- 著者
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秋葉 淳
- 出版者
- 日本中東学会
- 雑誌
- 日本中東学会年報 (ISSN:09137858)
- 巻号頁・発行日
- no.29, pp.129-143, 2013-07-15
本稿は、イスタンブル・ムフティー局附属文書館所蔵の文書にもとづき、オスマン帝国が1889-90年に日本に派遣したエルトゥールル号に関する新事実を紹介する。その文書からは、スルタン・アブデュルハミト二世がエルトゥールル号によって日本にウラマーを派遣してイスラームの普及を図ろうとした、という実現しなかった計画が明らかになった。スルタンは、エルトゥールル号派遣の直前にシェイヒュルイスラームにウラマーの派遣を打診し、日本でイスラームの知識を教えることのできる人物を選ぶよう依頼した。その文書(スルタンの勅旨)によれば、日本人は「啓典の民」ではないが、近年の進歩の実績に鑑みれば、近いうちに多神教を捨てて一神教を受け入れる傾向があるのだという。しかし、スルタンは、日本に派遣されるべきウラマーに英語あるいはフランス語の能力を求めて、最初に選ばれた二名の人物を却下したため、結果的に君主の要望に見合う人物は見つからなかった。こうして、エルトゥールル号によるウラマーの日本派遣の企図は廃案となった。実現しなかったとはいえ、日本への宗教使節派遣案が出されたという事実は、アブデュルハミト二世のイスラーム政策について新しい観点を提供する。今日の研究では、エルトゥールル号の派遣は、インドや東南アジアのムスリムに対するプロパガンダの手段であったと解釈され、日本のイスラーム化は問題外だったとされる。しかし、本稿が用いた史料は、アブデュルハミト二世が世界のムスリムの結束のみならず、イスラーム教徒のいない地域への宣教活動をも視野に入れていたことを示している。また、日本人のイスラーム改宗という発想は、日露戦争後にオスマン人や世界のムスリムの間で広く流通し、日本がイスラームを国教とする用意があるといった根拠のない噂が流布した。しかし、本稿で紹介した文書は、日本のイスラーム化という発想が、より以前の時期に遡り、アブデュルハミト二世がその初期の提唱者の一人であったことを示している。いずれにしてもこの発案は実現せず、その後もスルタンが日本に宗教指導者を派遣することはなかった。しかし、エルトゥールル号事件の生存者と遺族への義捐金を届けにイスタンブルに渡った時事新報記者野田正太郎が、しばらく後にイスラームに改宗すると、彼の帰国とともに日本にウラマーが派遣されて改宗が進められていると外国の新聞で報道された。その意味でアブデュルハミト二世は、ウラマーを派遣せずに、派遣したのと同じ効果を国際世論に反映させることに成功したのである。日本へのウラマー派遣の試みもまた、その意味でアブデュルハミト二世のイメージ政策の枠組みのなかで理解されるべきであろう。