著者
友澤 悠季
出版者
環境社会学会 ; 1995-
雑誌
環境社会学研究
巻号頁・発行日
vol.18, pp.27-44, 2012

本稿は,特集「環境社会学にとって『被害』とは何か」という問いかけに対して,日本における公害・環境問題研究の草分けの1人である飯島伸子(1938~2001)の学問形成史をたどることで応えようと試みたものである。飯島が研究を始めたころ,「被害」に着目するという方法論は社会学界において決して一般的ではなかった。そこから飯島はどのように「被害」という研究課題を見出し,いかにしてその内実を説明しようとしたのか。本稿はその過程を,(1)大学院社会学研究科と「現代技術史研究会」という2つの場の往還,(2)医学界や厚生行政,そして法廷を意識しながら行われた薬害スモン患者調査,(3)「環境社会学」の制度化以降の1990年代の理論展開という3局面に区分して述べた。これまで,「環境社会学」の初期の理論的成果とされる飯島の「被害構造論」の適用範囲は,すでに起きてしまった公害・環境問題の「被害」の解明に限定されがちであった。だが飯島の「被害」における不可視の部分の描写,とりわけ生活を支える家族の関係における苦痛の描写からは,「加害」と「被害」の交錯が見て取れる。その視座には,身体被害が顕在化しておらず,また地域的限定ももたない未発の公害・環境問題をとらえうる普遍性が見出せるのではないか。
著者
三浦 耕吉郎
出版者
環境社会学会 ; 1995-
雑誌
環境社会学研究
巻号頁・発行日
vol.20, pp.54-76, 2014

日本の原子力政策の渦中で産声をあげ,東京電力福島第一原子力発電所の過酷事故以降も,その多義性と曖昧性を武器に「原発の安全神話」や「放射線安全論」を人びとの心のなかに浸透させていく役割を担ってきた「風評被害」という言葉。本稿では,「風評被害」という名づけの行為に着目しつつ,現代日本社会におけるこの語にまつわる複数の異なる用法を批判的に分析し,その政治的社会的効果を明らかにする。第1には,「風評被害」という用語が,(1)生産者側の被害のみに焦点をあて,消費者側の被害や理性的なリスク回避行動をみえなくさせている点,及び(2)安全基準をめぐるポリティクスの存在やそのプロセスをみえなくさせている点である。第2には,「放射能より風評被害の方が怖い」という表現に象徴される,健康被害よりも経済的被害を重視する転倒が原子力損害賠償紛争審査会の方針にも見出され,本来の「(原発事故による)直接的な被害」が「風評被害」と名づけられることによって,放射線被曝による健康被害の過小評価や,事故による加害責任の他者への転嫁がなされている点。第3には,「汚染や被害の強調は福島県への差別を助長する」という風評被害による差別への批判が,反対に,甲状腺がんの多発という事実を隠蔽することによって甲状腺がんの患者への差別を引き起こしている,という構造的差別の存在を指摘する。
著者
定松 淳
出版者
環境社会学会 ; 1995-
雑誌
環境社会学研究
巻号頁・発行日
vol.20, pp.180-195, 2014

本稿は,高レベル放射性廃棄物の処分をめぐって2012年に日本学術会議が原子力委員会に対して行った提言と,それに対する原子力委員会の返答の分析を行った。本稿では,これらを環境社会学における「公共圏の豊富化」の実践の試みとして捉え,両者の不一致の理由を探ることで,「公共圏の豊富化」概念の弱点を明らかにすることを試みた。日本学術会議の提案は,できるだけ中立的かつ包括的な,結論が開かれた討議を志向するものであった。しかしカナダの先行事例と比較すると,すでに地層処分を実施するための枠組みをもっている原子力委員会が,結論がオープンな討議に参加することのメリットが少ないことが明らかになった。中立性という普遍的な合理性の志向が,推進側の条件適応的な合理性を説得できていない状況であるということができる。このことは,「公共圏/公論形成の場の豊富化」という概念が,民主主義的な理念としての魅力を強く備えたものであるがゆえにかえって,「すでに利害をもった主体を,開かれた討議にいかにして引き込むか」という点の検討,ひいては「討議を,実効性ある政治的決定にいかにつなげるか」という点の検討の手薄さにつながっていることを示唆する。環境社会学者は,この「公共圏概念による政治過程の忘却効果」に留意しながら,研究と実践を進めることが求められる。