著者
伊勢田 哲治
出版者
名古屋大学情報科学研究科情報創造論講座
雑誌
Nagoya journal of philosophy (ISSN:18821634)
巻号頁・発行日
no.15, pp.14-32, 2021-06-14

クリティカル・シンキングの主な吟味の対象は理由つきの主張であるが、果たしてフィクション作品はそうした吟味の対象となりうるだろうか。「反戦映画」などの概念が普通に受け入れられていることからすれば、あるフィクションが、たとえば「戦争は悲惨であるからやめるべきである」といった理由つきの主張をするとみなされることは十分ありそうである。他方、架空の物語を語ることが現実世界について「理由つきの主張をする」という行為でもありうるというのは奇妙でもある。本論文ではフィクション作品は果たしてクリティカル・シンキングの対象となるような理由つきの主張を行うか、そしてもし行うとすれば、それはどうやってか、という問題を考える。この問題は、フィクションが主張を行うというのがある意味ではあまりに当然であるために、これまであまりきちんと分析されてこなかったように思われる。この問いはいくつかの副次的な問いから構成される。一つはフィクションを語ることが同時に現実世界について何かを主張することでもあるということが(いかにして)可能か、という問いである。第二は、その主張が理由つきの主張となるのはどのような場合か、という問いである。さらに、第一の問いへの答えは、フィクションが何を主張するのかを主に決めるのは何か(作者の意図か、作品そのものか、受け手か、何か他のものか)という第三の問いとも深いかかわりを持つ。第二の問いについては、まず、フィクションが主張するとき、必ずしも理由がついているとは限らないことが指摘される。また、その主張が現実世界についてのものである以上、フィクション内で提示された情報がそのままその理由となるのは難しい。「戦争は悲惨であるからやめるべきである」といった理由つきの主張がフィクションに帰せられる場合、フィクション内の出来事が現実世界の出来事を映しているという了解が成り立つことが不可欠となる。フィクションにおける理由つきの主張を以上のように理解したとき、第三の問いへの答えとして、主張内容を作者や作品が一方的に決めるという考え方は正当化が難しくなる。かといって受け手が一方的に決めるわけでもない。フィクションのさまざまな側面と主張内容をつなぐ推意が成立しているか、またどのような推意が成立するか、という、フィクションをとりまく状況が主張内容や主張の構造の特定の上で重要な役割を果たすはずである。以上の考察の有効性を確かめるための事例として本論文で取り上げるのは映画『スターシップ・トゥルーパーズ』(バーホーベン監督、1997) である。本作品は未来のファシズム国家と昆虫をモチーフとした異星人との戦争を描く。公開時はファシズムを肯定する好戦的な映画として批判されたが、監督やスクリーンライターの意図はまったく逆であったことが明らかとなっている。本作品の内容を本論文の観点から分析すると、いくつかの特徴が、製作者側の意図するような推意を成り立たせる妨げになっていることがわかる。『スターシップ・トゥルーパーズ』はファシズムを肯定するという主張をしているのだろうか、ファシズムを否定するという主張をしているのだろうか、それを決めるのは誰(何)なのだろうか。

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