著者
角田 文衞 角田 文衛 黒川 哲郎 辻村 純代 川西 宏幸 KUROKAWA Tetsurou
出版者
(財)古代学協会
雑誌
海外学術研究
巻号頁・発行日
1988

アコリス市の中枢的な機能を果していたと考えられるネロ神殿を中心に、アコリスの形成過程と、その後の展開を考古学的に解明することを目的として発掘調査を実施してきた。その結果、ネロ神殿はローマ皇帝ネロと同ディオクレティアヌスの治政下で大規模な修復と整備が行われていることが判明した。ところが神殿の創建時期については重要な研究課題であるにもかかわらず不明のままに残されてきた。そこで、岩窟を掘り込んで造られた神殿内部の床に開いた竪坑墓の年代をつかむために今回、本格的な調査を行うこととなった。調査の結果、深さ4メートルの竪坑は中程まで垂直に掘り込まれた後に、階段状に下降して小室を造る構造が明らかになった。ワニのミイラやソベク神のレリーフ、棺材、青銅製オシリス等が出土しており、これらの遺物には当墓がローマ時代を遡ることを証明するものはなかった。一方、ネロ神殿に隣接して同じ岩山を掘り込んで造られたハトホル神殿内の竪坑墓については既に調査を行っていたが、下部に造られた二つの部屋のうち南室の調査が完了していなかったため今回、再調査となったものである。先の調査ではピノジェム1世の銘を刻んだ石碑が出土したことから、当墓の造営年代を20ー21王朝と推定した。ところが今回、副葬品として納められた木製模型船や木製枕が発見され、墓の造営が一拠に4000年前の中王国時代に遡ることが明らかになった。模型船は長さ2メートルに及ぶ大型船で、櫂や櫓を漕ぐ40名ばかりの水夫とそれにかかわる装具一式、ミイラになった被葬者とその寝台が船本体に付属しており、規模や写実性において世界的な優品であることがエジプト考古庁やカイロ博物館でも認められ、学問的な価値が極めて高い。ただ、木質が脆弱で、保存処理のための用意がないことから、本年度は船体の一部を取り上げるにとどめて埋め戻した。そして次年度に化学的処理を施したのち全体を取り上げ、その下層を調査することとした。神殿域の南東隅は神殿を隔する大壁が錯綜しており、その築造時期は神殿創建の時期と極めて強い関連性を有する。神殿域の東を隔する大壁は約100メートルの長さで門柱に達する。これをディオクレティアヌス帝治政下に神殿整備が行われた際のものとすれば、神殿本体のみを廻るように築かれた大壁はそれより古く、その基層に含まれる土器の形態からほぼ1世紀、ネロ帝による整備の時期に相当する。更に、この下層からはプトレマイオス朝の時期に比定される土器が出土し、径1メートルたらずのドーム状の貧弱な煉瓦積遺構が検出された。同様の遺構は神殿域の各所で検出されているが、同時期に刻まれた磨崖碑に記されたアコリスが都市であったとすれば、それに相当するような遺構はこれまでのところ発見されていない。従って、神殿域の調査に関する限り、都市の造営はローマ時代帝政期の初期に行われた可能性が強い。神殿域では参道の両側の調査も行い、コプト時代の住居跡数棟を検出した。コインやランプ等の遺物も豊富に出土したが、なかでも重要なのは中門の西側で発見された100点を越すコプト語のパピルス文書である。これまでにもコプト語パピルスは出土しているが、いずれも小片であった。それらに比べ、今回、発見されたパピルスは完形で、封印がそのまま残っている例も含まれている。一部を解読したところによれば、修道士の書いた手紙で、宗教的内容の逸話である可能性が高く、初期キリスト教研究の史料として多大な寄与をすることは疑いない。また、新しい技術を導入して和凧を利用した空中撮影の結果、遺跡の中央部に建立されたローマ様式を持つセラピス神殿から北に延びて都市門に続く中央道路が判明した。この道路はネロ神殿から北に延びる道路とほぼ平行しており、アコリスの道路はローマ的な都市計画に基づいていたことが知られるのである。
著者
坂井 聰 浅香 正
出版者
(財)古代学協会
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
1995

本研究は,古代イタリアにおける都市起源の歴史的状況を,紀元前5世紀を中心に文献・考古学の両面から考察することを目的とした。研究代表者坂井は,主としてイタリア中南部のカンパニアを対象地域とし,まず前8〜5世紀における文化的状況を考古史料をもとに概観し分析を加えた。その結果を踏まえこの地域における都市の代表例として,ポンペイ遺跡をとりあげ,その都市起源に関するデータを過去の発掘報告から抽出した。とりわけ城壁建設の起源とその変遷過程に注目し,現存する城壁に先だって少なくとも2種類のより古い段階の城壁が存在することを,古代学的証拠より確認した。そのうち最も古い段階の城壁は,併存する遺物から見て前6世紀に建設されたと考えられ,先に概括したこの時期のカンパニアの全般的な政治・文化状況から,ポンペイ都市建設が,エトルスキ人の影響下に行われたとする結論を導いた。その次の段階の城壁は、従来の研究によればエトルスキ段階以降の前5世紀の建設であるといわれてきたが,ポンペイ遺跡の他の発掘データと比して,この時期に大規模な城壁建設が行われたとは考えにくく、前5世紀以降の建設である可能性を指摘した。またポンペイ都市における公共建造物の建造を中心に,都市建設後の発展に関する歴史的背景研究を行い,都市の本格的成立はヘレニズム時代以降のことであることを明らかにした。研究分担者浅香は,以上のカンパニアにおける状況と対比して,中部イタリアを対象に都市建設の歴史的背景を研究した。とりわけローマの都市起源問題を,伝承・考古史料の両面から検討し,前7〜5世紀におけるイタリア半島中南部の都市建設に関する全般的な研究見通しを立てるための,基礎的研究を行った。