著者
米地 文夫 三浦 修 平塚 明
出版者
岩手県立大学
雑誌
総合政策 (ISSN:13446347)
巻号頁・発行日
vol.5, no.3, pp.391-409, 2004-03-31

宮沢賢治の作品にしばしば登場する「標本」と「証拠」という語について、自然科学の立場から検討を加えた。自然愛好家であり教師でもある賢治は、「標本」を、展示用、教材用の見せる「もの」としての「標本」sampleと考えていた。彼は本質的に研究者ではなく、彼の「標本」には, 研究者がより重要と考える《研究の材料、研究の保証となる証拠としての「標本」specimen》は含まれていなかった。「標本」specimenを、研究者は「こと」を説明する科学的な「証拠」voucherとして用いる。しかし賢治はこれらは「標本」と呼ばず、「証拠」と書いている。賢治は一種の不可知論者でもあったので、学者が挙げる「証拠」が描く世界像は、時代とともに変わると考えていたのである。

言及状況

Twitter (4 users, 4 posts, 5 favorites)

おもしろいなぁCiNiiの新サービス全文検索で拾った宮沢賢治の標本観。当然陸前高田博の基礎となった標本の収集者「鳥羽源藏」も出てくる。http://t.co/0nuWx1Sg

収集済み URL リスト