著者
松崎 欣一
出版者
慶應義塾福澤研究センター
雑誌
近代日本研究 (ISSN:09114181)
巻号頁・発行日
no.20, pp.111-147, 2003

本稿は福沢諭吉の「演説」について、残された草稿、演説記録類を通してそれがどのように準備され、また実際にどのように行われたのかを具体的に追跡してみようとするものである。前稿では、三田演説会の発足直前に行われた肥田昭作宅における集会の演説についてみたが、ここではさらに、明治十八年九月十日に行われた英吉利法律学校開校式における祝辞と、福沢の生涯最後の演説となった明治三十一年九月二十四日の三田演説会における法律を学ぶことの意義を述べた演説の二つの事例を取り上げることとする。
著者
西澤 直子
出版者
慶應義塾福澤研究センター
雑誌
近代日本研究 (ISSN:09114181)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.65-140, 1999

はじめに一、市学校の設立二、中津市学校の発展三、中津市学校の効果 : 『旧藩情』における評価四、市学校の転換五、市校事務委員集会録事六、市学校閉校処分七、閉校後の市学校おわりに : 中津市学校設立の意図と今後の課題
著者
福井 淳
出版者
慶應義塾福澤研究センター
雑誌
近代日本研究 (ISSN:09114181)
巻号頁・発行日
no.22, pp.103-131, 2005

特集・交詢社創立百二十五年交詢社は「互二知識ヲ交換シ世務ヲ諮詢スル」ことを目的として、一八八○ (明治一三)年一月二五日に結成された日本初の社交クラブである。しかし、折しも自由民権運動の高揚期であり、結成直後に『朝野新聞』が「府下にて政談を為す嚶鳴社交詢社…」(二月七日付雑報)と報じたように、当初から自由民権運動の一翼を担うとの世評があった。実際、三田演説会などを生んだ福沢諭吉が最高位の役員たる常議員議長に就いて陣頭指揮し、常議員にも藤田茂吉・矢野文雄・箕浦勝人ら民権家として鐸々たる門下生たちが並ぶ姿は、福沢的民権諭を実践する運動体とみなされてもいたしかたがない側面があった。福沢は、結成間もない二月九日の芝青松寺の小会で、政談が盛んなこの時期ゆえ交詢社を「政談会社ト思フモノモアラン」とか、= 種ノ政党ト誤認スルモ計リ難シ」と危惧する演説を行い(『交詢雑誌』第四号、八○年三月五日付、「小会記事」)、その後八二年四月二二日の明治会堂での第三回交詢大会でも「政党ハ政党ナリ交詢社ハ交詢社ナリ」とその違いを強調する演説を行って、世評を強く否定している(『交詢雑誌』第八二号、八二年五月五日付、「福沢諭吉君演説ノ記」)。ただし、そうはいっても、福沢も「筍モ社員タル人物ニシテ政治ノ思想ナキモノアランヤ」として、社外での「時ト処ト法トヲ誤ルナキ」関与は当然のこととして奨励した(『交詢雑誌』第三七号、八一年二月五日付、紀年会「演説」)。事実、交詢社副規則は、毎年の大会、年四回の小会において「政事二関スル問題ヲ議決スルコトヲ得ズ」と公的な会合での政談を禁じる(第二章第一九款) 一方で、交詢社社則は、「重要ノ時事二付疑問アル社員」による「演説討論」の催しを常議員長の許可によって認める(第五条第八節)こと、すなわち政治的な「演説討論ノ私会」(第五条第九節)の開催を許したのである。さらに「知識ヲ交換シ世務ヲ諮詢スル」回路として機関誌『交詢雑誌』を発刊し、「各社員本誌発出ノ旨趣ヲ了シ文学、法律、政治、経済、商買、工芸、農業、其他何事二限ラス其聞見スル所其講明スル所ヲ記シテ本局二送」るよう、政治も含めての情報や質問を全国の社員たちに促し(『交詢雑誌』第一号、八○ 年二月五日付、「緒言」)、また同誌に政論を掲げた。このように、交詢社はもちろん公然たる政治結社ではなかったが、社公認の私的会合で政談を許し、全国の政治的情報等は求め、発信する、いわば政治を内包する社交クラブ、というべきものであった。この複雑な構造が、結成当時から交詢社と自由民権運動の関係を分かりにくくさせてきた原因であったといえよう。さて、交詢社と民権運動の関係について言及した研究は「私擬憲法案」を扱ったものを中心に決して少なくないが、まとまった研究としては、発展する愛国社路線に「悼さすため」に創立され、その方向で全国的組織活動を進めたとする後藤靖氏の研究や民権期「交詢社員名簿」の作成があるにすぎない。また、交詢社編集・発行の『交詢社百年史』(一九八三年) は数少ない史料を駆使した労作ではあるが、通史である限界から民権運動に関する掘り下げは十分ではない。このように、交詢社と自由民権運動の関係についての研究はきわめて乏しいといわざるをえない。そこで本稿は、交詢社と民権運動の関係についての多くの明らかにすべき課題から、今後の研究の基礎となる問題をいくつか選択し、それらを努めて実証的に検討することを目的とする。史料としては『交詢雑誌』を中心に、時期と地域は結成された一八八○ 年から八二年にかけての草創期の東京での活動に絞り、当該テーマに迫ろうというものである。
著者
吉家 定夫
出版者
慶應義塾福澤研究センター
雑誌
近代日本研究 (ISSN:09114181)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.69-137, 2000

序 教育藩豊岡一、豊岡藩遊学生二、草創期の慶應義塾三、その後の豊岡藩士結語 : 郷里と国家、民と官
著者
吉川 卓治
出版者
慶應義塾福澤研究センター
雑誌
近代日本研究 (ISSN:09114181)
巻号頁・発行日
no.23, pp.55-82, 2006

特集・大学史研究と大学アーカイブズはじめに一 官立大学・公立大学・私立大学の置かれた地域二 官立大学・私立大学の置かれた地域三 官立大学・公立大学の置かれた地域四 官立大学(帝国大学)の置かれた地域五 官立単科大学の置かれた地域六 私立大学の置かれた地域おわりに
著者
舩木 恵子
出版者
慶應義塾福澤研究センター
雑誌
近代日本研究 (ISSN:09114181)
巻号頁・発行日
no.21, pp.1-31, 2004

特集・小幡篤次郎没後百年小幡篤次郎によるJ ・S ・ミルの『宗教三論』の翻訳が、丸屋善七商店から明治十年(一八七七年) に出版されてから百年以上の年月が経った。その間日本におけるJ ・S ・ミル研究は活発で、ミルの多くの著作が翻訳され欧米との学問的交流も頻繁におこなわれてきた。特にトロント大学出版からミルの書簡や草稿を含む『ミル著作集』全三十三巻が刊行されてからは格段の進歩をとげている。しかし不思議なことにミルの遺稿『宗教三論』の翻訳は現在に至っても小幡篤次郎の翻訳以外に存在しない。遺稿である『宗教三論』はミル自身が編集、出版したわけではなく、ミルの死後に宗教関係の著作として三つの論文がまとめられて出版されたものである。第一論文「自然論」は、ミルと妻ハリエットの書簡によれば、ミルが三年三ヶ月の構想の末一八五四年二月五日に完成させた重要な著作であり、その次に書かれた第二諭文「宗教の有用性」もミルが残したプランに含まれる著作であるという。この二つの論文が書かれた一八五〇年代というのは、ミルはハリエットと共に肺病に冒されて死を覚悟した時期として有名である。書簡によればこのプランは、ミルが「自然論」を完成させた後に最悪の健康状態の中で、自分の生存中に是非書いておきたい十二のテーマを妻ハリエットへ送付したものであるという。前述のように、その中には小幡篤次郎が「教用論」として翻訳した『宗教三論』第二論文「宗教の有用性」(一八五四年) (Utility of Religion)も含まれている。以後このプランに沿って『自由論』(一八五九年)、『功利主義論』(一八六三年)、遺稿「社会主義に関する諸章」(一八七九年)などが現実のものとなっている。プランは左記のようなものである。① Defense of Character 性格の相異について (国、人権、年齢、性別、気性など) ② Love 愛③ Education of taste 慎みの教育④ Religion of l'avenir 将来の宗教⑤ Plato プラトン⑥ Slander 中傷⑦ Foundation of Moral 道徳の基礎⑧ Utility of Religion 宗教の有用性⑨ Socialism 社会主義⑩ Liberty 自由⑪ Doctrine that causation is Will 原因としての意思学説⑫ Family and Conventional 家族と習慣小幡篤次郎が翻訳した『宗教三論』第二論文はプランの八番目に論文タイトルそのままで存在している。また内容的には④ の「将来の宗教」も含まれている。但しこのプランに入っていない第一論文「自然論」はこのプランの直前、一八五四年に書き終え、引き続き第二論文に着手したことが、ロブソンによるミルとハリエットの書簡分析によって明らかになっている。この事実から小幡篤次郎の『宗教三論』の翻訳は、一八五〇年代のミルのプランに基づいた論文を日本に導入したものとして、『自由論』や『功利主義論』などの導入と同様にミル研究において価値あるものといえるだろう。本稿ではJ ・S ・ミル『宗教三論』のミル研究における特殊性を述べた後、小幡篤次郎の明治十年と十一年の『宗教三論』の翻訳を分析する。さらに第一、第二論文だけがなぜ出版され、なぜ第三論文は翻訳されているにも関わらず、出版されなかったのかという出版の経緯も推察する。それについては、小幡篤次郎の明治元年の著作『天変地異』を参照しながら、『宗教三論』第一論文「自然論」との関係を論じることにする。