著者
呉座 勇一
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
若手研究
巻号頁・発行日
2018-04-01

本年度は、前年度に執筆した論文「網野善彦とベラ・ザスーリチへの手紙」の修正を行った。網野の代表作『無縁・公界・楽』の核心的テーマである「無縁」=「原始の自由」は、ベラ・ザスーリチへの手紙(カール・マルクスの書簡)を読み直すことで得た着想が基になっているという。この網野の証言の妥当性を、多様な資料に基づいて再検討した。また前川一郎編著『教養としての歴史問題』(東洋経済新報社)に「「自虐史観」批判と対峙する―網野善彦の提言を振り返る」を寄稿した。排外主義・歴史修正主義的な言説が蔓延する現状に対処するヒントを、戦後歴史学に対する網野の提言に求めた。網野は「新しい歴史教科書をつくる会」に批判的だったが、歴史学界の「つくる会」批判は有効ではないと考えていた。そのことを端的に示すのが、網野の「自由主義史観は戦後歴史学の鬼子」発言である。網野は天皇制反対論者だったが、天皇制を解体するには、“敵”である天皇制の本質を知る必要があると考えていた。網野は「無縁」の思想や非農業民が天皇と深く結びついていたことに天皇制存続の理由を求めた。ところが、網野の議論は学界からは「天皇擁護論」と批判された。しかし網野から見れば、天皇制の根深さに正面から取り組もうとしていない歴史学界は“逃げている”ように映っていた。戦後歴史学が天皇制研究をきちんとやらなかったから、「つくる会」にその隙を突かれたのだ、というのが網野の認識だった。網野の議論や認識には疑問もあるが、歴史学界が網野に冷淡だった点は否めない。歴史学界のある種の自閉性は今も続いているのではないか、と本稿では指摘した。
著者
呉座 勇一
出版者
神奈川大学日本常民文化研究所
雑誌
神奈川大学日本常民文化研究所調査報告 = Maritime History of Kumano : A Comprehensive Study of Koyama Family Papers
巻号頁・発行日
vol.29, pp.115-129, 2021-03-26

色川文書は、那智山西方の山間部の色川郷(現在の和歌山県那智勝浦町色川地区)を拠点とした熊野水軍色川氏に関わる計八通の文書群である。近代から現代にかけて、色川文書の中で最も注目されてきたのは、忠義王発給文書である。忠義王は長禄の変によって吉野で命を落とした南朝の末裔とみなされ、彼の発給文書は貴重・稀少な後南朝文書として関心を集めてきた。一方で同文書は、様式の不自然さから、後世の偽作ではないかと疑われてもきた。本稿では、真偽に関する議論には深入りせず、同文書が近世の地域社会においてどのように受容されたか、また近世の後南朝史研究でいかに扱われたかを解明した。 同文書を後世の偽作と仮定すると、その作成者は忠義王を長禄の変の被害者と認識していなかったと考えられる。後南朝の嫡流とされる自天王の文書ではなく、彼の弟とされる忠義王の文書が作られた不自然さは、文書作成時には忠義王が弟宮と位置づけられていなかったと想定することで解消される。 また奥吉野には南朝関連史跡は存在したが、江戸前期には後南朝関連史跡は未成立で、忠義王の名を知る人もいなかった。吉野に忠義王文書が残っていないのは、このためである。 ところが『大日本史』編纂のための水戸藩の史料採訪が、熊野に残る忠義王文書と、かつて吉野で起こった長禄の変を結びつけた。吉野郡川上郷では自天王・忠義王の位牌が作られ、長禄の変で命を落とした二皇子として両人の名前が川上郷で浸透していく。南朝関連史跡は後南朝関連史跡へと改変された。川上郷が両人に関わる由緒書や旧記を多数作成して先祖の後南朝への忠節を喧伝した結果、後南朝伝説は外部に拡散されていった。これらの伝説は国学者が編んだ後南朝史に採り入れられることで信頼性と権威を獲得し、近代以降の後南朝研究の前提となった。
著者
春田 直紀 佐藤 雄基 薗部 寿樹 小川 弘和 榎原 雅治 呉座 勇一 湯浅 治久 高橋 一樹
出版者
熊本大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2018-04-01

令和2年度は、以下の研究活動で成果をあげた。(1)10月3日にオンラインで研究会「中世肥後の文字史料と地下社会」を主催した(熊本中世史研究会と共催)。この研究会では、池松直樹氏と兒玉良平氏が「「肥後国中世地下文書・銘文史料」概観」、春田直紀氏が「大百姓の文書と水利開発―舛田文書と現地の調査成果から―」、廣田浩治氏が「地下文書論からみた中世の肥後~肥後国中部を中心に~」という題目で研究報告し、総合討論も行った。この研究会に先立ち、池松直樹氏・杉谷理沙氏・兒玉良平氏により、肥後国中世地下文書・銘文史料目録が作成された。 (2)2月20日にオンラインで第11回中世地下文書研究会(諏訪ミニシンポジウム)を主催した。この研究会では、岩永紘和氏が「「大祝家文書・矢島家文書」原本調査報告」、金澤木綿氏が「「守矢家文書」原本調査報告」、佐藤雄基氏が「「守矢家文書」における鎌倉時代の文書」、湯浅治久氏が「戦国期の諏訪社造営と「先例」管理―地域権力と地下文書の接点―」という題目で研究報告し、村石正行氏のコメントの後全体討論も行った。(3)畿内・近国班が連携している神奈川大学国際常民文化研究機構の奨励研究のフォーラム「中世熊野の海・武士・城館」が1月23日にオンラインで開催され、本科研グループからは坂本亮太氏が「紀州小山家文書の魅力と可能性」と題して報告し、村上絢一氏がコメント報告を行った。なお、この奨励研究の成果報告書として、3月に『熊野水軍小山家文書の総合的研究』が神奈川大学より刊行された。(4)3月27日にオンラインで中世の荘園制と村落に関する研究会を主催し、朝比奈新氏と似鳥雄一氏が報告して、討論も行った。(5)研究協力者(熊本大学教育学部日本史研究室所属)の協力を得て、日本中世の「浦」関係史料に関するデータベース(全国版)を作成した。
著者
呉座勇一著
出版者
思文閣出版
巻号頁・発行日
2014
著者
呉座 勇一
出版者
東京大学
雑誌
特別研究員奨励費
巻号頁・発行日
2005

本年度は3年目に当たる。2006年5月に鎌倉遺文研究会の例会で報告した内容を基に作成、投稿した論文が『鎌倉遺文研究』第19号(2007年4月)に「論文」として掲載された。また2006年12月に千葉歴史学会中世史部会の例会で報告した内容を基に作成、投稿した論文が『千葉史学』第50号(2007年5月)に「研究ノート」として掲載された。2007年11月には、史学会第115回大会の日本中世史部会シンポジウム「『人のつながり』の中世」において、「国人・侍の一揆とその歴史的展開」という報告を行った。この史学会報告では、国人・侍の一揆と、被官・下人・百姓といった身分の人々との関係について考察した。一揆契状をはじめとする領主間協約に見える、被官・下人・百姓に関する規定(人返など)を主な検討対象とした。第1章では、南北朝期の一揆契状は軍事同盟であり、被官・下人・百姓に関する規定は基本的に存在せず、松浦地域の一揆契状は例外と捉えるべきであると論じた。第2章では、国人当主が近隣領主と提携し「衆中」(国衆連合)へ結集していく一方で、侍層は「家中」(被官の一揆)へ結集していった結果、国衆連合は各々の「家中」における政治的・軍事的中核たる被官層への対応を重視したことを明らかにした。第3章では、国人一揆は被官・中間・下人という直属家臣までしか統制できず、百姓統制を広範に展開した戦国大名とは権力としての質的差異があったことを指摘した。また一揆契状の原本の閲覧を行った。たとえば新潟県立歴史博物館では、「色部家文書」所収の起請文を閲覧した。享禄4年8月20日付の色部氏宛ての起請文は3通(鮎川氏・小河氏・本庄氏)存在するが、紙の大きさが一致せず筆跡も異なるようである。日付の書き方がまちまちであることを考慮すると、同時に作成されたわけではないと考えられる。一堂に会して一味神水を行ったという状況は想定しにくいと言えよう。
著者
呉座勇一著
出版者
講談社
巻号頁・発行日
2021
著者
呉座 勇一
出版者
東京大学
雑誌
特別研究員奨励費
巻号頁・発行日
2008

本年度は3年目に当たる。論文「隅田一族一揆の構造と展開」を『ヒストリア』221号に発表した。本論文では隅田八幡宮に集う隅田一族による祭祀の運営方法を検討した。その結果、従来は一揆の中核とみなされてきた葛原氏は、他氏に超越する惣領家的存在ではなく、小西氏や上田氏などと結んで集団指導体制をとっていたことを示した。また阿部猛編『中世政治史の研究』(日本史史料研究会)に論文「室町期武家の一族分業一沼田小早川氏を中心に一」を寄稿した。沼田小早川氏を主な事例として、室町期の武家領主の「家」が、惣領の権限を子息・兄弟に分散させる組織構造になっていたことを解明した。そして、この体制は戦争に対応するための危機管理対策の所産であったことを説いた。加えて、『東京大学史料編纂所研究紀要』21号に論文「乙訓郡『惣国』の構造一惣国一揆論の再検討一1を発表した。長享・明応年間の乙訓郡「惣国」の具体的・実証的な分析を通じて、議論が複雑に錯綜している惣国一揆の研究史を解きほぐすことを試みたものである。すなわち、国衆の地域的連合である「惣国」と、百姓層をも包摂した「惣国一揆」の区別を提唱した。学会活動としては、2010年6月に、日本史研究会中世史部会にて「国人一揆研究の成果と課題」という研究史整理の発表を行った。一揆研究においては、勝俣鎮夫氏による一連の一揆研究などを契機として、社会史的な一揆論が隆盛した。しかし荘家の一揆や土一揆などの研究が社会史的手法によって進展する一方で、国人一揆は専ら地域権力論や在地領主研究の題材として扱われた。この問題の解決策として、「領主制論」的な問題関心から離れて、一揆論的な視角から国人一揆を研究する必要性を訴えた。なお報告内容の要旨は、『日本史研究』580号に掲載された。