著者
西田 彰一
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.58, pp.139-167, 2018-11-30

本稿では筧克彥の思想がどのように広がったのかについての研究の一環として、「誓の御柱」という記念碑を取り上げる。「誓の御柱」は、一九二一年に当時の滋賀県警察部長であり、筧克彥の教え子であった水上七郎の手によって発案され、一九二六年に滋賀県の琵琶湖内の小島である多景島に最初の一基が建設された。水上が「誓の御柱」を建設したのは、デモクラシーの勃興や、社会主義の台頭など第一次世界大戦後の急激な社会変動に対応し、彼の恩師であった筧克彥の思想を具現化するためであった。
著者
西田 彰一 Shoichi NISHIDA ニシダ ショウイチ
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科
雑誌
総研大文化科学研究 (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.12, pp.37-53, 2016-03

筧克彦は独自の神道思想を唱えたことで著名であり、かつ数多くの植民地官僚や神社関係者、農業移民の指導者に影響を及ぼした人物である。しかし、これまで筧が植民地に対してどのように向き合ったのか、その活動を具体的に検討した研究はなかった。そこで、本稿では筧克彦の植民地における活動の事例を分析することを試みる。特に、これまでまとまった研究がない満州での活動を中心にその全体像を明らかにしたい。まず第一章では筧の朝鮮半島訪問から、筧の植民地に対する基本的な立場をみる。続く第二章では、台湾訪問の際の講演から、筧の植民地序列化の論理を検討する。さらに第三章と第四章では、最も大きな足跡を残した満州での活動から、筧が植民地に対して実際にどのような役割を果たしたのかを論じる。そして最後に、筧がなぜ植民地で内地出身のエリートたちに支持されたのかを明らかにする。筧は内地と植民地を分け隔てなく考えた人物であるとされている。だが、基本的には(優れた日本対遅れた植民地)の二項対立にたっており、植民地の人々は教化の対象であった。彼の台湾での講演に代表されるように、筧は日本と植民地の序列をつくり、天皇崇敬の名のもとに帝国を統合しようと試みた人物であった。こうして、筧は教化の立場から植民地と向き合っていた。それでは、筧は実際の植民地の問題に直面した時、どのように対応したのであろうか。これについては、「満州国」における彼の活動が最も参考になる。筧は建国大学の創設委員を務め、さらに彼は満州国皇帝溥儀に進講をしている。筧の考えでは、満州の文化は朝鮮よりも優れている。だが、台湾よりは劣るものであった(台湾>満州>朝鮮)。そして、満州移民は日本の精神を満州に伝える役割を果たすとされた。しかし、その一方で、実際に植民地と接する場面では思うような成果を発揮できていない。筧は建国大学の創設委員であったが、筧の思想は満州国の日本人官僚たちに拒絶された。また、溥儀への進講も、「満州国」をあからさまに日本の天皇の下に置くものであったので、到底受け入れられるものではなかった。これでは、筧は結局植民地の実態に影響を与えなかったと看做すことができるかもしれない。だが、筧はその思想の固さ故に本土出身のエリートから信頼された。筧は天皇を仰ぐ日本古来の神道(古神道、神ながらの道)は生命すべてを天皇の下に輝かせる宗教であり、それを信じれば皆がまとまると戦後に至るまで一貫して主張していた。筧自身が植民地に抱いた率直な感想は優れた日本人対劣った植民地の人間というものであった。だが、そのように精神的に経済的に劣った植民地人であるからこそ、日本から来た内地人が模範として振舞い、教化しなければならないと説き続けたのであった。筧が植民地に与えた本当の影響とは、彼ら内地出身のエリートに自己正当化の知的枠組みを与えたことにあると言えるだろう。この「内向き」の知的枠組みこそが、却って彼らを勇気づけ、日本人のコミュニティーの中だけで通じる自己正当化のアイデンティティーの形成を手助けしたのである。Kakei Katsuhiko is well-known for his advocacy of a unique Shinto philosophy and had a considerable influence on colonial government officials, Shinto shrine administrators and agricultural emigration leaders. In spite of his substantial influence, there have been no specific researches on the effect he had on Japanese colonies. The present study aims to review and analyze Kakei's activities in Japanese colonies with special focus on those in Manchuria.In the first section, Kakei's fundamental stance on the colonies is reviewed with reference to his visit to the Korean Peninsula. In the second section, Kakei's hierarchical theory of the colonies is examined using a lecture he gave in Taiwan. The third and fourth chapters deal with the roles Kakei actually played in Manchuria, on which he left a major mark. Finally, I look at the reasons why Kakei was admired by the elite class in the colonies who has been sent out from the Japanese mainland.Kakei is said to be a person who did not discriminate between the colonies and mainland Japan, but his view was clearly rooted in the then-prevailing idea of "a superior Japan and inferior colonies"; thus, for Kakei, people in the colonies had to be cultivated. He attempted to establish a hierarchy between Japan and its colonies in the name and to the glory of the Emperor.In order to learn how Kakei responded to actual issues in the colonies, I look at his activities in Manchuria. Kakei served the Kenkoku Daigaku (National Foundation University) in Manchuria as a founding committee member. He also delivered lectures in the presence of the Puyi, the Emperor of Manchukuo. From his point of view, Manchurian culture was superior to that of Korea but inferior to that of Taiwan. He also believed emigrants from the Japanese mainland should play an important role in conveying Japanese spirit to Manchuria. However, he failed to produce the results expected of him in Manchukuo. Although he was a founding member of the Kenkoku Daigaku, his ideas were ultimately rejected by Japanese government officials in Manchukuo. Also, his lectures in the presence of Puyi were totally unacceptable to the Manchurians as Kakei outspokenly defined Manchukuo as a subordinate country under the rule of the Japanese Emperor.The paper concludes that Kakei did not actually have much influence on realities in Japan's colonies. Nonetheless, Kakei was admired for his solid and unwavering stance by elite officials sent from the mainland. Kakei consistently asserted that Japanese ancient Shinto (Ko-Shinto, centered on the philosophy of "kan nagara no michi") is a religion that leads all living beings to shine under the glory of the Emperor and that the empire could only be united when all its people believed in Shinto. His view of the people in the colonies being spiritually and economically inferior to people on the Japanese mainland led him to advocate that Japanese emigrants should beco role models for the local people. Kakei's chief contribution to the colonies appears to have been the establishment of an intellectual framework for self-justification of the emigration of an elite class from the Japanese mainland. Such an "inward-looking" intellectual framework helped forge an identity only valid in Japanese communities themselves, but unacceptable elsewhere.
著者
西田 彰一
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.58, pp.139-167, 2018-11-30

本稿では筧克彥の思想がどのように広がったのかについての研究の一環として、「誓の御柱」という記念碑を取り上げる。「誓の御柱」は、一九二一年に当時の滋賀県警察部長であり、筧克彥の教え子であった水上七郎の手によって発案され、一九二六年に滋賀県の琵琶湖内の小島である多景島に最初の一基が建設された。水上が「誓の御柱」を建設したのは、デモクラシーの勃興や、社会主義の台頭など第一次世界大戦後の急激な社会変動に対応し、彼の恩師であった筧克彥の思想を具現化するためであった。 水上の活動は、国民一人一人に国家にふさわしい「自覚」を促すものであった。この水上の提唱によって作り出された記念碑が、国民精神の具現化であり、同時に筧の思想の可視化である「誓の御柱」なのである。この記念碑の建設運動は、滋賀県に建てられたことを皮切りに、水上が病死した後も彼の友人であった二荒芳徳や渡邊八郎、そして筧克彥らが結成した大日本彌榮會に継承され、他の地域でもつくられるようになった。こうした大日本彌榮会の活動は、特に秋田の伊東晃璋の事例に明らかなように、宗教的情熱に基づいて地域を良くしたいという社会教育に取り組む地域の教育者を巻き込む形で発展していったのである。 この「誓の御柱」建設運動の真価は、明治天皇が王政復古の際に神々に誓った五箇条の御誓文を、国民が繰り返し唱えるべき標語として読み替え、それを象徴する国民の記念碑を建てようと運動を展開したことであろう。筧や水上たちは、国民皆が標語としての御誓文の精神に則り、建設に参加することで、一人一人に国家の構成者としての「自覚」を持たせ、秩序に基づいた形で自らの精神を高めることを求めたのである。そしてこの大義名分があったからこそ、「誓の御柱」建設運動は地域の人々の精神的教化の素材として伊東たち地域で社会教育を主導する人々にも受け入れられ、日本各地に建設されるに至ったのである。