著者
藤川 賢
出版者
環境社会学会
雑誌
環境社会学研究
巻号頁・発行日
vol.11, pp.103-116, 2005

<p>被害が被害として認識されにくいことは多くの公害問題に共通して見られるが,イタイイタイ病および慢性カドミウム中毒においてはとくに特徴的である。中でも,大幅な発見の遅れにより多くの激甚な被害者が見過ごされたこと,富山以外でも要観察地域や土壌汚染対策地域が指定されながら同様の健康被害が公害病と認められなかったことは,重要と考えられる。本稿は,被害地域などでの聴き取り調査にもとづいて,こうした被害放置の経緯と背景を明らかにしようとするものである。発見の遅れについては,公害の社会問題化以前で危険性が重視されなかったこと,川への信頼などの他に,個々の症例においても地域全体としてもイ病が長い年月をかけて深刻化したために,激しい症状さえもあたかも自然なことのように受け止められていたことが指摘できる。また,農業被害は明治時代から明らかで補償請求運動も続いていたにもかかわらず,それが直接には健康被害への着目や運動につながらなかったことが指摘される。</p><p>イ病訴訟後も,土壌汚染対策費用などの政治経済的理由を背景に,イ病とカドミウムの因果関係を疑い,神通川流域以外でのカドミウムによる公害病を否定する動きがある。これは医学論争であると同時に,力の弱い少数者の被害が行政面でも医療面でも軽視されるという,未発見時代と類似した社会的特徴を持ち,現代にも問題を残していると考えられる。</p>
著者
渡辺 伸一
出版者
環境社会学会
雑誌
環境社会学研究
巻号頁・発行日
vol.4, pp.204-218, 1998
被引用文献数
1

<p>本稿の課題は、新潟水俣病を中心事例として、当該地域社会における被害者への差別と抑圧の論理を解明することである。水俣病患者に対する差別には異なった2つの種類がある。ひとつは、「水俣病である」と周囲から認知されることによって引き起こされるいわば「水俣病差別」とでも呼ぶべきものであり、もうひとつは、その反対に「水俣病ではない」と認知される、つまり「ニセ患者」だとラベリングされることによって生じる差別である。新潟水俣病の第一次訴訟判決(1971年9月)および加害企業との補償協定締結の時期(1973年6月)の以前においては、地域の社会構造や生活様式、社会規範に密接に関わる形で生み出されてきた「水俣病差別」の方だけが問題化していた。しかし、その後、水俣病認定基準の厳格化によって大量の未認定患者が発生する頃から、別の否定的反応が加わるようになった。これが、「ニセ患者」差別という問題である。これは、地域社会における「水俣病差別」と「過度に厳格な認定制度(基準)」が、相互に深く絡み合う中で生み出されてきた新たなる差別と抑圧の形態であった。</p><p>本稿ではさらに、差別と抑圧の全体像を把握すべく、新潟水俣病における差別と抑圧の問題は、以下の7つの要因が関与して生み出された複合的なものであること、しかし、その複合化、重層化の度合いは、阿賀野川の流域区分毎に異なっていることを明らかにした。</p><p>1.加害企業による地域支配、2.革新系の組織・運動に対する反発、3.漁村ぐるみの水俣病かくし、4.伝統的な階層差別意識の活性化、5.水俣病という病に対する社会的排斥、6.認定制度による認定棄却者の大量発生、7."水俣病患者らしさ"の欠如への反発。</p>
著者
藤川,賢
出版者
環境社会学会
雑誌
環境社会学研究
巻号頁・発行日
no.11, 2005-10-25

被害が被害として認識されにくいことは多くの公害問題に共通して見られるが,イタイイタイ病および慢性カドミウム中毒においてはとくに特徴的である。中でも,大幅な発見の遅れにより多くの激甚な被害者が見過ごされたこと,富山以外でも要観察地域や土壌汚染対策地域が指定されながら同様の健康被害が公害病と認められなかったことは,重要と考えられる。本稿は,被害地域などでの聴き取り調査にもとついて,こうした被害放置の経緯と背景を明らかにしようとするものである。発見の遅れについては,公害の社会問題化以前で危険性が重視されなかったこと,川への信頼などの他に,個々の症例においても地域全体としてもイ病が長い年月をかけて深刻化したために,激しい症状さえもあたかも自然なことのように受け止められていたことが指摘できる。また,農業被害は明治時代から明らかで補償請求運動も続いていたにもかかわらず,それが直接には健康被害への着目や運動につながらなかったことが指摘される。イ病訴訟後も,土壌汚染対策費用などの政治経済的理由を背景に,イ病とカドミウムの因果関係を疑い,神通川流域以外でのカドミウムによる公害病を否定する動きがある。これは医学論争であると同時に,力の弱い少数者の被害が行政面でも医療面でも軽視されるという,未発見時代と類似した社会的特徴を持ち,現代にも問題を残していると考えられる。
著者
藤川 賢
出版者
環境社会学会
雑誌
環境社会学研究
巻号頁・発行日
no.18, pp.45-59, 2012-11-20

本稿では,公害に関する被害構造論の知見をいかして,福島第一原子力発電所の事故をめぐる今後の被害拡大とその予防の可能性を考察する。被害構造論では,加害構造ともむすびついた被害の潜在化を指摘しているが,福島原発事故においても,健康被害と派生的被害の両方で潜在化の恐れがある。それについて,被害構造に関する先行研究と,福島県内でのヒアリング結果を照らしながら,被害と加害の関係を論じている。そのなかで,とくに社会的な視点から重要なのは,福島原発事故をめぐる避難がさまざまな関係性を分断していると同時に,それが自分自身の選択の結果として受け止められる傾向である。それによって,苦渋の選択を迫られてジレンマにおちいる人もいれば,物理的な分断に関連して地域の信頼関係が崩れる場合もある。こうした点は,原子力施設の立地や存廃問題が,地域内での対立をもたらしながら,立地地域が施設の存続を希望するかのような状況をつくりだしてきたことと深くかかわっている。原発事故の被害地域や原発立地地域の人たちは,ベックが個人化論に関して指摘したのと似た不本意な選択を強いられている。今後,被害者の孤立や問題の風化を防ぐためには,選択の強要を受けること自体が被害であることを社会全体が認識して,加害側の構造を見直し,それを是正するための社会的責任を明確にする必要がある。
著者
渡辺 伸一
出版者
環境社会学会
雑誌
環境社会学研究 (ISSN:24340618)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.204-218, 1998-10-05 (Released:2019-03-22)

本稿の課題は、新潟水俣病を中心事例として、当該地域社会における被害者への差別と抑圧の論理を解明することである。水俣病患者に対する差別には異なった2つの種類がある。ひとつは、「水俣病である」と周囲から認知されることによって引き起こされるいわば「水俣病差別」とでも呼ぶべきものであり、もうひとつは、その反対に「水俣病ではない」と認知される、つまり「ニセ患者」だとラベリングされることによって生じる差別である。新潟水俣病の第一次訴訟判決(1971年9月)および加害企業との補償協定締結の時期(1973年6月)の以前においては、地域の社会構造や生活様式、社会規範に密接に関わる形で生み出されてきた「水俣病差別」の方だけが問題化していた。しかし、その後、水俣病認定基準の厳格化によって大量の未認定患者が発生する頃から、別の否定的反応が加わるようになった。これが、「ニセ患者」差別という問題である。これは、地域社会における「水俣病差別」と「過度に厳格な認定制度(基準)」が、相互に深く絡み合う中で生み出されてきた新たなる差別と抑圧の形態であった。本稿ではさらに、差別と抑圧の全体像を把握すべく、新潟水俣病における差別と抑圧の問題は、以下の7つの要因が関与して生み出された複合的なものであること、しかし、その複合化、重層化の度合いは、阿賀野川の流域区分毎に異なっていることを明らかにした。1.加害企業による地域支配、2.革新系の組織・運動に対する反発、3.漁村ぐるみの水俣病かくし、4.伝統的な階層差別意識の活性化、5.水俣病という病に対する社会的排斥、6.認定制度による認定棄却者の大量発生、7.“水俣病患者らしさ”の欠如への反発。
著者
三浦,耕吉郎
出版者
環境社会学会
雑誌
環境社会学研究
巻号頁・発行日
no.20, 2014-12-10

日本の原子力政策の渦中で産声をあげ,東京電力福島第一原子力発電所の過酷事故以降も,その多義性と曖昧性を武器に「原発の安全神話」や「放射線安全論」を人びとの心のなかに浸透させていく役割を担ってきた「風評被害」という言葉。本稿では,「風評被害」という名づけの行為に着目しつつ,現代日本社会におけるこの語にまつわる複数の異なる用法を批判的に分析し,その政治的社会的効果を明らかにする。第1には,「風評被害」という用語が,(1)生産者側の被害のみに焦点をあて,消費者側の被害や理性的なリスク回避行動をみえなくさせている点,及び(2)安全基準をめぐるポリティクスの存在やそのプロセスをみえなくさせている点である。第2には,「放射能より風評被害の方が怖い」という表現に象徴される,健康被害よりも経済的被害を重視する転倒が原子力損害賠償紛争審査会の方針にも見出され,本来の「(原発事故による)直接的な被害」が「風評被害」と名づけられることによって,放射線被曝による健康被害の過小評価や,事故による加害責任の他者への転嫁がなされている点。第3には,「汚染や被害の強調は福島県への差別を助長する」という風評被害による差別への批判が,反対に,甲状腺がんの多発という事実を隠蔽することによって甲状腺がんの患者への差別を引き起こしている,という構造的差別の存在を指摘する。
著者
渡辺,伸一
出版者
環境社会学会
雑誌
環境社会学研究
巻号頁・発行日
no.4, 1998-10-05

本稿の課題は、新潟水俣病を中心事例として、当該地域社会における被害者への差別と抑圧の論理を解明することである。水俣病患者に対する差別には異なった2つの種類がある。ひとつは、「水俣病である」と周囲から認知されることによって引き起こされるいわば「水俣病差別」とでも呼ぶべきものであり、もうひとつは、その反対に「水俣病ではない」と認知される、つまり「ニセ患者」だとラベリングされることによって生じる差別である。新潟水俣病の第一次訴訟判決(1971年9月)および加害企業との補償協定締結の時期(1973年6月)の以前においては、地域の社会構造や生活様式、社会規範に密接に関わる形で生み出されてきた「水俣病差別」の方だけが問題化していた。しかし、その後、水俣病認定基準の厳格化によって大量の未認定患者が発生する頃から、別の否定的反応が加わるようになった。これが、「ニセ患者」差別という問題である。これは、地域社会における「水俣病差別」と「過度に厳格な認定制度(基準)」が、相互に深く絡み合う中で生み出されてきた新たなる差別と抑圧の形態であった。本稿ではさらに、差別と抑圧の全体像を把握すべく、新潟水俣病における差別と抑圧の問題は、以下の7つの要因が関与して生み出された複合的なものであること、しかし、その複合化、重層化の度合いは、阿賀野川の流域区分毎に異なっていることを明らかにした。1.加害企業による地域支配、2.革新系の組織・運動に対する反発、3.漁村ぐるみの水俣病かくし、4.伝統的な階層差別意識の活性化、5.水俣病という病に対する社会的排斥、6.認定制度による認定棄却者の大量発生、7."水俣病患者らしさ"の欠如への反発。
著者
三浦 耕吉郎
出版者
環境社会学会
雑誌
環境社会学研究 (ISSN:24340618)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.54-76, 2014-12-10 (Released:2018-10-30)

日本の原子力政策の渦中で産声をあげ,東京電力福島第一原子力発電所の過酷事故以降も,その多義性と曖昧性を武器に「原発の安全神話」や「放射線安全論」を人びとの心のなかに浸透させていく役割を担ってきた「風評被害」という言葉。本稿では,「風評被害」という名づけの行為に着目しつつ,現代日本社会におけるこの語にまつわる複数の異なる用法を批判的に分析し,その政治的社会的効果を明らかにする。第1には,「風評被害」という用語が,①生産者側の被害のみに焦点をあて,消費者側の被害や理性的なリスク回避行動をみえなくさせている点,及び②安全基準をめぐるポリティクスの存在やそのプロセスをみえなくさせている点である。第2には,「放射能より風評被害の方が怖い」という表現に象徴される,健康被害よりも経済的被害を重視する転倒が原子力損害賠償紛争審査会の方針にも見出され,本来の「(原発事故による)直接的な被害」が「風評被害」と名づけられることによって,放射線被曝による健康被害の過小評価や,事故による加害責任の他者への転嫁がなされている点。第3には,「汚染や被害の強調は福島県への差別を助長する」という風評被害による差別への批判が,反対に,甲状腺がんの多発という事実を隠蔽することによって甲状腺がんの患者への差別を引き起こしている,という構造的差別の存在を指摘する。
著者
畑 明郎
出版者
環境社会学会
雑誌
環境社会学研究
巻号頁・発行日
vol.6, pp.39-54, 2000

<p>イタイイタイ病は日本の公害病認定第一号であり,イタイイタイ病裁判は四大公害裁判の先頭を切って被害住民原告が勝訴した裁判である。その意味では現代日本の公害問題の原点であり,近代日本の鉱害の原点とされる足尾鉱毒事件に匹敵する公害事件と言える。</p><p>本稿は,江戸時代以降の300年以上に及ぶ鉱公害の歴史,イタイイタイ病の原因物質であるカドミウムを排出した三井金属・神岡鉱山の約120年に及ぶ歴史,イタイイタイ病発見後の約40年に及ぶ被害者運動の歴史,イタイイタイ病裁判後の約30年に及ぶ公害防止対策などを,加害と被害の社会過程に焦点を当てて歴史的に概括して,20世紀日本の典型公害の一つであるイタイイタイ病問題の教訓を明らかにする。</p><p>また,イタイイタイ病の公害病認定30周年を記念して,「イタイイタイ病とカドミウム環境汚染対策に関する国際シンポジウム」が1998年に富山市で開催され,カドミウム汚染の世界的な広がりを明らかにしたが,食糧庁による1997〜98年産米の全国調査では,秋田県,新潟県,宮城県などで1ppm以上のカドミウム汚染米が多数発見され,イタイイタイ病は過去の公害病ではなく,カドミウム汚染問題が未解決であることを示す。</p>
著者
友澤 悠季
出版者
環境社会学会 ; 1995-
雑誌
環境社会学研究
巻号頁・発行日
vol.18, pp.27-44, 2012

本稿は,特集「環境社会学にとって『被害』とは何か」という問いかけに対して,日本における公害・環境問題研究の草分けの1人である飯島伸子(1938~2001)の学問形成史をたどることで応えようと試みたものである。飯島が研究を始めたころ,「被害」に着目するという方法論は社会学界において決して一般的ではなかった。そこから飯島はどのように「被害」という研究課題を見出し,いかにしてその内実を説明しようとしたのか。本稿はその過程を,(1)大学院社会学研究科と「現代技術史研究会」という2つの場の往還,(2)医学界や厚生行政,そして法廷を意識しながら行われた薬害スモン患者調査,(3)「環境社会学」の制度化以降の1990年代の理論展開という3局面に区分して述べた。これまで,「環境社会学」の初期の理論的成果とされる飯島の「被害構造論」の適用範囲は,すでに起きてしまった公害・環境問題の「被害」の解明に限定されがちであった。だが飯島の「被害」における不可視の部分の描写,とりわけ生活を支える家族の関係における苦痛の描写からは,「加害」と「被害」の交錯が見て取れる。その視座には,身体被害が顕在化しておらず,また地域的限定ももたない未発の公害・環境問題をとらえうる普遍性が見出せるのではないか。
著者
藤川 賢
出版者
環境社会学会
雑誌
環境社会学研究 (ISSN:24340618)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.103-116, 2005-10-25 (Released:2019-01-22)

被害が被害として認識されにくいことは多くの公害問題に共通して見られるが,イタイイタイ病および慢性カドミウム中毒においてはとくに特徴的である。中でも,大幅な発見の遅れにより多くの激甚な被害者が見過ごされたこと,富山以外でも要観察地域や土壌汚染対策地域が指定されながら同様の健康被害が公害病と認められなかったことは,重要と考えられる。本稿は,被害地域などでの聴き取り調査にもとづいて,こうした被害放置の経緯と背景を明らかにしようとするものである。発見の遅れについては,公害の社会問題化以前で危険性が重視されなかったこと,川への信頼などの他に,個々の症例においても地域全体としてもイ病が長い年月をかけて深刻化したために,激しい症状さえもあたかも自然なことのように受け止められていたことが指摘できる。また,農業被害は明治時代から明らかで補償請求運動も続いていたにもかかわらず,それが直接には健康被害への着目や運動につながらなかったことが指摘される。イ病訴訟後も,土壌汚染対策費用などの政治経済的理由を背景に,イ病とカドミウムの因果関係を疑い,神通川流域以外でのカドミウムによる公害病を否定する動きがある。これは医学論争であると同時に,力の弱い少数者の被害が行政面でも医療面でも軽視されるという,未発見時代と類似した社会的特徴を持ち,現代にも問題を残していると考えられる。
著者
宮本 結佳
出版者
環境社会学会
雑誌
環境社会学研究
巻号頁・発行日
no.21, pp.41-55, 2015-12-25

近年,多様な建造物群や自然景観,歴史的景観を保存し,広く公開しようとする動きが活発化しており,その中でもとくに戦争,災害,公害,差別といった否定的記憶を伝承する負の歴史的遺産への関心が高まっている。歴史的遺産の中には多様な要素が含みこまれており,その中のどこに光をあてるのかを争点とする議論が活発化している。本稿では,差別をめぐる負の歴史的遺産であるハンセン病療養所を事例として取り上げ,この点について検討を行う。ハンセン病療養所をめぐる先行研究においてはこれまで「被害の語りが圧倒的に優位な立場を確立することで,そこに回収しきれない多様な語りが捨象されてしまう」点が問題として指摘されてきた。ハンセン病療養所の保存・公開においては「被害の語りが優位になる陰で捨象されがちな主体的営為をいかに伝えていくのか」が問われているのである。本稿では香川県高松市大島のハンセン病療養所における食をテーマとするアートプロジェクトを媒介とした保存・公開活動を事例として,この問いを検討した。活動の軸の1つである,大島を味わうことをテーマとしたカフェシヨルにおける取り組みの分析を通じ,そこでは楽しみを伴う主体的営為としての食をめぐる複数の生活実践が巧みに表象されており,従来捨象されがちであった入所者の多様な経験が継承されていることが明らかになった。人々によって紡ぎだされる物語が多様であることを鑑みれば,アートプロジェクトを含めたさまざまな手段を媒介として主体的営為を表出する取り組みを活発化させることが可能であると考えられる。
著者
青木 聡子
出版者
環境社会学会
雑誌
環境社会学研究
巻号頁・発行日
no.11, pp.174-187, 2005-10-25

ヴァッカースドルフ反対運動は,使用済み核燃料再処理施設建設計画を中止に追い込み,連邦政府に国内での再処理を断念させ,ドイツの脱原子力政策を導く契機となった代表的な原子力施設反対運動である。この運動の展開過程を現地調査に基づき内在的に把握してみると,当初は外部に対して閉鎖的だったローカル市民イニシアティヴと地元住民が,敷地占拠とその強制撤去を契機に,オートノミー(暴力的な若者)との乖離を克服し対外的な開放性を獲得し発展させていった点が注目される。国家権力との対峙を実感し,「理性的に社会にアピールする私たち」という集合的アイデンティティを否定され「国家権力から正当性を剥奪された私たち」という集合的アイデンティティを受け入れざるをえなくなった地元住民は,「自らの正当性をめぐる闘争」という新しい運動フレームを形成することで,国家権力による正当性の揺さぶりを克服しようとした。このような集合的アイデンティティと運動フレームの変容こそ,ローカル抗議運動に開放性を付与し,地域を越えた運動間のネットワーク形成を可能にした条件であった。日本の住民運動との対比のなかで,ドイツの原子力施設反対運動の特徴とされてきた「対外的な開放性」は,ドイツの市民イニシアティヴの本来的な性格ではなく,運動の展開過程で市民イニシアティヴや地元住民によって意識的に選択され獲得されたものである。
著者
谷川 彩月
出版者
環境社会学会
雑誌
環境社会学研究 (ISSN:24340618)
巻号頁・発行日
vol.23, pp.114-129, 2017-12-20 (Released:2020-11-17)
参考文献数
19

本稿の目的は,長期的な里地里山保全に向け,農地全体での資材投入量を削減する手法のひとつとして慣行農家による減農薬栽培の導入プロセスに着目し,彼らがどのようにして減農薬栽培へ取り組むに至ったのかを明らかにすることである。持続可能性に関わる問題では,長期的・累積的な行為の集積結果として問題が発生しうるため,長期的に里地里山を保全していくには,農地全体で投入資材を削減していくことが必要である。そのため,現状で圧倒的多数をしめる慣行農家に投入資材の削減を促すようなしかけが必要となってくる。本稿では,変革志向性が弱い農家を取り込んで減農薬栽培が普及している宮城県登米市を事例として,それを成立させたしくみと農家による取り組みへの意味づけを明らかにした。くわえて,減農薬栽培の学習プロセスによって,当該地域では慣行農法や転作作物を含めた田畑全体での減農薬化が進んでいること,多くの農家の参加を許容できる環境保全米のあり方が,多様な動機の集積による「結果としての環境保全」と呼べる状況を作り出していることを確認した。明確なイシュー志向を持たない層の行動変容を促すには,行動変容を促すような技術・思想あるいは施策と,彼らの生活世界との接合点を見いだすことが重要であるということが明らかとなった。
著者
足立 重和
出版者
環境社会学会
雑誌
環境社会学研究
巻号頁・発行日
no.10, pp.42-58, 2004-11-30
被引用文献数
1

現在,全国各地において,民俗芸能といった伝統文化を観光資源化しようとする動きは,地域づくりの主流になった感がある。しかし,観光化された伝統文化は,観光客の期待にこたえた文化形態であるため,地元住民からすれば違和感をともなうものになってしまう。筆者が調査してきた,岐阜県郡上市八幡町の「郡上おどり」もそのような状況にあり,地元住民は自分たちの盆踊りを踊らなくなってしまった。だが現在,一部の地元住民たちは,観光化とは異なった方向で「郡上おどり」を受け継ごうとしていた。本稿は,「郡上おどり」の事例研究を通じて,観光化とは異なった伝統文化の継承とはいったいどのようなものであるのか,を明らかにするものである。一部の地元住民による,観光化とは異なる伝統文化の継承とは,次のようなものである。まず,住民たちは,観光化以前の"たのしみある"盆踊りの情景をなつかしむというありふれた日常的実践をくりかえす。このような主体を,本稿では「ノスタルジック・セルフ」と呼ぶ。この「ノスタルジック・セルフ」が,歓談のなかで"たのしみある昔の姿"を追求し,その"たのしみ"に向かって現にある盆踊りに様々な工夫を凝らしていくことこそ,本稿でいう伝統文化の継承にほかならない。このノスタルジックな主体性に裏づけられた伝統文化の継承は,現在の観光化と文化財保存の文脈のなかで画一化する伝統文化の乗り越えにつながっていくのである。
著者
大門 信也
出版者
環境社会学会
雑誌
環境社会学研究
巻号頁・発行日
vol.14, pp.155-169, 2008

<p>本稿の目的は責任実践の観点から,近隣騒音の被害を訴えることの意味について考察し,この問題への適切な制度的対処のあり方を探ることにある。この目的のために「騒音被害者の会」に関する文献資料および聞き取り調査のデータを分析したところ,1970年以降,この会が個々の会員の解決へ取り組みを支援してきたことがわかった。とりわけ騒音被害者の会は,会員たちが粘り強く相手に責任を問い,応答を求め続けることを促してきた。こうした活動は,〈問責-答責関係〉を構築する努力として理解できる。このような実践において「責任」は,何か負担すべき実体や誰かへの配慮としてのみならず,責任を問いそれに答える人々の関係および過程としての特徴を色濃く有していると理解できる。このような考察にもとづき筆者は,近隣騒音問題に対処するためには,〈問責-答責関係〉を維持するという観点のもとに行政制度を再吟味する必要があると提言する。また〈問責-答責関係〉の視座が,環境社会学にとって重要な規範理論的枠組みであることを指摘する。</p>
著者
北村 也寸志
出版者
環境社会学会
雑誌
環境社会学研究 (ISSN:24340618)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.166-180, 2002-10-31 (Released:2019-02-05)

日本の森林・林業は重い課題を背負っている。市場に出した木材は原価割れを起こし,管理放棄された人工林も目立ってきた。都市近郊の里山は,農業者などと森林との関係が希薄になり,「里山の自然」の維持を求める市民らによる保全運動が広がりつつある。このような中で,かつお節の生産地である枕崎市と山川町が位置する鹿児島県南薩地区の広葉樹林では,今なお採取林業である薪の生産が続いている。かつお節は,その製造工程のなかの「焙乾」において,燃料として広葉樹林から切り出された薪が使われる。景気に左右されることの少ない,安定したかつお節の生産には,この薪の安定供給が欠かせない。南薩地区の人々はかつお節加工を通して,海洋生物資源のカツオと森林資源である薪を結びつけて持続的に利用してきた。日本の多くの里山が存亡の危機にさらされているなかで,ここではなぜ,その持続が可能であったのだろうか。本稿では,それを明らかにするためにかつお節生産における焙乾の意義を簡潔に整理し,鹿児島県南薩地区における焙乾用薪材の伐採と供給の実態を,薪を切る人々の姿を通して考えてみた。結果として,かつお節製造と里山林利用(薪の伐採)が一体となって営まれている実態を明らかにしえた。また「海」(漁業)と「森」に視点をおくことで,これまで「里」(農業)と「森」との直接のつながりに焦点をおいてきた里山研究では見えにくかった,特産物加工業の介在という利用形態が,燃料革命後も里山の維持に重要な役割を果たしてきたことが明らかになった。
著者
佐藤,仁
出版者
環境社会学会
雑誌
環境社会学研究
巻号頁・発行日
no.13, 2007-10-31

本稿では「持たざる国」としての認識が長く浸透してきた日本で,戦前から戦後にかけての資源論がどのように立ち上がり,展開してきたのかを検討するのと同時に,資源を明示的な考察対象に含めてこなかった環境社会学への問題提起を試みる。日本では,著しい資源の欠乏が政府によって自覚された第一次世界大戦期から終戦直後の時期に資源論がまとまった形で展開された。戦前期における「資源」の概念は,日本が「持たざる国」という自覚を海外侵略の口実として利用されていく過程で,多様な国力の源泉を総括的に動員する圧力から定着した。戦争の終結に伴いアメリカから民主的な資源論の注入を受けた日本は,一転「国民生活」の維持という目的に向けて徹底した合理化と科学技術の応用を資源政策に具現化しようとした。国力強化を求心力とした戦前の資源論とは対照的に,戦後の総合化は生活資源の切迫と災害などの脅威に駆り立てられる形で生じた。欠乏感が最も強かった時代に栄えた資源論の蓄積は,日本が豊かになる過程で勃興した環境論に生かされなかった。資源論そのものも1980年代以降,ほとんど受け継がれていない。環境社会学が,環境問題を人間と自然との相互作用として総合的に捉える学問であるとすれば,自然に対して働きかける方法を学際的に追求した資源論から得られるものは大きいはずである。
著者
西城戸 誠
出版者
環境社会学会
雑誌
環境社会学研究
巻号頁・発行日
no.9, pp.107-123, 2003-10-31

戦後日本の抗議イベントデータを用いて,戦後日本の環境問題に対する抗議活動(抗議型の環境運動)の動態とそれを規定する構造的な要因を計量的に分析した。その結果,環境問題に対する抗議活動は,1970年代半ばに穏健化し,1980年代にオルタナティブな要求をする活動が増加し,1990年代には「停滞」の様相を示したことなどが明らかになった。また,環境問題に対する抗議活動全体が興隆した時期(1964〜73年)と沈静化した時期(1974〜94年)において構造的要因の影響について分析した結果,1964〜73年では地方における政治的機会の閉鎖性と革新勢力との同盟といった要因が抗議活動の生起と関連していたが,1974年〜94年は政治的な要因との関連がほとんどなくなった。むしろ,1974年〜94年では,経済的な豊かさが抗議を生起させる条件になっていることが見いだせた。さらに1970年代半ば以降,日本の抗議型の環境運動は,欧米の抗議活動と異なり「運動社会」の様相は示していないことが明らかになった。