- 著者
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太田 麻衣子
- 出版者
- 史学研究会 (京都大学大学院文学研究科内)
- 雑誌
- 史林 (ISSN:03869369)
- 巻号頁・発行日
- vol.98, no.2, pp.354-387, 2015-03
江蘇省淮安市から出土した運河村墓は戦国中後期の境に造営された楚国の墓とされ、楚が前四世紀末には[カン]溝以東まで支配を拡大していた証左とされた。しかし本稿では同墓が土着の習俗を保持した楚墓とは異質な墓であることを指摘し、江東の情勢と比較することで、淮安に楚の実効支配が及んだのは戦国後期以降だったことを明示した。つまり戦国中期には楚が淮河・長江両下流域をも支配するようになっていたとする従来の認識は誤っており、春秋戦国に江漢地区で栄えた楚と秦末漢初に江淮地区で興った楚とを単純に同一視することはできないのである。秦末に楚の勢力として挙兵した人々のなかには戦国時代に楚の支配を短期間しか受けていない地域の人々も少なくなかったのであり、淮安出身の韓信もその一人だった。彼らが楚のもとに結集した一要因としては楚文化の共有が指摘でき、今後は漢帝国の成立に楚文化が果たした役割について考えていく必要がある。