- ホーム
- Yahoo!知恵袋
- 117218468
投稿一覧(最新100件)
ご質問の内容は『続日本紀』の以下の記事ですね。
神亀二年閏正月己丑「俘囚百卌四人を伊豫国に配し、五百七十八人を筑紫に配し、十五人を和泉監に配す」
神亀二年のこの記事は俘囚・夷俘の他国移住についての初例となっています。
これ以後、弘仁二年の文室綿麻呂の征討後に行われた俘囚・夷俘の移配を最後に史書から移配記事は見えなくなります。
神亀二年(725)~弘仁二年(811)の間に他国へ移配された ...
空海は804年の遣唐使に私費留学僧として乗船しており、同じく入唐した最澄は天皇の命を受けた請益僧です。
この時の遣唐使の任命は延暦二十年(801)だったのですが、いろいろなトラブルがあって実際に出発したのは804年でした。唐の公式記録として残っているものは以下の『旧唐書』『新唐書』のみです。
唐側の記録、特に仏教関係は当時の都(長安・洛陽)から距離的に離れた場所にある「碑文」のようなものな ...
なにしろ紀元前のことなので資料は少ないですね。正史等からその期間にあった災害を調べることぐらいしか出来ないので “労役に駆り出された人民の数やその実態” となると災害の起った郡・県等の人口推移や出土した木簡等が参考になるのかも…と思います。
下に幾つか私の持っている書籍や国会図書館で調べたもの、ネットに公開されている論文等を入れて置きます。これらの論文や書籍がmaxnexnex様の要求にどれ ...
なにしろ紀元前のことなので資料は少ないですね。正史等からその期間にあった災害を調べることぐらいしか出来ないので “労役に駆り出された人民の数やその実態” となると災害の起った郡・県等の人口推移や出土した木簡等が参考になるのかも…と思います。
下に幾つか私の持っている書籍や国会図書館で調べたもの、ネットに公開されている論文等を入れて置きます。これらの論文や書籍がmaxnexnex様の要求にどれ ...
「後に世々二千石の吏・高貲(コウシ)富人及び豪桀并びに兼之家を諸陵に徙す。蓋し亦た彊幹弱支を以て、獨り山園に奉ずる為に非ず也。」
三園ではなく山園ですね。
“山園” というのは皇帝・皇后の陵墓とそれに付随する諸施設のことを指しています。「山園に奉ずる」とは皇帝陵に奉仕すること。
その意味ですが、
“後に世々…” の前の文章を読むと、漢王朝が出来たとき斉の田氏、楚の昭・屈・景等の功 ...
ご質問の史料は『大日本史料』だと思います。
「至急」とあるのにご質問に気付いたのが今朝だったのでもう遅いのかもしれませんが今後のお勉強にも役立つかと思いましたので…。
『大日本史料』東京大学史料編纂所 編
『史料総覧』東京大学史料編纂所 編
下に “デジタルコレクション ” の見本を入れて置きました。
<国立国会図書館デジタルコレクション>
http://dl.ndl.go ...
Wikipedia の「仁徳天皇の生まれは神功皇后摂政57年(257年)」の根拠についてのご質問ですね、
『別冊歴史読本 天皇家系譜総覧/目で見る時代考証シリーズ9/神武天皇から今上天皇までの全皇統』
だいぶ古いものですが「新人物往来社」から1998年に出版された本です、現在は改訂版も出ているようで未だにネットで購入することができます。
この本によれば “仁徳天皇の誕生” を以下のように ...
Wikipedia の「仁徳天皇の生まれは神功皇后摂政57年(257年)」の根拠についてのご質問ですね、
『別冊歴史読本 天皇家系譜総覧/目で見る時代考証シリーズ9/神武天皇から今上天皇までの全皇統』
だいぶ古いものですが「新人物往来社」から1998年に出版された本です、現在は改訂版も出ているようで未だにネットで購入することができます。
この本によれば “仁徳天皇の誕生” を以下のように ...
東大寺再建に関する史料としては『玉葉』『吾妻鏡』『東大寺要録』『東大寺続要録』『東大寺別当次第』『東大寺造立供養記』『東大寺文書』『東大寺領荘園文書目録』などがあります。
なかでも『玉葉』『吾妻鏡』は読み易く、東大寺再建に尽力した重源と同時代の記録として大変貴重な史料です。
また、ご質問の周防国が東大寺造営料国になっていたこと、そこから用材を切り出した事などは『玉葉』以外にも『東大寺文書』 ...
朝鮮半島の歴史書で『日本書紀』に相当するものは『三国史記』でしょうね。
『日本書紀』は8世紀に編纂されたものですが、『三国史記』は12世紀に完成したものです(原史料は『古記』・『海東古記』・『三韓古記』・『本国古記』・『新羅古記』などですから2~3世紀の歴史はその正確性が疑問視されていますが、三国時代頃の歴史は史料があったと思って良いでしょう。同時代の中国史と照らし合わせても違和感はありません) ...
朝鮮半島の歴史書で『日本書紀』に相当するものは『三国史記』でしょうね。
『日本書紀』は8世紀に編纂されたものですが、『三国史記』は12世紀に完成したものです(原史料は『古記』・『海東古記』・『三韓古記』・『本国古記』・『新羅古記』などですから2~3世紀の歴史はその正確性が疑問視されていますが、三国時代頃の歴史は史料があったと思って良いでしょう。同時代の中国史と照らし合わせても違和感はありません) ...
『中国歴代天災人禍表』で調べることができます。
この史料には、中国で起きたあらゆる自然災害(水害・干ばつ・蝗害・地震・疫病等々)、人災(叛乱・内乱・山賊・海賊等々)、外患(外国との戦争)等が、年月・地域毎に分類記録されています。ご質問の天啓末期から崇禎初期にかけての陜西省で起きた自然災害もすべて記されています。
*収録されている範囲は、紀元前246年(秦の始皇帝元年)~1911年(清の宣統帝 ...
『高麗史』が焚書されたのではなく、『高麗史』編纂時に参照された高麗国王歴代の実録をはじめ多くの公私文書や書籍が焚書または消失した、という事で、その理由は不明ですが『高麗史』は1451年に完成しており、日本では国書刊行会から出版されています。
現在は国会図書館の<近代デジタルライブラリー>で誰でも見ることができます。
他に以下二冊があります。<近代デジタルライブラリー>で閲覧できますが、いず ...
「南詔国」のことは『旧唐書』南蠻西南蠻列伝に「南詔蠻」として載っているのですが、これは日本語訳がありません。しかし、「資治通鑑」中に『旧唐書』南詔蠻列伝に相当する部分の半分以上が入っています。
南詔と唐が交渉を持つようになるのは「玄宗皇帝の開元二十六年九月」にはじまりますので、『國譯資治通鑑』でしたら十二巻~十六巻までをご覧になれば、『旧唐書』南詔列伝のかなりな部分を読み下しで見ることが出来 ...
君臣間の席次について、また賓主間の席次で東西南北に席を設けた場合のご質問ですね、
すでに「君臣間の席次について」の質問でauction_binbouさんが回答していらっしゃるように、2010/12/13の鴻門の会の質問をめぐってお三方の議論がありますが、これを纏めると以下のようになります。
<鴻門の会の礼:四方の席の順>
項羽と項伯:①西
范増:②北
劉邦:③南
張良:④東
四 ...