- 著者
-
馬渡 玲欧
- 出版者
- 東北社会学研究会
- 雑誌
- 社会学研究 (ISSN:05597099)
- 巻号頁・発行日
- vol.103, pp.139-163, 2019-10-16 (Released:2021-10-24)
- 参考文献数
- 38
本論文ではマルクーゼの「労働と遊び」論における一九三〇年代初頭の議論と一九五〇年代の議論を再検討する。前者については、必需品を生産する領域の彼方にある自由の領域において、歴史的な現存在である人間をつくりあげる「行為としての労働」にとっては、他者や対象への予測が必要となり、その予測を可能とするのは現存在の存在論的な場であることを明確にする。この場を確保するための条件として、労働と労働のあいまに位置する「遊び」が必要となるのである。マルクーゼは三〇年代の問題構成を五〇年代に洗練させる。特に本稿では精神分析家ヘンドリックが主張する、効率的な仕事が快楽をもたらすとする議論へのマルクーゼの反論を取り上げる。この過程でマルクーゼが遊びこそが疎外された労働や産業社会における生産性信仰を克服する方途であるとみなしていたことを示す。市民社会における業績原理は生産性という桎梏にとらわれており、それゆえに必然的に承認のイデオロギーや強制された自己実現の隘路に陥らざるを得ない。「労働と遊び」論の社会理論的検討は生産性信仰に陥りがちな労働の過程から距離を取ることができる点で有用である。