著者
シュルーター 智子 シュルーター 智子
出版者
北海道基督教学会
雑誌
基督教学 (ISSN:02871580)
巻号頁・発行日
no.53, pp.1-20, 2018-07-13

ヨハン・ヴァレンティン・アンドレーエ(Johann Valentin Andreae 一五八六-一六五四)は、『化学の結婚』と『クリスティアノポリス』という二つの作品によってその名を後世に残している。前者は、十七世紀前半のヨーロッパにおいて一大ムーブメントを巻き起こした「薔薇十字団(Rosenkreuzer)」の基本文書に位置づけられており、日本でも種村季弘の翻訳一によって知られている。それに対して後者は、日本においては一般に知られていないが、トマス・モアの『ユートピア』、カンパネッラの『太陽の都』にならぶユートピア文学の古典の座を占める作品である。アンドレーエ自身はルター派の神学者であり、彼の『クリスティアノポリス』についても、モアとカンパネッラの作品に比べて、とくにキリスト教的、ルター派的な性格が強いということがしばしば指摘される。こうして、アンドレーエの代表作である二つの著作からは、一見したところ全く異なる作者像が引き出されることになる。すなわち、一方には、錬金術やヘルメス思想、フリーメーソンやオカルト・グループの一種と見なされる薔薇十字団三の仕掛け人としてのアンドレーエ像があり、他方ではキリスト教的、ルター派的なユートピストとしてのアンドレーエ像が存在しているのである。このような相反するイメージから、いかにして一人の作者像を描き出すことができるのだろうか。この問いに取り組むために本論文では、アンドレーエに関する研究の現状をふまえて、アンドレーエが『化学の結婚』の執筆に至るまでの状況に焦点を当て、伝記的な資料に基づいて手がかりを探っていくことにしたい。ヨハン・ヴァレンティン・アンドレーエ(Johann Valentin Andreae 一五八六-一六五四)は、『化学の結婚』と『クリスティアノポリス』という二つの作品によってその名を後世に残している。前者は、十七世紀前半のヨーロッパにおいて一大ムーブメントを巻き起こした「薔薇十字団(Rosenkreuzer)」の基本文書に位置づけられており、日本でも種村季弘の翻訳一によって知られている。それに対して後者は、日本においては一般に知られていないが、トマス・モアの『ユートピア』、カンパネッラの『太陽の都』にならぶユートピア文学の古典の座を占める作品である。アンドレーエ自身はルター派の神学者であり、彼の『クリスティアノポリス』についても、モアとカンパネッラの作品に比べて、とくにキリスト教的、ルター派的な性格が強いということがしばしば指摘される。こうして、アンドレーエの代表作である二つの著作からは、一見したところ全く異なる作者像が引き出されることになる。すなわち、一方には、錬金術やヘルメス思想、フリーメーソンやオカルト・グループの一種と見なされる薔薇十字団三の仕掛け人としてのアンドレーエ像があり、他方ではキリスト教的、ルター派的なユートピストとしてのアンドレーエ像が存在しているのである。このような相反するイメージから、いかにして一人の作者像を描き出すことができるのだろうか。この問いに取り組むために本論文では、アンドレーエに関する研究の現状をふまえて、アンドレーエが『化学の結婚』の執筆に至るまでの状況に焦点を当て、伝記的な資料に基づいて手がかりを探っていくことにしたい。
著者
渡辺 崇子
出版者
北海道基督教学会
雑誌
基督教學 (ISSN:02871580)
巻号頁・発行日
no.45, pp.10-18, 2010

本研究では新渡戸稲造(一八六二-一九三三)が女子教育について初めて明言し、傾倒していったのが欧米留学時代(一八八四-一八九一)であることに着目し、この時期にどのように新渡戸の女子教育観が形成されていったのかを彼が当時寄稿していた『女学雑誌』(一八八五年七月二〇日創刊)、フレンズ派の刊行物、新渡戸の書簡を通して検討する。あわせて、同時期に女子教育の分野で活躍した津田梅子(一八六四-一九二九)の当時の言動もみながら二人の女子教育観の比較を試みる。
著者
シュルーター 智子
出版者
北海道基督教学会
雑誌
基督教学 (ISSN:02871580)
巻号頁・発行日
vol.53, pp.1-20, 2018-07-13

ヨハン・ヴァレンティン・アンドレーエ(Johann Valentin Andreae 一五八六-一六五四)は、『化学の結婚』と『クリスティアノポリス』という二つの作品によってその名を後世に残している。前者は、十七世紀前半のヨーロッパにおいて一大ムーブメントを巻き起こした「薔薇十字団(Rosenkreuzer)」の基本文書に位置づけられており、日本でも種村季弘の翻訳一によって知られている。それに対して後者は、日本においては一般に知られていないが、トマス・モアの『ユートピア』、カンパネッラの『太陽の都』にならぶユートピア文学の古典の座を占める作品である。アンドレーエ自身はルター派の神学者であり、彼の『クリスティアノポリス』についても、モアとカンパネッラの作品に比べて、とくにキリスト教的、ルター派的な性格が強いということがしばしば指摘される。こうして、アンドレーエの代表作である二つの著作からは、一見したところ全く異なる作者像が引き出されることになる。すなわち、一方には、錬金術やヘルメス思想、フリーメーソンやオカルト・グループの一種と見なされる薔薇十字団三の仕掛け人としてのアンドレーエ像があり、他方ではキリスト教的、ルター派的なユートピストとしてのアンドレーエ像が存在しているのである。このような相反するイメージから、いかにして一人の作者像を描き出すことができるのだろうか。この問いに取り組むために本論文では、アンドレーエに関する研究の現状をふまえて、アンドレーエが『化学の結婚』の執筆に至るまでの状況に焦点を当て、伝記的な資料に基づいて手がかりを探っていくことにしたい。