著者
クラーマー スベン
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.126, no.8, pp.54-76, 2017 (Released:2018-10-20)

1953年10月から実施された「昭和の大合併」は日本の第2次大規模市町村合併政策である。それは各都道府県の市町村を対象にし、市町村の数を3分の1に減らすという目標で実施された。主な目的は戦後の地方行政団体(兼自治体)の財政危機の解決だとされている。この「昭和の大合併」において以前には存在していなかった新しい市が数多く誕生した。その中では奈良県天理市が注目すべき事例である。 天理市は1954年4月1日に発足した。その前身町村は山辺郡丹波市町、同郡二階堂村、同郡朝和村、同郡福住村、磯城郡柳本町、添上郡櫟本町である。「天理」という市名の由来は新宗教団体の天理教である。天理教は1838年に発祥し、その本部は教祖中山みきの故郷である丹波市町の三島地区にある。天理教は19世紀末から丹波市町の発展に貢献し、天理教の巡礼などが町の経済発展を支えてきた。「昭和の大合併」の際、新市を天理教にちなもうとしたのである。 『改訂天理市史』は天理市を誕生させた合併について詳しく説明せず、問題点がなかったかのように協議の要点と市の発足だけ述べている。しかし、現地の行政資料と新聞記事を確認すると、天理市の発足を危うくするほどの問題点があったことが分かる。具体的には二階堂村と櫟本町が一時的に天理市合併に参加しない方針を示し、さらに「天理市」という名称を採用するために天理教の許可が必要であったが、合併協議会の議論でこの許可が下りるかについては、確実ではなかった。本論は以上の問題点とその解決を説明した上、天理教の役割について検討し、「昭和の大合併」中の天理市合併の意味について考察する。先行研究において宗教は合併に対して大きな要因として扱われていないが、天理市の事例が示すよう、場合によって宗教が重要な役割を果たせる。