- 著者
-
松尾 昌樹
- 出版者
- 日本中東学会
- 雑誌
- 日本中東学会年報 (ISSN:09137858)
- 巻号頁・発行日
- no.19, pp.153-174, 2003-09-30
本稿はイギリス東インド会社ならびに英領インド政府によるブー・サイード朝の君主に対する称号の適用方法の変化を明らかにすることを目的とする。イギリス側は1861年まで「イマーム」の称号を適用したが,この称号を冠せられた支配者達は,イバード派の教義に則ったイマームではなかった。このような誤用の原因には,イギリス人がイバード派の教義やブー・サイード朝の歴史に関する知識を持たなかったことだけではなく,プー・サイード朝の君主達がこのような使用法を黙認することによって,イギリスからオマーンの君主と見なされる効果を期待していたことが考えられる。1859年から1871年にかけて,英領インド政府の役人であったバジャーは,オマーンの年代記の翻訳を通じて,イバード派の教義の知識を得たが,同時に彼はそれまでのイギリスによる称号の適用手法に誤りがあったことを認識するとともに,イマームではなかったブー・サイード朝の君主達を正当化する必要性を強く認識した。バジャーは彼の著作の中で,誰がオマーンの君主であったのか,というイギリスの歴史認識に適合するように説明を行った。「サイィド」が支配家系が用いた称号であり,イマームではなかったブー・サイード朝の君主が摂政としてイマームの権威を有していたという有名な説は,このようなバジャーの試みの産物であった。このような説明を用いて,バジャーは一連のマスカトの支配者を支配家系として歴史的に正当化したのである。