- 著者
-
西田 彰一
- 出版者
- 国際日本文化研究センター
- 雑誌
- 日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
- 巻号頁・発行日
- vol.58, pp.139-167, 2018-11-30
本稿では筧克彥の思想がどのように広がったのかについての研究の一環として、「誓の御柱」という記念碑を取り上げる。「誓の御柱」は、一九二一年に当時の滋賀県警察部長であり、筧克彥の教え子であった水上七郎の手によって発案され、一九二六年に滋賀県の琵琶湖内の小島である多景島に最初の一基が建設された。水上が「誓の御柱」を建設したのは、デモクラシーの勃興や、社会主義の台頭など第一次世界大戦後の急激な社会変動に対応し、彼の恩師であった筧克彥の思想を具現化するためであった。 水上の活動は、国民一人一人に国家にふさわしい「自覚」を促すものであった。この水上の提唱によって作り出された記念碑が、国民精神の具現化であり、同時に筧の思想の可視化である「誓の御柱」なのである。この記念碑の建設運動は、滋賀県に建てられたことを皮切りに、水上が病死した後も彼の友人であった二荒芳徳や渡邊八郎、そして筧克彥らが結成した大日本彌榮會に継承され、他の地域でもつくられるようになった。こうした大日本彌榮会の活動は、特に秋田の伊東晃璋の事例に明らかなように、宗教的情熱に基づいて地域を良くしたいという社会教育に取り組む地域の教育者を巻き込む形で発展していったのである。 この「誓の御柱」建設運動の真価は、明治天皇が王政復古の際に神々に誓った五箇条の御誓文を、国民が繰り返し唱えるべき標語として読み替え、それを象徴する国民の記念碑を建てようと運動を展開したことであろう。筧や水上たちは、国民皆が標語としての御誓文の精神に則り、建設に参加することで、一人一人に国家の構成者としての「自覚」を持たせ、秩序に基づいた形で自らの精神を高めることを求めたのである。そしてこの大義名分があったからこそ、「誓の御柱」建設運動は地域の人々の精神的教化の素材として伊東たち地域で社会教育を主導する人々にも受け入れられ、日本各地に建設されるに至ったのである。