- 著者
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大坪 玲子
- 出版者
- 日本文化人類学会
- 雑誌
- 文化人類学 (ISSN:13490648)
- 巻号頁・発行日
- vol.78, no.2, pp.157-176, 2013-09-30
経済学やバザールを扱う諸学では、情報の非対称性が取引にもたらす非効率性を解消する方法として信頼関係が注目されてきた。本稿は、情報の非対称性下において、信頼関係よりもずっと不安定な一見関係や顔見知りの関係が経済主体に選択されるイエメン共和国のカート市場の事例を紹介する。新鮮な葉を噛むと軽い覚醒作用がもたらされるカートは、イエメンでは嗜好品として午後の集まりに嗜まれている。カートの流通には近代化が及んでいないものの、早朝収穫されたカートがその日の昼前に市場に並び、午後には消費されてしまうという非常に効率的な流通経路が確立されている。カートの流通に関わる経済主体にとって重要なのはカートの品質に関わる情報であるが、これは生産者>商人>購入者という不等号で表せる。生産者と商人、商人と購入者の関係を見ると、情報弱者(商人、購入者)は情報強者(生産者、商人)に対し顧客関係よりもむしろ多くの顔見知り程度の関係や一見の関係を維持しようとする「浮気性」であり、一方情報強者は可能であれば情報弱者と顧客関係を築きたいが、情報弱者の「浮気性」を知っているために自らも「浮気性」にならざるを得ない。もちろん「浮気性」だからといって何をしてもよいということではなく、経済主体はみなそれぞれの商売相手に誠実でなければならず、中でもカート商人は最も「浮気性」であり誠実でなければならない。カート市場において経済主体の間の関係は、一見関係、顔見知りの関係、顧客関係と変化している。従来のバザール研究は商人が圧倒的な情報強者であり、そのため長期的で安定的な信頼関係が注目されすぎてきたのではないかと、カート市場の事例を通して見ると思えるのである。