の場面で見られたように家から持ちよった道具が多く,自然の素材などを利用した遊びの展開も乏しかった。
著者
山部 能宜
出版者
九州龍谷短期大学
雑誌
奨励研究(A)
巻号頁・発行日
1997

本年度の主たる成果は,以下の二点である.(1) 『観仏三昧海経』 (『海経』)の中心的テーマである「観仏」の修行は,仏像を用いた観想行であったと考えられるが,このような行法を明確に説くインド文献が殆ど確認できないことが,従来の観仏経典研究の上での大きなネックであった.ところが,『大宝積経』中に編入されている「弥勤師子吼経」(「師子吼経」)には,『海経』の記述と極めて類似した観仏行が説かれている.ここで,「師子吼経」のインド成立には疑問の余地がなく,かつ本経が『海経』成立段階で漢訳されていないことは重要である.『海経』が疑経であったことを否定するのは難しいので,以上の事実は,恐らくは『海経』が中央アジアで成立したということを示唆するであろうまた,「師子吼経」の背後にはさらに『維摩経』があったものと思われ, 『維摩経』にみられるような極めて哲学的な「仏を見る」思想が,「弥靭師子吼経」を経て『海経』に見られる極めて視覚的な行へと変化していったことが伺われるのである.(2) 『海経』にみられる陰馬蔵相をめぐる四つの説話は,極めて特異なものであり,他の仏典に類例を見ないものである.これらの説話には,明らかにインド・シヴァ派のリンガ崇拝の影響が認められるが,リンガ崇拝が中国では殆ど知られていなかったことは,上述の「師子吼経」の場合と同様の問題をはらむものであり,示唆的である.さらにまた,『海経』における陰馬蔵の記述には,リンガのイメージとナーガのイメージとの混淆が見られること,中央アジアの美術表現からの影響が伺われること,漢訳仏典にみられる要素の不用意な導入が認められること,天山地域に確認される生殖器崇拝が,これらの説話の背景となっていた可能性があることなどを指摘した.これらの諸点は,『海経』が中央アジアの多文化混在状況の中から生み出されてきたものであるとする私の仮説を支持するであろう.
著者
東光 寛英
出版者
九州龍谷短期大学
雑誌
佐賀龍谷學會紀要 (ISSN:02863758)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.55-73, 1973-02-01
著者
渡部 保
出版者
九州龍谷短期大学
雑誌
佐賀龍谷學會紀要 (ISSN:02863758)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.143-159, 1962-12-20
著者
蒲原 静美
出版者
九州龍谷短期大学
雑誌
九州龍谷短期大学紀要 (ISSN:09116583)
巻号頁・発行日
vol.39, pp.1-18, 1993-03-20

あはれともいふべき人はおもほえで みのいたづらになりぬべきかな 百人一首で名を知られている「謙徳公」は,一条摂政又は摂政太政大臣藤原伊尹として知られているところである。後撰集撰進時にあっては,蔵人少将の任にあり和歌所別当として責任を全うした人物でもある。謙徳公が勅撰和歌集に名を連ねているのは,二十一代集中の後撰集から新後拾遺集に至る間の約半数に及ぶ十一の勅撰和歌集で,入集歌数三十一首が撰出されている。その中の二十一首が鎌倉前期の新古今集・新勅撰集に集中しており,初期後撰・拾遺以後約二百年の空白期間をおき,この新古今集において「恋歌」でもって見直される処となった。このことを考えることは,新古今集の性格を考える上からも,また,謙徳公の歌の特質を知る上からも無意味なことではなかろうし,ことに,後撰集撰進や天徳四年三月内裏歌合など重要な役割を果たしながらも,歌人としての姿がいまひとつ見えてこないのは何故だろうか。和歌史的課題をも頭に置きながら本稿では伊尹の時代的背景をさぐりつつ,一条摂政御集と新古今集の拘わりを考えてみたい。