著者
相蘇 一弘
出版者
大阪市立博物館
雑誌
一般研究(C)
巻号頁・発行日
1993

江戸時代ほぼ六十年を周期に起きたお蔭参り、文政13年(1830)のお蔭参りのなかから起きたお蔭踊り、慶応3年(1867)に全国規模で起きた「ええじゃないか」の乱舞については、伊勢信仰と密接な関係があることから一連の研究テーマとしてとりあげられることが多かった。一方、近世にはお蔭踊りや「ええじゃないか」と同じ様な踊りを伴う民衆行動として、天保2年(1831)大坂の御救大浚や同9年(1838)の大坂天満宮の砂持を初めとする砂持・正遷宮、同10年の京都豊年踊り(蝶々踊り)などがある。これらの踊りにはさまざまな仮装を伴う場合が多く、その様相は場所や時代が違う場合でも驚くほどよく似ているケースが多い。これらの踊りが発生した背景としては、凶作・飢餓・社会不安など悪い状態から脱出した時期という様な共通性のある場合もあるがない場合もある。またある踊りが他の踊りの流行に影響を与えた場合もあるし、そうでない場合もある。これは、近世後期の上方では何かきっかけがあれば、どこでも同じような形で仮装を伴うような踊りに熱狂し得る共通の素地があったことを意味するものではないだろうか。これら民衆の熱狂は時代や地域、形の異なる場合であってもその底に流れるものは本質的には同じものと考えられる。これらの民衆運動は封建制度に抑圧された人々が得たつかの間の非日常的世界、という点で共通しており、彼らは潜在的に抱いていた解放の願いを集団的な熱狂という手段で一時的に昇華させたのであった。なお、これらの民衆踊りは過去の日常的な生活のさまざまな伝統が持ち出されたものであり、とくに大坂では遊里文化が色濃く影響していると見られる。
著者
酒井 一光
出版者
大阪市立博物館
雑誌
奨励研究(A)
巻号頁・発行日
1999

研究題目について、昨年度の摂津の事例に続き、本年度は全国の代表的な事例について調査を進め、神仏分離における神社境内の「仏教的建造物」の保存・転用の実態について研究、分析した。今回の調査・研究を通して以下の点を明らかにした。神仏分離における神社境内の「仏教的建造物」の排除は、必ずしも神社側の本位ばかりではなかった。その際、境内の由緒ある建造物は以下のような方法で移築、転用された。1.神社境内の「仏教的建造物」が機能を変え、一部改造を受けた上で、神社の社殿のひとつに転用された。今回の調査ではこの事例が最も多くみられた。例)知立神社(愛知県)多宝塔→知立文庫に改造し現地保存2.神社境内の「仏教的建造物」は売却され、移築の上、当時荒廃していた寺院の復興にあてられた。例)旧住吉神宮寺西塔(大阪市)→切幡寺(徳島県)に移築3.神社境内の「仏教的建造物」がそのまま、当初の機能として、神仏分離以前の場所に残された。その場合、その建造物のみが、旧神宮寺などの飛地境内となったことがある。また売却後、移築が遅れたり、買い手が付かないためにその場所に残され、古社寺保存法成立以降、文化財的価値が認められて保存された場合もある。例)花岡八幡宮(下松市)多宝塔→隣接する閼伽井坊の飛び地境内として現地保存4.神仏分離以降、寺院が神社となり、境内の堂宇が一部改変され、神社の社殿に転用する例が見られた。例)永福寺(高槻市)→畑山神社に変更し現地で保存5.廃寺により、寺院境内の建造物が神社に移築された。例)常楽寺(茨木市)堂宇→廃寺にともない井於神社(摂津市)に移築6.鎮守社が寺院から独立し、社殿はそのままに単独の神社となった。例)広済寺(尼崎市)久々知妙見祠→久々知須佐男神社に変更し現地で保存