- 著者
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呉座 勇一
- 出版者
- 東京大学
- 雑誌
- 特別研究員奨励費
- 巻号頁・発行日
- 2005
本年度は3年目に当たる。2006年5月に鎌倉遺文研究会の例会で報告した内容を基に作成、投稿した論文が『鎌倉遺文研究』第19号(2007年4月)に「論文」として掲載された。また2006年12月に千葉歴史学会中世史部会の例会で報告した内容を基に作成、投稿した論文が『千葉史学』第50号(2007年5月)に「研究ノート」として掲載された。2007年11月には、史学会第115回大会の日本中世史部会シンポジウム「『人のつながり』の中世」において、「国人・侍の一揆とその歴史的展開」という報告を行った。この史学会報告では、国人・侍の一揆と、被官・下人・百姓といった身分の人々との関係について考察した。一揆契状をはじめとする領主間協約に見える、被官・下人・百姓に関する規定(人返など)を主な検討対象とした。第1章では、南北朝期の一揆契状は軍事同盟であり、被官・下人・百姓に関する規定は基本的に存在せず、松浦地域の一揆契状は例外と捉えるべきであると論じた。第2章では、国人当主が近隣領主と提携し「衆中」(国衆連合)へ結集していく一方で、侍層は「家中」(被官の一揆)へ結集していった結果、国衆連合は各々の「家中」における政治的・軍事的中核たる被官層への対応を重視したことを明らかにした。第3章では、国人一揆は被官・中間・下人という直属家臣までしか統制できず、百姓統制を広範に展開した戦国大名とは権力としての質的差異があったことを指摘した。また一揆契状の原本の閲覧を行った。たとえば新潟県立歴史博物館では、「色部家文書」所収の起請文を閲覧した。享禄4年8月20日付の色部氏宛ての起請文は3通(鮎川氏・小河氏・本庄氏)存在するが、紙の大きさが一致せず筆跡も異なるようである。日付の書き方がまちまちであることを考慮すると、同時に作成されたわけではないと考えられる。一堂に会して一味神水を行ったという状況は想定しにくいと言えよう。