著者
西山 要一
出版者
奈良大学文学部文化財学科
雑誌
文化財学報 (ISSN:09191518)
巻号頁・発行日
vol.23, pp.13-35, 2006-03

レバノン共和国の首都・ベイルートの南約80kmにあるティール(現スール市)は、東地中海に面した景勝の地でありまた温暖な気候に恵まれて、紀元前5000年ころにはすでに優れた古代文明があったといわれている。ここに世界文化遺産「フェニキアの中心都市として栄えた港町ティール」がある。フェニキア時代の遺構はまだ未解明であるものの、シティー・サイトとアル・バス・サイトの2か所の世界遺産地区には、ローマ時代の港湾・列柱道路・公共浴場・金属とガラスの工房・劇場・水道橋・ヒッポドロムス(戦車競技場)・ネクロポリス(墓地)などの遺構が発掘され、保存修復され、多くの研究者・観光旅行者を迎えている。ティールの世界遺産地区の東約3㎞ の丘陵にはローマ時代からビザンチン時代にかけての地下墓・竪穴墓・地上掘込墓が営まれていて、その数は数千にも達するといわれている。この一角のラマリ地区では2002年度より、泉拓良奈良大学教授(現京都大学大学院教授)を代表者とする奈良大学考古学調査隊が文部科学省科学研究費(2002~2004年)の助成を得て発掘調査を行ない、ローマ時代の地下墓と地上掘込墓およそ30基を発掘調査し、テラコッタの神像・アンホラ(ワイン壷)・ランプ・ガラス瓶・青銅コイン・鉛製分銅などを発見している。本保存修復研究が対象とするローマ時代の地下墓TJO4はラマリ地区にあり、石灰岩丘陵裾の岩盤に長さ約5mの下り階段を設けて、およそ7m四方、高さ3mの空洞を掘削し、その空間におよそ3m四方、高さ3mの墓室を切石で構築している。墓室の壁には長さおよそ2mの19の納体室(棺棚)と床に2つの納体室、合わせて21の納体施設を設けている。既に開口していて墓室内部はかなりの損傷を受けていたが、2002年、西山らは側壁には赤色の波形、緑色のオリーブの枝束、灰色の石柱と灯火台など、天井には赤・緑・灰色などで鮮やかに彩色された花形などの壁画のあることを発見し、さらに2003年(財団法人文化財保護振興財団の一部助成)の調査によって墓室内部に落下堆積していた土砂中より多数の壁画片と壁や納体室の石材を発見し、これら落下した石材を原位置に戻せば、TJO4墓室の壁画および墓室・納体室のほぼ9割を復原できる可能性のあることを明らかにした。これと並行して、地下墓の岩盤・構造石材の材質分析、壁画顔料の機器分析、壁画の汚れを除去し、壁面を強化するテストとともに温度・湿度・照度・紫外線強度・二酸化炭素濃度・大気汚染などの保存環境調査を実施し、将来のTJO4地下墓の良好な保存環境確保の研究も進めた。以上のような経過を経て、奈良大学・レバノン考古総局の両者ともに調査研究の継続を望んだことと期を一にして、2004年には学校法人奈良大学創設80周年を迎えることになり、市川良哉理事長の提案によって、本研究を奈良大学創設80周年記念事業として実施することになった。
著者
東野 治之
出版者
奈良大学文学部文化財学科
雑誌
文化財学報 (ISSN:09191518)
巻号頁・発行日
vol.19, pp.23-41, 2001-03
被引用文献数
1

本稿は、一九九九年七月二十五日に開かれた市民の古代研究会全国集会における記念講演を文章化したものである。講演内容は、同会の河野宏文氏によってテープ起こしされ、同年十月一日及び十一月一日刊行の『市民の古代ニュース』(一九六、一九七号) の付録として会員に配布されたが、その性格上、一般に周知されたとはいえなかった。それにもかかわらず、富本銭関係の論文に引用して下さる方もある。そこで右の付録の内容に大幅な筆削を加え、公刊することとした。講演であることを尊重して、文体は「です」「ます」調を踏襲し、史料は読み下しとした。論旨に関わるような改変は加えていない。ただ和同銀銭と「前銀」の関係にふれた箇所は、新たに付加えた。また注も、発言の典拠を示すため新たに付けることとした。なお、飛鳥池遺跡出土の富本銭に関する情報は、その後刊行された『奈良国立文化財研究所年報1999Ⅱ』『同上2000Ⅱ』にまとめられている。
著者
酒井 龍一
出版者
奈良大学文学部文化財学科
雑誌
文化財学報 (ISSN:09191518)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.23-40, 1998-03

わが奈良大学文化財学科にも、メソポタミアの懊形文字(Rev.A.H.Sayce1907『TheArchaeologyoftheCuneiformInscriptionsAresPubulishersInc.,C.B.F.Walker1987『Cuneiform‐ReadingthePast』BritishMuseum、杉勇1968年『懊形文字入門』中央公論社、その他)に関心をもっ学生諸君を散見(2~3人)する。当学科にとっては望外だが、結構なことである。本稿の目的は、その独習の指針となる文献や作業を提示し、諸君の初歩的な学習を促進させることにある。
著者
井上 薫
出版者
奈良大学文学部文化財学科
雑誌
文化財学報
巻号頁・発行日
vol.1, pp.1-11, 1982-03

慈恩寺の大雁塔(七層、博造、唐代)は鐘楼(三層、木造、清代)とともに西安(古都長安)の看板とされており、西安に旅行すると、旅行社の係はツァーの客を先ず鐘楼と大雁塔に案内する。西安を紹介するパンフレットにも、鐘楼が表紙に、大雁塔が裏表紙に美しいカラーで印刷されている。鐘楼は西安の中心部にあり、ここから東西南北に街路(東大街・西大街・南大街・北大街)が走っており、大雁塔は鍾楼から南南東の方角に建てられていて、西安駅からならば解放路をまっすぐに南進し、平和門を過ぎ、雁塔路を南に約四キロ進んで突きあたるところが慈恩寺である。鐘楼や大雁塔にのぼって西安の市街や郊外をながめると、その景色はすばらしい。鐘楼と大雁塔は西安の史跡・名所であるほか、ここの頂上からほかの史跡や名所を遠望することができる。慈恩寺は唐の第三代の天子高宗(六四九ー六八四、在位)がまだ皇太子であったとき、母の文徳皇后の冥福を祈りその恩にむくいるため、貞観二f二年(六四八、日本の大化四年)に階代の廃寺を復興して建てた寺であり、建立の趣旨によって慈恩寺と名づけられた。
著者
千田 嘉博
出版者
奈良大学文学部文化財学科
雑誌
文化財学報 (ISSN:09191518)
巻号頁・発行日
vol.27集, pp.47-54, 2009-03

本稿は新しい戦国期城郭研究を構築するための戦略と、それを実行するためのいくつかの分析視角の整理を試みた。この結果、城郭研究は考古学的研究方法をさらに取り入れ、これまでの成果を戦略的に分析・分類する必要があることを示した。それは以下のようなプロセスをとる。① 地域に存在した多様な城郭群を把握する。② そのなかの拠点城郭(戦国期にあっては戦国期拠点城郭)を抽出し、中心地形成分析などとともに特色を理解する。③ そうして把握した地域ごとの城郭群のまとまりの特色を類型化して分類する。④ 城郭群のまとまりは時期ごとに変化するので、地域の城郭群のネットワークを静的にではなく動的な変遷過程として把握する。⑤ その城郭ネットワークの変遷過程そのものも類型的に整理してつかむ。⑥ 戦国期社会とその変遷を、地域の城郭ネットワークのあり方と、地域の城郭ネットワークがどのように変化したかの変遷そのものの類型的把握から理解する。戦国期社会を分析する資料として戦国期城郭跡を活用していくためには、上記した城郭跡そのものの分析を深化させる必要があるが、さらにそうした評価を文献史学からの分析成果をも勘案しつつ総合的に評価していくことが求められる。城郭研究は遺構・遺物にもとついた物質資料研究であるから、第1段階のモノ資料研究としての分析を究めた上で、次の段階において文献史学をはじめとする関連諸学の成果との比較検証を行い、より高次な評価に進むという研究プロセスとなる。この第2段階の比較検証段階は関連分野の研究者間の相互分析が可能である。だから考古学研究者や城郭研究者が文献史学の研究を勘案することも、またその逆もできる。本稿では第1段階の城郭構造研究を深める視点のひとつとして戦いと城郭・防御施設を取り上げた。この結果、中世の城郭研究だけでなく考古学からの戦争研究は、これまで信じられてきたほどリアルな状況をつかんだ上で議論していたのではなく、論点や評価の基礎そのものに物質資料研究としての特質を踏まえた再検討が不可欠であることを指摘した。つぎに筆者が、城郭構造研究から提唱した戦国期拠点城郭(千田1994、のち千田2000a)が、文献史学から提唱されている「戦国領主」と具体的にどのように関わるかを検討した。この結果、戦国期拠点城郭は、大名の拠点としてだけではなく、戦国領主の拠点としても共有されており、戦国領主の城郭は大名による戦国期拠点城郭のミニチュア的存在であったと評価できた。大名領の内部には細胞の核のように戦国領主による戦国期拠点城郭が分立し、判物を発給して一定の排他性を備えた領の中心として機能したのである。隣接した領をもった戦国領主が必ずしも友好的関係とは限らず、係争地であった境目には軍事機能を卓越させた城郭が出現した。このように物質資料研究の成果を文献史学の研究成果と勘案することで、地域における多様な城郭の分布の歴史的意味を読み解けるのである。