著者
斎藤 叶吉
出版者
一般社団法人 人文地理学会
雑誌
人文地理 (ISSN:00187216)
巻号頁・発行日
vol.16, no.4, pp.337-352, 1964-08-28 (Released:2009-04-28)
参考文献数
26
被引用文献数
4

本文は近世以降における桐生機業圏の復元と,その内部構造の変容を扱ったものである。桐生機業圏の形成は近世以降のことで,近世前期には旗絹献上に由来する桐生領54ヵ村がこれに属し,その内部は自蚕自糸自織の均一構造をもっていた。天正19年に桐生新町ができると,そこに開かれた絹市が機業の核となった。元文3年以後,西陣の織物技術や高機が伝来し,紋織が始まり,機業圏内部に問屋制家内工業,ついでマニュファクチュアが生じた。この間に,山中入が機業圏から離脱した。幕末近くになると,桐生新町に機業関連諸部門が集中し,機業圏の核心となった。機屋は桐生新町とその周辺,および南部一帯に特に集中してきた。また,機業圏の西部や北部は白絹,桐生新町周辺は糸染織物というように,2種の機業圏に分化してきた。明治初年は機業不振で,機業圏は以前よりやや縮少した。壬申戸籍を利用して調査すると,機業関連諸部門は桐生新町と境野に特に集中していた。機業形態では,桐生新町に機屋,その近在に機下職が集中していた。賃機を専業とする戸数は少ないが,農家の副業として広く行なわれた様子は,他の資料から推察できた。当時すでに着尺は桐生新町付近,帯地は機業圏南部,生絹はその西部といった,機業圏内部の地域分化がみられた。明治10年からは輸出織物が始まり,桐生は明治から大正にかけて最盛期を出現した。以前から生絹を作っていた西部・北部は輸出物を作るようになり,機業圏は輸出物生産が盛んになると広がり,不振になると縮まった。第二次大戦は桐生機業に壊滅的打撃を与えたが,戦後の復興は早かった。現在の機業圏は桐生市街地を核心とし,東部・南部は内需物生産地域で,工場と従属工場形態の製造業者が幅広い地帯をつくり,その外側に賃機地帯が狭くとりまいている。西部と北部は輸出物生産地域で,少数ながら大工場の製造業者が,主として桐生市街西郊に分布し,工場・従属工場形態の加工業者がこれをとりまき,広い賃機圏がさらにこれを囲んでいる。最近この機業圏内に変化が生じつつある。内需物生産地域では,企業合同による機業団地または大工場の設立が考えられている。輸出物生産地域では,賃機が農村青年の専業にかわる傾向がみえ,そのため,下職的機業者への転向を望んでいる。これらにはいずれも,簡単にゆかない問題が付随している。桐生機業は内にこれらの矛盾を抱き,外に織物の需要減問題と対している。これらの問題を克服することに,桐生機業の面目と発展とがかけられている。

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