著者
秋葉 淳
出版者
日本中東学会
雑誌
日本中東学会年報 (ISSN:09137858)
巻号頁・発行日
vol.29, no.1, pp.129-143, 2013-07-15 (Released:2018-03-30)

本稿は、イスタンブル・ムフティー局附属文書館所蔵の文書にもとづき、オスマン帝国が1889-90年に日本に派遣したエルトゥールル号に関する新事実を紹介する。その文書からは、スルタン・アブデュルハミト二世がエルトゥールル号によって日本にウラマーを派遣してイスラームの普及を図ろうとした、という実現しなかった計画が明らかになった。スルタンは、エルトゥールル号派遣の直前にシェイヒュルイスラームにウラマーの派遣を打診し、日本でイスラームの知識を教えることのできる人物を選ぶよう依頼した。その文書(スルタンの勅旨)によれば、日本人は「啓典の民」ではないが、近年の進歩の実績に鑑みれば、近いうちに多神教を捨てて一神教を受け入れる傾向があるのだという。しかし、スルタンは、日本に派遣されるべきウラマーに英語あるいはフランス語の能力を求めて、最初に選ばれた二名の人物を却下したため、結果的に君主の要望に見合う人物は見つからなかった。こうして、エルトゥールル号によるウラマーの日本派遣の企図は廃案となった。実現しなかったとはいえ、日本への宗教使節派遣案が出されたという事実は、アブデュルハミト二世のイスラーム政策について新しい観点を提供する。今日の研究では、エルトゥールル号の派遣は、インドや東南アジアのムスリムに対するプロパガンダの手段であったと解釈され、日本のイスラーム化は問題外だったとされる。しかし、本稿が用いた史料は、アブデュルハミト二世が世界のムスリムの結束のみならず、イスラーム教徒のいない地域への宣教活動をも視野に入れていたことを示している。また、日本人のイスラーム改宗という発想は、日露戦争後にオスマン人や世界のムスリムの間で広く流通し、日本がイスラームを国教とする用意があるといった根拠のない噂が流布した。しかし、本稿で紹介した文書は、日本のイスラーム化という発想が、より以前の時期に遡り、アブデュルハミト二世がその初期の提唱者の一人であったことを示している。いずれにしてもこの発案は実現せず、その後もスルタンが日本に宗教指導者を派遣することはなかった。しかし、エルトゥールル号事件の生存者と遺族への義捐金を届けにイスタンブルに渡った時事新報記者野田正太郎が、しばらく後にイスラームに改宗すると、彼の帰国とともに日本にウラマーが派遣されて改宗が進められていると外国の新聞で報道された。その意味でアブデュルハミト二世は、ウラマーを派遣せずに、派遣したのと同じ効果を国際世論に反映させることに成功したのである。日本へのウラマー派遣の試みもまた、その意味でアブデュルハミト二世のイメージ政策の枠組みのなかで理解されるべきであろう。
著者
秋葉 淳
出版者
日本中東学会
雑誌
日本中東学会年報 (ISSN:09137858)
巻号頁・発行日
no.29, pp.129-143, 2013-07-15

本稿は、イスタンブル・ムフティー局附属文書館所蔵の文書にもとづき、オスマン帝国が1889-90年に日本に派遣したエルトゥールル号に関する新事実を紹介する。その文書からは、スルタン・アブデュルハミト二世がエルトゥールル号によって日本にウラマーを派遣してイスラームの普及を図ろうとした、という実現しなかった計画が明らかになった。スルタンは、エルトゥールル号派遣の直前にシェイヒュルイスラームにウラマーの派遣を打診し、日本でイスラームの知識を教えることのできる人物を選ぶよう依頼した。その文書(スルタンの勅旨)によれば、日本人は「啓典の民」ではないが、近年の進歩の実績に鑑みれば、近いうちに多神教を捨てて一神教を受け入れる傾向があるのだという。しかし、スルタンは、日本に派遣されるべきウラマーに英語あるいはフランス語の能力を求めて、最初に選ばれた二名の人物を却下したため、結果的に君主の要望に見合う人物は見つからなかった。こうして、エルトゥールル号によるウラマーの日本派遣の企図は廃案となった。実現しなかったとはいえ、日本への宗教使節派遣案が出されたという事実は、アブデュルハミト二世のイスラーム政策について新しい観点を提供する。今日の研究では、エルトゥールル号の派遣は、インドや東南アジアのムスリムに対するプロパガンダの手段であったと解釈され、日本のイスラーム化は問題外だったとされる。しかし、本稿が用いた史料は、アブデュルハミト二世が世界のムスリムの結束のみならず、イスラーム教徒のいない地域への宣教活動をも視野に入れていたことを示している。また、日本人のイスラーム改宗という発想は、日露戦争後にオスマン人や世界のムスリムの間で広く流通し、日本がイスラームを国教とする用意があるといった根拠のない噂が流布した。しかし、本稿で紹介した文書は、日本のイスラーム化という発想が、より以前の時期に遡り、アブデュルハミト二世がその初期の提唱者の一人であったことを示している。いずれにしてもこの発案は実現せず、その後もスルタンが日本に宗教指導者を派遣することはなかった。しかし、エルトゥールル号事件の生存者と遺族への義捐金を届けにイスタンブルに渡った時事新報記者野田正太郎が、しばらく後にイスラームに改宗すると、彼の帰国とともに日本にウラマーが派遣されて改宗が進められていると外国の新聞で報道された。その意味でアブデュルハミト二世は、ウラマーを派遣せずに、派遣したのと同じ効果を国際世論に反映させることに成功したのである。日本へのウラマー派遣の試みもまた、その意味でアブデュルハミト二世のイメージ政策の枠組みのなかで理解されるべきであろう。
著者
小澤 弘明 栗田 禎子 粟屋 利江 鈴木 茂 橋川 健竜 秋葉 淳
出版者
千葉大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2008

本研究は、歴史学の立場から新自由主義時代を把握し、新自由主義の同時代史的分析にとどまらず、古典的自由主義時代からの連続面と断絶面の双方を明らかにした。また、新自由主義の世界史を構想するさいの方法として、新帝国主義という視角を検証し、それが構造化の特徴を把握するさいに有効であることを確認した。また、社会史研究、ファシズム研究の方法を新自由主義の研究に応用する視点を確立した。
著者
宇山 智彦 秋田 茂 山室 信一 川島 真 守川 知子 池田 嘉郎 古矢 旬 菅 英輝 粟屋 利江 秋葉 淳
出版者
北海道大学
雑誌
新学術領域研究(研究領域提案型)
巻号頁・発行日
2008

近代ユーラシアの諸帝国を比較し、帝国権力と現地社会の非対称な相互作用、帝国間競争における小国や越境集団の役割、周縁・植民地の近代化、そして20 世紀の帝国崩壊と脱植民地化の多様な展開を論じた。現在の地域大国は半帝国・半国民国家的な性格を持ち、かつての帝国の遺産と記憶に大きな影響を受けている。情報の不完全性のもとでの権力と少数者集団の駆け引きを論じる帝国論の方法は、現在の大国・小国関係の分析にも役立つ。
著者
山田 賢 久留島 浩 岩城 高広 安田 浩 秋葉 淳 趙 景達 佐藤 博信 菅原 憲二 安田 浩
出版者
千葉大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2008

本研究においては、北東アジア(具体的には中国・朝鮮、そして日本を対象として想定している)の近代移行期における国民国家の形成について比較研究を行った。それぞれの地域の事例について文献調査を実施したほか、浙江工商大学日本文化研究所、武漢大学日本研究中心の研究者と共同研究会を開催して検討を行った。その結果、北東アジア各地域における国民国家は、それぞれの地域において育まれた近世伝統社会における社会関係を基体として出現したことを明らかにした。
著者
秋葉 淳
出版者
千葉大学
雑誌
若手研究(B)
巻号頁・発行日
2008

本研究は、19世紀オスマン帝国の改革を、中央政府と地方社会の相互作用の結果として生じたものとして捉え直すものである。その主たる成果として、地方評議会の機能、地方反乱の性格や背景、地方住民の官僚機構への進出などを分析し、地方住民が国家の政策に影響を及ぼす、あるいは、国家システムに参入する回路についてその具体的諸相を明らかにしたほか、中央政府が地方行政の問題に関する政策決定過程において地方官らに諮問する手続きがとられたことや、1845年の地方代表者会議に見られるように、地方有力者の協力を得るために周到な準備をしていたことなどを見いだした。
著者
小沢 弘明 大峰 真理 上村 清雄 橋川 健竜 秋葉 淳 後藤 春美
出版者
千葉大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2005

本研究の目的は、近現代ヨーロッパにおける中心=周縁関係の再編過程を分析することであった。この研究では二つの側面を重視した。第一は、ヨーロッパ内部の地域的な不均等発展を分析することである。この側面では、ルネサンス・イタリアにおける中心=周縁関係をフィレンツェとシエナめ関係に見る研究、ハプスブルク君主国とオスマン帝国内における中心=周縁関係から分析する研究を行った。第二は、ヨーロッパ概念の特質と、近代世界における構造化の中でヨーロッパの位置を探る研究である。本研究では、両大戦間期の国際社会における中心=周縁関係の議論をイギリス帝国を中心に分析する論考、植民地期の北アメリカを帝国史や大西洋史(アトランティック・ヒストリー)などの研究動向から分析する論考、18世紀フランスにおける奴隷貿易を基軸にヨーロッパ=アフリカの通商関係を再考する論考を準備した。本研究ではまた、いくつかの方法論上のアプローチも検討に付した。それは、「域内周縁」理論、 「境界地域」理論、ハプスブルク君主国やオスマン帝国について最近行われているカルチュラル・スタディーズやポストコロニアル・スタディーズからの議論である。EUの東方拡大と新自由主義による世界の構造化が進んでいる現在、とりわけ周縁の位置からヨーロッパの歴史的位置を解釈することは不可欠である。そのような視点を取ることは、帝国論や、新帝国主義論、新自由主義論などに関するわれわれの理解を深化させることになろう。本研究ではさらに、主題に関する今後の研究の基礎を拡大するためにデータベースの作成を行った。これらを利用することによって、近現代ヨーロッパ史を、これまでとは異なった観点で分析していくことが可能となろう。
著者
秋葉 淳
出版者
日本中東学会
雑誌
日本中東学会年報 (ISSN:09137858)
巻号頁・発行日
no.13, pp.185-214, 1998-03-31

Bilindigi gibi, Osmanli Devleti'nde ulema sinifi, hiyerarsik bir teskilat olarak orgutlenmistir. Dar anlamda Ilmiye teskilati, tarik-i tedris ve tarik-i kaza'dan olusturulmus olup Seyhulislam bu teskilatin en yuksek mevkiinde bulunmustur. Yargiclik ve ogretim gorevini orgutleyen Ilmiye teskilati, ayni zamanda Padisah tarafindan bahsedilen 'ayricalik ve onur'un tahsis duzeni olarak da nitelenebilir. Ulema sinifinin ozerkligi, ayricaligin saglanmasiyla birlikte gelismistir. Bu siki hiyerarsi (kurallara uygun atama ve terfi usulu), ulema atamalarinda dis yetkililerin mudahalelerinin onlenmesini sagliyordu. Ayrica Ilmiye teskilati'ni,'gelir kaynaklarinin tahsis duzeni' olarak nitelemek gerekir. Kadilar mahkeme harglarini, muderrisler vakif ucretini alma hakkini kazaniyorlardi. Bu yuzden istekliler ulema mesleginde yogunlasmistir. Bu acidan siki hiyerarsik sistem, aday kalabalikligini kontrol etmek icin kurulmus denebilir. Bu mesleklerin gelir kaynagi olma niteliginin dogal sonucu olarak itibari memuriyetler meydana gelmistir. Itibari paye sahibine tahsis edilen kadilik geliri olan arpalik, bu gelismeyi anlatan en iyi orneklerdendir. Kadilik gorevi cogu zaman naib tarafindan yerine getirildigi gibi, muderrisler de artik atandiklari medreselerde ogretmenlik yapmiyorlardi. Muderrislik gorevini haiz olanlarin cogu camilerde dersiamlik yapiyorlarsa da, daha cok kazanc isteyenler, kadi naibligi, veya Seyhulislam ve Kazasker gibi yuksek rutbeli ulemanin dairelerinde katiplik vazifelerini goruyorlardi. Naiblikler ve katiplikler, cogu kez rutbe sahipleri ile kisisel iliski kuranlara tahsis ediliyordu. XVIII. yuzyildaki bazi buyuk ilmiye ailelerinin hakimiyeti, yukarida anlatilan Ilmiye teskilatinin niteliklerinden meydana gelmistir. Ilmiye teskilati reformu 1826 yilinda baslamistir. Bu yil eski Aga Kapisi, Seyhulislam dairesine (Bab-i Fetva) cevrilmistir. Daha once Seyhulislam, Kazasker, ve Istanbul Kadisi, kendi konaklarinda gorev yaparlardi. Resmi ofislerin kurulusundan sonra buralarda hizmet eden katipler, resmi memur sifatini almislardir. Bab-i Fetva giderek burokratik bir orgute dogru gelismistir. 1855 yilinda Tevcihat-i Menasib-i Kaza Nizamnamesi ve Nuvvab hakkinda Nizamname ilan edilmistir. Birincisi kadilik verilmesi hakkinda ayrintili bir duzen kurmussa da kadilik artik sirf itibari rutbe haline gelmisti. Naiblik ise kadiligin yerine fiili ser'i hakimlige cevrilmistir. 1854 yilinda Mu 'allimhane-i Nuvvab (Mekteb-i Nuvvab) ve sonra Meclis-i Intihab-i Hukkamu's-ser'(Ser'i Hakimler Secim Meclisi) kurulup naiblerin secim usulu duzenlenmistir. 1864 tarihli Vilayet Nizamnamesi'nde her vilayete mufettis-i hukkam atanmasi usulu konulduktan sonra 1872 tarihli Mahakim-i Nizamiye hakkinda Nizamname ile her vilayet, sancak ve kazaya naib atanmaya baslanmistir. Ser'i mahkemenin yargi usulu de turlu talimatnameler ile islah edilmistir. Naiblik teskilatinin kurulmasinin yani sira yeni yargi sistemi (mahakim-i nizamiye teskilati) kuruldugundan naibin yetkisi azalmisti. 1888 tarihli irade-i seniyede ser'i ve nizami mahkemelerin gorevlerinin ayrilmasi belirlenmistir. Ser'i mahkemelere sadece evlenme, miras ve vakifla ilgili idare ve yargilama yetkisi birakilmistir. Fakat nizami mahkemelere atanacak hakimler suratle yetistirilemediginden naibler onlarin gorevlerini de yapmislardir. Kaza bidayet mahkeme reisligi ve sancak ve vilayet mahkemesi hukuk dairesi reisliginin bir cogu, Imparatorlugun sonuna kadar naiblere havale edildi. 1909 yilinda Beyanu'l-hak dergisinde "Cem'iyet-i Ilmiye-i Islamiyenin Hukkamu's-ser' Kismi tarafindan Meb 'usan-i Kirama takdim olunan Idyihadir" adli reform tasarisi yayimlanmistir. Tasari, mahkeme usulunun duzenlenmesi ve naib seciminde Mekteb-i Nuvvab mezunlarinin tercih edilmelerini temel amac almistir. Bu tasarida onerilenlerin bir kismi II. Mesrutiyet doneminin ilk yillarinda gerceklestirilip, mektepli olmayan naibler imtihana tabi tutulmaya baslanmistir. Sonunda 1913 tarihli Hukkam-i Ser' ve Me'murin-i Ser'iye hakkinda Kanun-i Muvakkat ile mektepli naiblerin taleplerinin cogu yerine getirilmistir. 'Naib' adi 'kadi'ya cevrilmistir. Butun ilmiye memurlarinin atanmalarinda rutbelerinin goz onunde bulundurulmamasi ve Bab-i Fetva'ya katib alinmasi durumunda Medresetu'l-kuzat (eski Mekteb-i Nuvvab) mezunlarinin baskalarina tercih edilmeleri kurallastirilmistir. Naiblikte reform surecinin bir sonucu olarak, mezuniyetinin sagladigi uzmanliga guvenerek statusunun emniyetini ve ilerleme imkanlarini sorgulayan -ve Padisah tarafindan bahsedilen onur ve ayricalik sayesinde serbestlik saglanan ulemadan tamamen farkli olarak-, yeni bir ulema tipi dogmustur. Bu yeni ulema mulki memurlara daha yakinlasmis ve 1917 yilinda Ser'i mahkemeler Adliye Nezareti'ne baglandigi zaman bunu memnuniyetle kabul edenler bile bulunmustur. Yukarida anlatilan gelismenin yani sira Ilmiye teskilatinin daha ziyade dini islerle ilgilenme yolundaki degismesi de gozlenebilir. Bab-i Fetva'da kurulan Meclis-i Mesayih (Tarikat Seyhleri Meclisi), Teftis-i Mesahif-i Serife Meclisi (Mushaflar Teftis Meclisi) ve Tedkik-i Mu'ellefat-i Ser'iye Hey'eti (Ser'i Eserler Inceleme Heyeti) bunun en iyi orneklerindendir. Medreseler de dini bilimlerin ogretim organi olarak nitelenmislerdir.